Case:6
十一月二十三日。
午後七時三十八分。
京都市内、先斗町。
出多と別れて、吉田神社や銀閣寺など京都市内東部を見て回り、午後五時四十分に旅館に戻って夕食を摂った。その後は少し部屋で休んで、前日のように、夜の京都へ繰り出したのである。
先斗町は、かつては花街だったらしい。今風に言えば風俗街だ。しかし、今はただの飲食店街になっているようで、若い女二人が夜に歩いていても、そういう目で見られることは無いということだった。風営法万歳である。
何が理由で機嫌を悪くしていたのかは分からないが、紅祢も二日連続の夜遊びを楽しんでいる様子だ。出会った頃は毎日のように夜を謳歌していたというのに、今となってはすでに懐かしくすら感じる。
もっとも、明日からはまた、昼間の生活に戻るので、それも今夜までだが。
「あ」
「お?」
夜の先斗町を歩いていると、再び紅祢の機嫌が若干悪くなった。目の前に出多がいたからである。
「あはは。成程、これが引き寄せ体質ってやつか」
「なんでいんだよ………怖ぇよ………」
「私のセリフだけどねぇ」
待ち合わせ場所、というのがこの付近だったのだろう。出多の隣には、私と同じくらいの背丈の女がいた。
「出多の知り合い?」
女の顔立ちは、整ってはいるが地味目だ。何より生気というか、それが感じられない。メイクは派手でもなく、かといって主張し過ぎでもなく、なんというか実用的だ。体つきも髪の長さも顔立ちもメイクも服装も、全て含めた感想は、男受けが良さそうだなというものだった。
「元取材対象の一人と、その同居人」
「まだガキじゃん。いつ知り合ったん」
「黒髪の子は八月。茶髪の子はさっきだね」
男受けが良さそうなこの女、かなり人を見慣れているらしい。メイクに慣れている人間であれば、コスプレレベルのある種特殊メイクとも呼べるものを除けば、ある程度は元の顔の輪郭などを判別できることもあるが、一瞬で二人とも未成年だと見抜くとは。いや、法的には紅祢は未成年ではないのだが。
「あ、紹介するね。この子は………」
出多が私達に隣の女を紹介しようとするが、その言葉を、その女は遮った。
「ありかでいいよ。平仮名でありか」
「ちょっとー」
平仮名でありか………成程、水商売の女か。確かに初対面の子供に本名を教える義理は無いが、それで源氏名を名乗るというのも珍しい。男受けを意識しているのも、商売上必要だからということか。
かつて花街と呼ばれた土地であっても、今の時代いかにもな風俗店は少ない。おそらく、メンズエステかデリヘルか、そういう系統なのだろう。
「ガキ二人で旅行ね。金あって羨ましいわ」
「喧嘩腰なの、直した方がいいっていつも言ってるでしょ」
「いつもって、まだ数回しか会ってねぇだろ」
出多はありかを友人だと言っていたので、学生時代からの付き合いかと思っていたのだが、口振りからすると初対面は今年………それも、夏前後ではないだろうか。
「まったく。常時喧嘩腰な女と夜遊び好きの不良少女達。私の人生どうなっちゃったんだか」
ドロップアウト女を相手に取材しているのだから、自業自得としかいいようがない。それが嫌ならば、会社員として慎ましく暮らせばいいのだ。
「月一でウチに転がり込んで、勝手に泊まってくヤツが何言ってんだ」
やはり、自分から面倒毎に首を突っ込んでいる。いや、というとこの女、今の出多の取材対象ということか。数か月に亘っての取材とは、熱心というか、ずいぶんと根気強いことだ。ノンフィクション作家に鞍替えでもするつもりだろうか。
三重から毎月ご苦労なことで、とありかが煙草を取り出すのを、出多が止める。三重在住で、月に一度京都に来ているのか。受賞時の賞金や貯えはあるのだろうが、よく毎月休みが取れるものだ。いや、週末だけならば、一泊二日で月曜には帰れるか。だとしても大した入れ込み具合だ。ひょっとしてあれか、ホの字か。ホの字なのか。
