6-3-1/2 41 アルバイトの乙女座
ガシャーン……
エステサロンの施術室に、ガラスの割れる音が響き渡る。
その瞬間朧げだった舞の意識が一気に戻り、慌てて音の聞こえた床へと目線を落とす。
そこには既に割れたアロマオイルの瓶が散乱し、ボトルの中身の黄色い液体がゆっくりと広がり始めていた。
「あぁ……」
思わず情けない声が出た。
20年ほど前のアルバイト時代以来のミスである。
しかしパニックになってしまった当時とは違い、今では冷静な判断が出来るようになっていた。
オイルの補充前だったのが幸いだ。ボトルに残っていた2割程度の量しか損害は無い。
開店まで残り10分程度だが、出勤済みの従業員の手を借りれば事なきを得そうだ。
「スピカちゃーん。ちょっとこっち手伝ってくれな――」
「あらら舞さん。やっちゃいましたか〜」
サロンの控室へと振り向きざまに呼びかけたものの、その必要も無かったようだ。
学生アルバイトの
「ペーパータオル持って来ますね〜」
乙女座は状況を把握すると、すぐに控室へと戻って行こうとする。
「あ、あ……。ありがとう……」
彼女の段取りの良さに圧倒されてしまう。
そんな様子を怪訝に感じたのか、乙女座は足を止めて振り返り、舞の顔をぐっと覗き込んだ。
「ん〜?」
「な、何かしら……」
舞が口元を引きつらせると、乙女座はにやっと笑う。
「今日はランチ、ごちそうして下さいね〜」
「え、ええいいわよ。それぐらい……」
舞の答えを聞いた乙女座は、満足そうに裏手へと捌けていく。
一体舞の顔から何を読み取ったのだろうか。メイクアップスペースに設置された鏡を覗き込む。そこに写し出された顔は、自分でもぞっとするほどやつれたものだった。
「ほんとに良く気がつく子ね……」
乙女座の背中に向かって呟いた。
こんな顔はお客様に見せられない。
舞は両手で頬ぱんぱんと叩くと、鏡に向かって精一杯の笑顔を作った。
――――――――
昼過ぎ頃、舞と乙女座は職場近くのカフェで昼食をとることにした。
2人は日替わりランチセットを頼む。
するとほどなくしてオムハンバーグのプレートと、別皿でサラダが運ばれて来た。
乙女座と食事を囲むことで、久しぶりに味というもの感じる気がした。対面する乙女座も、幸せそうに一口一口を噛み締めている。
派手な名前の彼女だが、見た目も派手な印象を受ける。
ウェーブがかった髪は金色に染められ、サイドヘアは耳の後ろへとかけられている。そうして露わになった両方の耳たぶには、青白い星形のピアスが輝く。
今朝は従業員用のエプロンで隠されていた胸元も、今では大きく開いて深い谷間を覗かせている。それには舞でも目のやり場に困ってしまう。
しかし彼女の勤務態度は至って真面目である。
細かいところにまで気が回り、客からの評判がすこぶる良い。
特に子連れ客の応対はこなれたもので、騒がしかったキッズスペースも
「ねえ舞さん。舞さんのお子さんってどんな子なんですか〜?」
「え? うちの子?」
正に舞の悩みの種である。
自ら話題にするつもりは無かったが、乙女座にかかれば、舞の苦悩の原因などお見通しなのだろう。
「きっと舞さんに似て可愛い子なんだろな〜。ねえ、今度連れて来てくださいよぉ!」
「もうキッズスペースに入るような歳でもないわよ。反抗期の真っ最中と言ったところかしら……」
「へ〜。教え甲斐がありそう!」
乙女座が悪戯っぽく笑う。
「ちょっと! 一体何を教えようって言うのよ? うちの子にまで唾をつけようとしないでくれる!?」
恐らくは冗談で言ったのだろうが、喜歩が乙女座に対面すれば冗談では済まなくなる気がした。
「そのくらいの子って承認欲求を満たして上げるのが大事だと思うんですよ」
「承認欲求ねぇ……」
確かに、反抗期が故に芽生え出した欲求が満たされず、態度に表れている面もあるのだろう。
「うちの子――喜歩には父親がいないから、その分私が見て上げなくちゃいけないのだけれど、つい怒っちゃったのよね……」
「怒ること自体は悪くないと思いますよ」
乙女座は間髪入れずに切り込んでくる。
「そう?」
「大事なのはその後で、喜歩くんがどうして怒られるようなことをしたのか、そして喜歩くんもどうして怒られたのかお互いに理解することだと思います」
「……ええ。その通りね」
喜歩が輪奈に思慮に欠いた表現をしたのは間違い無いが、その発言に至る背景についてはもっと共感してやるべきだったと感じる。
あれも精一杯の自己表現だったのだ。
祖母だと思っていた存在が、一般的な意味での祖母では無かったという疎外感。それを1人で抱えきれず誰かに共有したかったのではないか。舞はそのように捉えていた。
「まずは私から歩み寄らなければだめね……」
特殊な出自については根本的に解決しようもない問題だと思い込んでいた。しかし事情を知らぬ乙女座からすれば喜歩もただの少年だ。舞も数週間前までは知っていたはずの感覚である。
「今日はちゃんと話してみるわ。……思えば母親のくせに、息子が何か言い出すの待ってるだけなんておかしな話よね」
「喜歩くんだって本当はちゃんとお母さんと話したいと思ってるはずですよ。自分から切り出すのが恥ずかしいだけで」
「……私にもあったわね似たような時期が」
反抗期にしては遅すぎるが、舞の場合、喜歩の妊娠を期に実家を出ようと計画を立てたことが自己表現だった。
それまで親の前では品行方正を貫いてきた舞だったが、どこか偽りの自分を演じさせられていたような気がしていたのだ。
新居への引っ越し準備が整った頃になって、行きずりの男との間に子が出来たと報告したのだが、舞は親に対して一矢報いた気持ちになっていた。
当然ながら、しばらくは両親と険悪なムードが続くことになる。
結局その沈黙を破ったのは、下宿先に訪ねて来た母だった。
一体何を言いに来たのだと不審な目を向けたが、母の第一声はおめでとうだった。
その瞬間、涙があふれ出していた。そして舞も本当は祝福してもらいたかったのだと気づく。
その後は父親も含め、全てを正直に話した。驚かれはしたものの、舞の気持ちを理解してもらえたことは嬉しかった。
結果として両親との絆は深まり、今でも喜歩とたまに会わせてやることも出来ている。
あの時分かり合えていなければと考えるとぞっとする。そしてその喜歩とも、同じ道を歩みかけているのだ。行動に移すのなら今日しかない。
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