第32話 「煙の向こうで、君を思う」

夜の静けさは、重たい布団。


テレビの音はつけたまま。

でも誰も笑ってない。

私も猫さんも、何もしゃべらない。

ただ、空気だけが「どうする?」って問いかけてくるみたいだった。





猫さんは、何も言わずにベランダに出ていった。


カーテンがふわっと揺れて、

夜風がひと筋、私の頬を撫でた。


その向こう。

暗い空と、遠くの街灯と、

その隙間に、小さなオレンジの火がひとつ。


タバコの先が、チカチカ、ゆっくり瞬いていた。





私は思い出してた。

最初の頃、猫さんがトゥレット症状を抑えるために、

「これはニコチン療法だから」って言ってタバコを吸っていたこと。

何も言わず、でもちゃんと自分をコントロールしようとしてたこと。


今、ベランダにいる彼も、

たぶん同じ。

何も言わず、自分の中で気持ちを整理してる。





私はそっとベランダの窓の近くまで行って、

でも声はかけなかった。


ただ、カーテン越しに見えるその背中が、

少しだけ、震えてるように見えた。


タバコの火が短くなって、

やがてベランダの片隅で、

静かに消えた。





数分後、猫さんが部屋に戻ってきた。


目が合う。

でも、すぐには何も言わなかった。





「……寒かったでしょ?」

私が、ぽつんとそう言った。


猫さんは、黙ったまま私の横に座る。

そして、ゆっくりとこう言った。


「俺、信頼ってのは、言葉だけじゃ取り戻せないって思ってる。

でも……俺は、いま、ここにいる。それが答えだよ」







それ以上、何も言わなかった。


でもその言葉だけで、

私は泣きそうになった。


猫さんは、まだ隣にいてくれてる。

それが、どんなにありがたくて、

どれだけ心を支えてくれるか、私は知っていた。





その夜、ベッドに入ったけど、すぐには眠れなかった。


でも、猫さんの呼吸の音がそばにあって、

私はようやく、“夫婦になった実感”を、

ほんの少しだけ感じられた気がした。





信頼は、積み重ね。

愛情は、沈黙の中にある。


そしてベランダの煙の向こうで、

彼はちゃんと、私を思ってくれていたんだと思う。





つづく。

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