しかし、不良少女とは心外だ。以前はともかく、今は真面目に働いているフリーターでしかない。酒も煙草もやめたし、ゴミの分別だってしている。自炊して掃除と洗濯をして、空いた時間に勉強もしているのだ。偶の休みの旅行中に夜に出かける、それの何が悪いというのか。
「夜遊びなんて、最近じゃほとんどしてないっての。こちとら毎日真面目に生きてます」
「嘘だぁ」
「嘘じゃねぇわ。酒もタバコもやめて、ゴミの分別もしとるんじゃ」
ええ、嘘だぁ………と、出多が失礼にもヒく。なんだこいつ、一度夜に染まった人間は、二度と夜から出てくるなとでも言いたいのか。なんと酷い、人の心というやつを、母胎に忘れてきてしまったのだろう。
「そんな驚くことでもないでしょ。普通に生活してくなら、いつまでも夜にはいられんよ」
残酷だろうとなんだろうと、社会は昼を基準に回っている。普通に生きていくというのなら、体質に合わずとも、精神的に合わずとも、夜は寝なくてはならないのだ。
「普通に生活、ね。そりゃ、ウチみたいなのは普通じゃねぇよな」
私の言葉が気に入らなかったらしい。ありかは鼻で笑った。
「地雷踏んだ?」
「更生してるって時点で、存在がもう地雷っていうか」
出多と小声で話す。
どんな人生を歩んできたかは知らないが、夜に染まって、溺れて、慣れてしまった人間なのだろう。心が荒んでいても、最早改善する気力すらない。月明りが人の心を狂わせる、というのも、案外真実なのだろう。皆、月を仰いで星を仰いで、その儚い光に眼球を退化させて、洞窟の入口から離れていく。
要するに、自分には不可能だったから他の誰かもそうであってほしい、というだけの話だ。理解できる。私も同じだっただろうから。
「普通じゃなくて悪かったな。どうせウチみてぇな頭足りねぇ女、股開かねぇと稼げねぇよ」
「ちょっと、現」
「名前呼ぶんじゃねぇ」
本名は現というのか、と今はどうでもいい情報が頭に入って来る。
それにしても、随分と嫌われたものだ。ここまで劣悪な初対面というのは、私の人生史上で初なのではなかろうか。こいつが私を嫌うのもなんとなく分かるし、お互い様ともいえるが。
ただ、どうしてだろうか。上手く言葉にできないが、口を開かずにはいられない。
「それに慣れたのはアンタだろ」
「あ?」
自分の意志で慣れて、今のこいつに成った。それはいい。どうするかなど自由だ。諦観は悪ではないし、罪でもない。しかし、これも同族嫌悪というやつなのだろうか。この女を見ていると、無性に苛ついて仕方が無い。
家庭環境が悪かったのかもしれないし、虐待されたり、育児放棄されたり、何も知らないままに犯罪に加担させられたり。或いはそういう人生を送ってきたのかもしれない。そうであれば同情するが、しかし、出多のいうところの喧嘩腰の根底など、"くだらねぇ"と"気に入らねぇ"でしかないわけで。
とどのつまり、こいつがやっているのは、ただの八つ当たりだ。
「体売って稼いで、その金で高校と大学行って、普通になるって言ってるヤツもいる。アンタのことは知らないし、そうなれとか上から言うつもりもないけどさ」
未来に希望を持てとか、将来を考えろだとか。そんなありきたりな言葉を口にするつもりはない。この女の人生がどの程度まで堕ちていて、詰みまであと何手なのかも知らない。だから別に、今のこいつの生活を否定する気も無いし、そもそもこいつの生活を私は知らない。
ただ、ガキにガキと言われるのは少しばかり不快だ、というだけだ。
「四方八方に現実逃避で当たり散らかすのは、それこそガキのやることだろ」
図星を突かれて頭に血が上ったのか、それとも単純に年下に好き放題に言われて苛ついたのか。往来でするやり取りではないな、と冷静になりつつ、場所を変えると言っても応じないだろうと諦める。そもそもこの面倒な状況も、私が適当に受け流しておけば生まれなかったものだ。無駄な軋轢を生じさせるとは、私の方こそまだまだガキである。
「ガキのくせして何様だ」
「何様でもない。だから言ってる」
