Case:5
結局、店内での母との会話は、食事前以外ではほとんどなかった。食事中は話すなという家庭ルールがあるわけではないのだが、やはり互いに何を話せばいいのか分からないというか、今更何を話すことがあるのかと、そう思ったのだ。
空はまさに曇天で、遥か上空からの日の光を反射しているために、分厚い雲の底が黒く滲んでいる。今にも降り出しそうな空模様だ。予報では、あまり強くない雨が断続的に降る、と言っていたが、頭上を見る限りでは外れているように思える。
「零」
新幹線のチケットを母に渡し、山手線の乗り場へ向かおうとする私を、母が引き留める。
「なに」
母が手提げバッグから封筒を取り出し、それを私に手渡す。
「持っておきなさい」
中身を確認すると、万札が入っていた。それも数枚ではない。封筒越しでも厚みが伝わってくる程の、十七歳の小娘には過ぎた大金が。
「これ、なに?いくらあんの?」
「四十万。あんたが生まれた時に作った預金口座から、全額引き出しただけ」
私達の懐からじゃないわ────と、母が言う。成程、手切れ金というやつだ。
大学進学か、就職か、本来はそういうタイミングで渡すようなもの。当然だが、両親は私に、普通の、平凡な、月並みな人生を送ってほしかったのだろう。
「あんたが、もう少し………早くに。昔みたいに、今みたいに戻ってくれてたら。娘を嫌いにならずに済んだのに」
昔のように────つまり、普通に戻った。母はそう言うが、未だ普通ではないことは、私自身が一番よく分かっている。
ただ、そう………夏前までの三年弱よりは、多少なりとも現実を見ようとしている、のかもしれない。
十七歳と十八歳が、一つ屋根の下で、二人きりで生活をする。世間一般では、これも十分に普通ではない状況だ。それを続けるためには、考え無しの楽天家であることを、まずは卒業しなくてはならない。現実的にならなくてはならないのだと、そう思い始めたのだ。
責任、という単語が、脳裏に浮かんだ。行動の結果生じた、主に不利益に対して使われる言葉だ。殴って蹴って、奪って逃げる。それに伴い発生する事柄を、責任を、これまでは考えてこなかった。これまで通りを続けるのであれば、紅祢との生活は、早晩破綻するだろう。
自制、という単語が、脳裏に浮かんだ。能之と話していた際に私は、大人になることを自制を学ぶことだと考えた。阿比留と出会った夜の中年男は、正直今でも足蹴にされて当然だと思っているが、かといってあの場の私の行動は、過剰防衛ですらない。ただの暴力だ。傷害事件として警察に捕まれば、簡単に実家に送り戻されるか、今度は少年院に移送されるのだと、考えることができていなかった。
考え無しの楽天家のままでは、きっと私は、子供のままで。子供のままでは、現実的な考えができないままでは、居場所を自分で壊すことになってしまう。
可能な限り、責任を問われるような行動を避ける。それが自制なのだ、と今は考えよう。
そして、まさに今、目の前に、私が生んだ
「母さん」
改札に向かおうとする母の背を、今度は私が呼び止める。
今更こんなことを私に言われても、苛立つだけだろう。だが、壊したものへの責任と、謝罪と、これまでの感謝は、伝えなくてはならない。
「今まで本当にごめん。育ててくれてありがとう。父さんにも伝えといて」
それじゃあ、と小さく手を振って、母を見送る。改札を抜けた母はしかし、少しの間立ち止まって、横顔だけをこちらに見せた状態で、
「元気でやんなさい」
とだけ口にした。
頭の中で、言葉が回る。記憶が巡る。
阿比留に言ったこと。
店長が言っていたこと。
心美に言われたこと。
私がその時、言ったこと。
ニヒルを気取っているだけだ。それで全部に噛み付いて、全部を自分で台無しにしてきただけ。社会の本質がどうとか、人間の本質がどうとか。達観したふりをして、見ないようにしてきただけだ。要するに私は、ただの我儘な、子供だった。
私はきっと、このままではいけないのだろう。
だって、そうでないとまた、自分で壊すことになる。
