第2話「深き眼の書記」
序章:記録される者たち
東ベルリンの朝は、どこか剥がれ落ちたポスターのように色褪せている。灰色の空、油の匂いを含んだ空気、そして無言の監視。それは冷たい石畳を歩くエフゲニア・ヴォルコワの足音にすら反響を返さない。
エフゲニアは語学の専門家であり、表向きは大学付属の研究室に勤める学者。だがその実態は、ソビエト連邦の諜報機関――国家保安省のために動く“耳と舌”だった。
今回与えられた任務は、旧ナチス時代に封印されたままになっていた“特異資料”の調査だった。その資料は、かつて宗教的異端として破却された修道院の地下から発見されたという。
「奇書」「記録」「言語ではない記述」――曖昧な文言が連なる命令書には、明確な危険の匂いがあった。
修道院跡の地下室に踏み入った瞬間、空気が変わった。塵と黴、そして焼けた石材が混ざる匂いの奥に、どこか湿った“視線”のようなものを感じた。
そこには金属の箱が置かれていた。封印は解かれ、埃をかぶったまま中に沈んでいたのは、一冊の書。
厚い装丁は苔むし、表紙の革には、読み取れない文字が刻まれていた。ただひとつ、乾いたようなインクで何度も何度もなぞられたタイトルがあった。
《眼の記録者》
その瞬間、空気が呼吸を止めたように思えた。
第二章:夢言語と沈黙の窓
書を持ち帰った夜、エフゲニアは不穏な夢を見た。
彼女は冷たい石の回廊を歩いていた。照明はなく、天井から滲み出る淡い光が彼女の影だけを引き延ばしていた。石壁には、目のような図形が刻まれている。まるでそれぞれが異なる“瞬き”を表現しているかのように、位置も数も不規則だった。
壁の奥から、声とも息ともつかぬ“風”が吹いてくる。それは何かを語ろうとしている――だが彼女には、その音が言語ではなく“構造”そのものに聞こえた。
ふと足元を見ると、水面のようなものが広がっていた。そこには、彼女自身が本を読んでいる姿が、逆さまに映っている。
彼女が目を覚ましたとき、部屋は真っ暗だった。しかし、目が慣れるより早く、書の表紙がうっすらと発光していた。
それからというもの、日を追うごとに変化は加速していった。
まず、言葉がうまく出なくなった。口を開いても、音が意味に辿りつかず、滑っていく。資料を読むと、文字が波打ち、まるで自身を読ませまいとするかのように視線を逸らせた。
同僚との会話も困難になり、特に録音機材の前に立つと、彼女の声だけが「歪んだ金属音」に変換されて記録された。
ソ連本部から新たな指示が届いた。調査中の書について、正式な報告と転送を要求する内容だった。
だが――エフゲニアには、どうしても手放すことができなかった。
なぜなら、あの書は彼女にこう語ったのだ。
「君は、まだ“記録”されていない」
第三章:観測者の耳
書から発される光は日を追うごとに強くなり、まるで意思ある灯火のように彼女を導いていた。エフゲニアは、外界の騒音が“記録”にとっての妨げであると本能的に察していた。だから、彼女は耳栓をし、部屋を暗くし、ただ書に集中した。
次第に、夢の中で見るものが変わっていった。
そこは聴覚しか存在しない場所だった。視覚はなく、空間も形もなく、ただ無数の記憶が「音の気泡」として浮かぶ海が広がっていた。その海に潜るたび、彼女は断片的な声、嘆き、祈り、異国語の囁きといった“記録”の痕跡を聴いた。
とある夢の夜、彼女は一本の黒い柱の前に立っていた。それは音でできた物質――振動する音響石のようなもので、そこに刻まれていたのは、存在しなかったはずの未来の記憶だった。
「君は選ばれたわけではない。ただ“空いていた”。」
その声は、男女の区別も年齢もなく、概念が直接耳元に語りかけるような響きだった。
現実に戻った彼女は、奇妙な発作に見舞われた。言語中枢の混乱、幻聴、そして他人の思考が“音”として押し寄せてくる現象。
地下鉄に乗れば、車両全体の“沈黙”が頭の中で爆音に変わった。誰かが心中で思った言葉が、風のように吹き抜ける。
そして、ある日彼女は気づいた。