ここまできてしまえば、冷静になろうと口にしても聞く耳を持たないのは明らかだ。言いたかったことを言うしかあるまい。
「人生クソでも、ガキのままでいい理由にはなんない」
子供大人、などという言葉が生まれてしまう程度には、年齢を重ねただけの子供が多い世の中だが。年を取れば、相応の言動や対応を求められるのは当然のことで、それが出来ない人間に優しい社会などあるはずもない。
簡単な話が、節度を弁えろ、ということなのだろう。自制と言い換えてもいい。そうでなければ、待っているのは、六畳一間で借金抱えて首を吊る、その程度になる。
そしてその自制というやつを、やはり私はできていない。適当にヘラヘラと笑っていれば、それで済んだ話なのだ。
先斗町公園に移動した。鴨川と先斗町通に面した、長方形の小さな公園だ。
お互いに頭を冷やそう、ということで二組に別れたのだが………なぜか私の隣にいるのは紅祢ではなく、出多だった。
「こういうの、勝手に話すべきじゃないんだけど」
ブランコの周りを囲む柵を見つめて、出多が話し始める。彼女の視線が向けられているのは、柵に腰を下ろした紅祢とありかだ。
「あの子、中学も出てないらしくてね。出てないっていうか、行かせてもらえなかったっていうか」
現代日本にはスラム街と呼べるような土地はなかなか無いが、それでも治安の悪い町や、被差別地区だった場所というのは残っている。ありかはそういう土地で生まれ育ったらしい。
本名は
現の両親は高校時代の同級生で、一年の夏に現を身籠ったことでそのまま中退。喧嘩三昧だった父親が鉄砲玉になるのにそう時間はかからず、母親は遊び惚けていたそうだ。
「いろいろ、あったらしいんだよ。だから、なんていうかな。放っておいたら、どこかで死んでそうな気がして」
紅祢と話す現を見る。あの二人の雰囲気は、とてもよく似ているように見えた。青白く、透明で、まるで冬の朝のような表情だ。いづみとも同じ、生と死の間に立って、目の端で両岸を淡く見つめている人間。
あの前置きから何を話すのかと思えば、中学に行かせてもらえなかった女だ、ということだけ。しかし、色々あったらしい、という言い方からして、これ以上は口にできないような人生を送ってきたのだろう。少なくとも、本人以外では。
「子供とか大人とか、そういう普通の、当たり前を考えられない人生も、あるってこと」
零ちゃんを責めてるわけじゃないけどね、と出多。その締めの言葉に、大きく息を吐く。
自制だ節度だと言っておいて、やったことといえば、変わったと言われて調子に乗って、土足で踏み入り荒らしただけ。周りもそうであるべきだと、普通であるべきだと、自分の基準で人様の人生を鋳型に入れようとしただけだ。
"くだらねぇ"と"気に入らねぇ"。そういう瞳と雰囲気が、以前の私とよく似ているように感じて、苛ついた。同族嫌悪で八つ当たりをしておいて、よくもまぁ、ガキだなんだと言えたものだ。
「………んだよ」
出多の前に立つ。数秒空気か止まって固まるが、沈黙を破って先に行動すべきなのは私の方だ。明らかに、私に非があるのだから。
「ごめん、言い過ぎた。私の方がガキだった」
無神経だった、と頭を下げる。一発殴られるくらいは覚悟の上だが、レンタルした着物が汚れないかが心配だ。店に迷惑がかかってしまう。
「………ガキじゃねぇ十七がいてたまるか」
どうでもいい、と煙草を取り出して火をつける現。紅祢と何を話していたのだろう、ずいぶんと毒気が抜けているように見える。
「どこまで聞いた?」
「中学行かせてもらえなかった、ってことくらい」
「あそ。じゃあいいわ」
身の上話をするつもりはない、という意思表示なのだろう。現は公園の外、先斗町通へと向かっていった。
その後ろ姿を追いかける出多を呼び止め、手早く連絡先を交換する。進路の相談相手ならば店長や心美達がいるが、大卒の出多からしか聞けない話もあるだろう、と思ったからだ。出多の方も私の心境の変化に興味があるらしく、近いうちに連絡すると言い残し、二人は夜の、かつての花街に消えていった。あの現という水商売人は、誰かの記憶を食むのだろうか。