紅祢との時間を。
それは絶対に、嫌なのだ。
「────………って、なんか最近、紅祢に依存し始めてんなぁ、私」
新宿駅に向かう電車に乗っている間に、ぽつぽつと雨が降り始めた。次第に強まる雨足は車窓に伝う水滴群となって、窓が隔てる内外のその境界を染み抜けて、都市部のビル群を見つめる私の頬に、水の跡を残していく。下の方に溜まった雨粒に、私の顔が、小さく反射して映っていた。
「おかえり!」
アパートの玄関扉を開けると、紅祢が飛び込んできて、そこそこ強い力で抱き付かれた。足音を聞いて待っていたのだろう。
「びっしょびしょだね。タオル持ってくる」
傘を持って行かなかったのは失敗だ。お陰で全身濡れてしまって、非常に気持ちが悪い。
紅祢に先にシャワーを浴びると伝え、脱いだ衣服と下着を、そのまま洗濯機に放り込む。
ゆっくり風呂に浸かれないことが、この生活の中で唯一の欠点かもしれないなー、などと考えながらクレンジングをして、頭から順に、いつも通りに汚れを落とす。一応、湯船自体はあるのだが、なぜかこの物件には栓がない。ホームセンターで買えばいいだけなのだが、肩まで浸かるには足を曲げて入らなければならない狭さなので、どちらにしても休まらないだろう。
シャワーを終えると雨足も大分弱まっていて、陽が落ちて一時間もする頃には、薄い雲がかかっているだけになった。
「シャンプー、詰め替えあったっけ?」
シャワー上がりの紅祢が、扉を開けて私を見て、それからキッチン下の収納を確認する。
「そこにないならないんじゃない?」
互いに夜までバイトをしていることが多いため、買い物一つを取っても営業時間と噛み合わない。どちらかが早上がりの日に、駅前のショッピングモールで買い物をして帰る、ということになってはいるものの、やはり少々不便だ。全く、どこもかしこも閉店時間が早くて困る。社会というやつは、なぜこうも昼間の活動を強制してくるのやら。
「次の早上がり、いつなん?」
「えーっとね………月曜かな」
「私、明後日九時五時だから、そん時買いにいくわ」
最近は平日の、一時から九時までの間にシフトを入れているのだが、昨日今日を急遽休みに変えてもらったため、明日明後日の土日に出勤日が変更となったのだ。店長としても、やはり土日の午後に出勤してほしいらしいので、来週以降は平日に休みを二日取ることが増えるかもしれない。
「他になんか、足りないモンとかあったっけ」
「リンスとボディソープはまだあって、化粧水も………あ、乳液そろそろ切れるかも」
おけおけ、と小物入れからレシートを一枚取り出して、裏面にメモをする。こういうちょっとした場面でも、やはりスマホがないことに不便を感じてしまうのは、現代人の性なのだろうか。ほんの三十年程前までは、携帯すらなかったというのだから驚きだ。
「紅祢ー」
ドライヤーで髪を乾かす紅祢の肩を叩き、スマホを貸してもらう。ここに住むようになってからというもの、時折こうして、彼女のスマホを使って通販サイトを覗いたりしているので、最早共用機のようになっている。
「何買うの?」
「スマホ。金なら今あるし」
母に貰った手切れ金の一部を使えば、中古スマホを一台買える。連絡手段が欲しいだけなのでスペックは低くていいし、二万前後のものが適当だろう。あとはカバーだが、手帳型にしようか。いや、手帳型は見ている分には可愛いが、個人的には使い難さを感じるため、カバーを買って、百均のリングと適当なストラップでも付けるとしよう。
注文番号をレシートの裏にメモして、スマホを紅祢に返す。後でコンビニに行って、代金を支払ってこよう。本体が届けば、残るはSIM契約のみだ。
「ねぇねぇ、零」
髪を乾かし終えた紅祢が、人差し指で私の肩を突く。
「久しぶりにさ、静かなとこ行かない?公園とか、その辺とか」
雨上がりに、か。
「雨上がりだから、だよ」
まぁ、最近は割と騒がしい場所での夜遊びが多かったし、静かな夜の散歩をしたいという提案には乗るが。