“言語”とは、音ではなく「観測そのもの」だったのではないか。
「眼の記録者」は、見つめることで世界を保存する存在ではない。“耳”で聴き、それをそのまま世界に刻む者。
そのためには、聞く者の自我が薄くなければならなかった。記録媒体に、意志があってはならない。
その夜、彼女は最後の夢を見た。
そこでは、膨大な神殿の列柱の下で、無数の人々が沈黙のまま横たわっていた。彼らの口は閉じ、目も閉じられていたが――その耳だけが大きく開いていた。
第四章:記述されざる文字の碑
連絡が途絶えたエフゲニアに対し、国家保安省は事態の掌握に動いた。
ある夜、彼女のアパートにスーツ姿の男たちが静かに現れた。隣室の壁越しに何かが壊れる音がし、次いで床をひきずる音。その後、部屋は空っぽだった。
だが、現場の報告書には奇妙な注釈があった――録音機器はすべて“音を拒んだ”。つまり、何も記録されていなかった。テープは回転していたが、無音。さらに奇怪なことに、彼女が使用していた旧式のタイプライターのキーには、通常には存在しない「耳のような記号」が掘り込まれていた。
担当した調査官も、その後異動になったまま消息が知れない。
その頃エフゲニアは、地下トンネル網の深層にいた。第二次大戦中に使用された旧ドイツ軍の秘密回廊で、地図にも載っていない空間。その最奥に、彼女はそれを見つけた。
文字ではない碑文。
高さ2メートルを超える黒い石板。それはまるで溶岩のような肌を持ち、表面に掘られた凹凸は、読むためではなく**“聞くため”の書物**だった。
彼女は碑に手を触れた。
すると、鼓膜の内側で世界が“反転”する。
周囲の音が消え、自分の鼓動までもが遠ざかる。代わりに響いてきたのは、あらゆる時代の“記録されなかった声”だった。
泣き声、誓い、裏切り、信仰、呪詛、忘れられた名――それらが混ざり合い、ひとつの構文を成した。
碑に刻まれていたのは“言語”ではない。
**「認識そのものの記述」**だった。
エフゲニアは、その構文の流れに身をゆだねた。そしてついに、彼女は自らの記憶、思考、時間軸を解き放ち、“記録”という存在そのものになった。
そのとき、碑の上部に微かな振動が走り、新たな線が刻まれていくのを彼女は知覚した。
それは、彼女の名だった。
第五章:頁なき書、眼なき者
碑に名を刻まれた瞬間、エフゲニアの知覚は一変した。
時間は線ではなく球体のように感じられ、過去と未来が同時に“耳元で囁いて”いた。彼女は既に「観測者」ではなかった――観測される構文そのものと化していた。
皮膚は石になり、声は風に置き換わる。思考は記述され、記憶は読まれる。自我の境界が解け、“眼の記録者”の意識が彼女の中で開いた。
そのとき、突如として頭上に振動が走った。外界で何かが動いている――誰かが、ここに来ようとしていた。
書は、彼女に最後の選択を提示した。
「残るか、伝えるか」
彼女は、ポケットの中に入れていた小型の録音装置を手に取った。それはまだ無音だったが、今なら、違う。
彼女は囁くように、かすかな音を吹き込んだ。それは言葉ではなかったが、音そのものに意味を抱かせる記号だった。
「……Я здесь, и я слушаю.(わたしはここにいて、聞いている)」
すべてが暗転した。
◇
数年後――東ベルリンの地下工事中、旧トンネル内から封印された空間が発見された。
そこには黒い石碑があり、近くの床には古びた録音装置が落ちていた。装置の中のテープは劣化していたが、再生された音には、ごく微細な“囁き”が刻まれていたという。
調査報告書は、再び白紙のまま封印された。
だが数日後、分析を担当していた音響研究員が、録音に含まれる周波数の中に明確な“視線の位置”を感知したと主張して姿を消した。
彼の最後の言葉はこうだった。
「それは、今も聞いている――おまえを、私を、すべてを」
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