もう会うこともないだろうから知りようも無い、と言いたいところだが、生憎と私はああいう質の女とは縁が有るらしいので、そのうちどこかで再会するのだろう。そうなればきっと、互いが互いに、取り憑く条件を満たすのだ。
「………っと。そろそろ旅館に戻るか。あんま夜更かしすると、帰った後が辛いし」
変わらず夜は好きだが、日常はその対極に存在している。夜に出かけるのは、こういう特別な日だけで十分なのかもしれない。人間は夜行性ではないのだと肝に銘じておかないと、また前のように、星と月の表面を砕いた粉末で、思考能力が低下してしまいそうだ。
「………"辛くなるだけ"、か」
風に消え入りそうな微かな声。夜空を見上げた紅祢は、まだ出ていない半分の月を探しているようだった。
「やっぱりわたし、零の昼には、行けないんだ」
どういう………意味、なのだろう。昨日もそうだが、彼女の精神状態が不安定なのは分かっているつもりだ。しかし、今はなんというか、むしろ逆で、妙に憑き物が落ちたというか、澄んだ表情をしている。現と話して、何かしら心境の変化でもあったのだろうか。
「行こ。今はまだ、夜だから」
私の手を引いて、紅祢が京の夜道を歩く。
気温が低い所為か、その手が酷く、冷たく感じられた。
「どうだった、京都は」
十一月二十五日、月曜日。
午前九時五十二分。
『モリヤテイ』店内。
京都から帰った翌日。奥からひょいと顔を覗かせた店長が、私の顔をみるやいなや、近付いてきて怪訝な顔をした。
「なんかあったか?」
勘が鋭いのか、それとも顔に出ていただけか。これが子守をする大人、というやつなのだろうか。
「いえ、そういうわけでは。ただ、紅祢が………」
紅祢の様子が、明らかにおかしい。いや、おかしくないとすらいえる。
家に戻ってすぐ、彼女は煙草の箱と酒の缶をゴミ袋に放り込んだ。それだけであれば、良い兆候にも聞こえるだろう。だが彼女はその時に、もう酔わなくていいから、と口にした。その言葉がどういう意味を持つのかを考えて、しかし、考えたくないと、中途に思考が止まる。
私が言葉に詰まっていることで、ある程度察したのだろうか。店長は「成程な」と顎に手を当てて、
「いつ告ろうって話か」
と、微妙に的外れなことを言った。
「それはまた違う問題で、ではなくて」
告白するならば、ベタだがクリスマスがいいかなーとは思っているが、今はそれどころではない。
「店長が気を利かせて時給上げてくれたのに、正直今回は、旅行どころじゃなくて」
紅葉は見られたし、景色も食事も上等だったと思う。だが、ではどんなところが良かったとか、惹かれたとか、そういう話になると、とんと思い出せない。楽しくなかったというわけではないのだが、紅祢の様子が気になってしまって、特に最終日はどこに行ったのかすら曖昧だ。
「お前が旅行費稼げるように、ワタシが時給上げたって?」
店長が、腕を組んで不服そうな顔を見せる。
「違うんですか?」
「あのな。いくらなんでも、そこまでお人好しじゃねぇよ。仕事は仕事、趣味は趣味。仕事の出来が悪かったら、時給なんか上げるか」
意外と公私を分ける性格らしい。しかし、仕事ぶりを評価されていることには驚きだ。客のいない間だけとはいえ店内で、それもレジの横で勉強をしているし、阿比留や心美達が来たら必ず駄弁るしで、我ながら金泥棒な従業員だと思っているのだが。
私の勤務態度はともかくとして、今週末にでも、紅祢と話し合う時間を作ろう。私がいるから大丈夫だと、そう言ったばかりなのだ。彼女が今何を考えているのか、何が問題なのか、或いは私になにかしらの不満があるのか。考えてみれば、そういう話は今まで一度もしたことがない。告白するのは、その後だ。
少女の国、疑問符の霊
/終
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