井の頭公園に行こう、と紅祢が言うので、黒マスクを着けて外に出た。紅祢は白い風邪マスク姿だ。すっぴんで外に出るなど、深夜に近くのコンビニに酒を買いに行く時くらいのものなのだが、これで電車に乗らなければならないのはかなりの苦痛である。恐怖すら感じる程だ。
笹塚から新宿、新宿から吉祥寺へ。そこから南へ歩き、午後十時前に目的地に到着した。先月初めに私と紅祢が出会った池のある公園は、一月程度ではやはり変化はなく、池の水面が反射させた街灯の光までもが同じに映る。二人で歩く道順も、ハンノキ林から野外ステージと全く同じだ。池を眺める、紅祢の表情も。
「────………嫌気がね、差したんだ」
野外ステージ前、紅祢は池に視線を向けたままだ。
「親はわたしに興味なくて、でも世間体だけは気にしてて、それでも何もしなくて。普通の家族っぽく見えるようにって、わたし、いろいろやったんだけどさ」
急に身の上話を始める紅祢に対し、いったいどうしたのだと疑問が湧くが、昼間の私の態度を思い出す。踏み込むべきかを迷って、彼女が何故一人で東京に来たのか、その理由を聞くのに躊躇したことを。
きっと紅祢は、私と母のやり取りを見て、私が踏み込むより先に、こちらへ踏み込んだのだ。
「高校卒業するちょっと前に、立ち入り禁止の屋上に出てさ。空見てたら、なんでわたしがこんなことしなきゃいけないんだろー、って」
箇条書きな過去話に、様々な予想が頭を巡る。その内のどれかは真実かもしれないが、紅祢の踏み込みはまだ半歩程度で、私から質問するのはやはり躊躇われた。
「ずっと………死んだら楽になれるかなって。だから全部に嫌気が差して、一人がいいなって」
閉鎖された学校の屋上に足を運んだのは、きっと、そういうことなのだろう。その瞬間のその場所を、そこに求めたのだ。
「現実逃避がね、したかっただけなんだと思う。死にたいって気持ちとかを見ないように。フィクションみたいなことを探して歩いたのも、多分そう」
私もきっと、同じようなものだ。特別な何かを求めて一人になったというのは、つまり、特別ではない現実から目を背けたかったからに違いない。
「そしたらさ、零がいた。見たくないって夜を歩いてたら、本当にフィクションみたいに、零がいたんだ」
七夕が終わる夜に、現実逃避と現実逃避が重なった。それは抽象的で象徴的で、きっと運命的な偶然だ。しかし間違いなく、必然的でもなくて、奇跡でもなかったのだと思う。それを分かっているからこそ、現実逃避を続けるべく、互いの意志で袖を触れ合わせたのだ。
「だから」
紅祢の次の言葉は、最早聞かずとも分かった。一月前と今とでは、私と紅祢の現実逃避が噛み合っていないのであろう、ということも。
現実逃避でここにいる。現実逃避でここに来た。しかし、これからもこの生活を続けるのであれば、現実的にならなくてはならない。私達はまだ未成年で、社会は大人の庇護下でいることを求めてくる。その中で二人でいるためには、最大限、社会に合わせた行動を取らなくてはならないのだ。
紅祢がくるりと振り返る。夜の中でよく見えないはずの彼女の瞳の中に、依存し始めている自分を見た気がした。
「現実逃避、続けさせてね」
最近、自分の感情が、よく分からなくなる時がある。それは主に、紅祢といる時に自覚して、ほんの数秒で鳴りを潜めるのだ。
いや、実際のところ、正体は理解している。だが、それが現実逃避に端を発するものなのか、そうであれば真に彼女に向けているといえるのか、それが分からないのだ。どちらも大差無いことなど、とっくに知っているはずなのに。
「ん。お互いに」
噛み合っていないのだろうが、それがごく僅かであって、致命的ではないことを、今は願おう。彼女が現実逃避を続けるのであれば、私が現実的になれば済む話なのだから、多少の噛み合いの悪さには妥協すべきだ。
都心の光を底に反射させ、夏場の池の畔のような赤茶けた色をした雲が、頭上を静かに流れていた。
風下の窓、逆様に映る濡れた都市
/終
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