第2話 推しの前で独り言は言うもんじゃない。

「…………ねむい」


 昨日は眠れませんでした。

 理由はひとつ、静香さんが酔って僕の部屋で寝たからです。

 しかも僕のベッドを使っていて僕は床で寝たからです。


 というかまだ僕のベッドで眠ってます。


「眠ってる時は可愛いだけどなぁ」


 微笑まない静香さんも、眠ってたら普通に綺麗である。

 だが言いたいことはある。


「……なんで男子高校生の部屋で眠るかなぁ……」


 悶々としたまま僕は朝食の準備を始めた。


 警戒心とかないんか?!

 酔って寝たとはいえ、思春期真っ盛りの男子高校生の部屋なんだぞ?!

 これって手を出されたりしてもしょうがないと思うんですよね?!


 なのになんで僕は手を出すどころか悶々としたまま一睡もできずに朝を迎えているんだろうか?!

 羊を100匹くらい数えた後でなぜかテロリストが侵入してきて大変なことになってたんだぞ僕の妄想が?!


「……ねむい」


 これも全部静香さんのせいだ。

 推しとの関係性はあくまでも客と店員という立場があってこそ成り立つものであり、お隣さんになってしまった今は僕の中での解釈不一致を起こさないようにしたいのである。


 どこかミステリアスな彼女を、ミステリアスなまま魅力的に見つめていられたら僕としてはそれで良かったのだ。

 夢が壊れるくらいなら、その方がいい。


 だが実際にはどうだ?!

 ミステリアスガールの静香さんが今僕の部屋のベッドで世誰垂らし始めたんだぞ?!

 そしてその涎を舐めたいと思った僕はもうなんか色々と手遅れなんじゃないかと思わざるえない!!


 いや、まだ手遅れではないだろう。

 むしろ手を出していないことを誇らしく思うべきだ。

 ちょっと考えても見ろよ?!

 推しのメイドさんだぞ?!


「いや、白状しよう。夜這いではなく筆下ろししてほしい願望があると」


 童貞の痛々しい夢とも呼べない妄想であり願望。

 そしてそれが叶うわけはない。


「音無くん、朝から元気だね」

「…………おはよう、ございます。静香さん」

「お水もらっていい?」

「あっ、はいどうぞ」


 聞かれてたかもしれん。死ぬしかないか。


 いつの間にか起きてた静香さんが眠過ぎて糸目になってるのが可愛くて仕方がないのだが、着ていたTシャツがズレててブラの紐が片方見えてるのはそれだけでも配慮して頂けないでしょうか?


「てかなんでわたしの部屋に音無くん居るの?」

「静香さんの部屋に僕が居るんじゃなくて、静香さんが僕の部屋で酔って寝たんですよ。静香さんの部屋はまだ荷解きできてないって言ってたのは静香さんですよ」


 かつてないほどに饒舌に捲し立ててしまったが仕方ない。

 痛々しい独り言を聞かれてしまっているのだ。

 誤魔化したくてしょうがない。


「……そうだっけ? なんかごめんね。たばこ吸っていい?」

「話聞いてました?」


 未だに糸目なままの静香さんはおもむろに胸からたばこを取り出して火を付けた。

 換気扇の前でぷかぷかされると困るんだけど……。


「……ん? ここはわたしの家じゃ、ない?」

「そうです。静香さんはあれですか、朝はたばこ吸わないと目が覚めない感じなんですか?」

「そう。たばこはわたしの王子様」

「いばら姫なんですね」


 そう言ってたばこに口付けをする静香さん。

 今ならそのたばこにすら嫉妬しそうなくらいだ。

 そんな静香さんの横顔はやっぱりミステリアスで綺麗だった。


「音無くんってさ、なんでわたしが推しなの?」


 からかうわけでもなく、この世の真理を知りたいと思っているような声音でもない。ただの疑問。


「……それを説明できるほどの語彙力がないですね」

「そっか」

「でも、憧れなんでしょうね。かっこいいです」


 やはり語彙力がない。

 こんな事くらいしか言葉にできていない。


 推しが隣に居て、手を握ろうと思えばできるような距離でもやはり僕にとっては「推し」のままなのだ。


「それはロック的なかっこよさ?」

「そうなのかもしれません」


 静香さんなら、エレキギターを持って掻き鳴らしても違和感はないなと思った。

 べつに正義のヒーロー的なかっこよさとかではない。


「そっか」

「朝ご飯できましたから、一緒に食べませんか?」

「それは悪いし」

「家族以外の女性と一緒に朝ご飯を食べてみたいという健気な男子高校生の為に食べてくれると嬉しいですね」

「筆おろししてほしいと思ってる女と一緒に朝ご飯食べたいんだ?」

「……なんでそこだけ覚えてるんですか……」

「ふふっ」


 やっぱ独り言なんて言うもんじゃないわ。

 からかわれてるし。



 ☆☆☆



「では教科書の次のページ」


 昨日のことは夢だったのではないだろうかと、今日一日授業そっちのけでずっと考えている。


 推しのメイド、静香さんが隣に引っ越してきて、何もなかったとはいえ一夜を共にした。

 それだけでも十分幸せではある。

 恥ずかしい思いはしたが。


 だがそれだけではなく、一緒に朝ご飯を食べた。

 婆ちゃんが老人ホームに入居して以来、長らく他人とご飯を食べたことなんてなかった。


 その久々の「誰かとの朝食」が推しの静香さんなのである。

 夢と言われたら信じるしかない。


 もしかしたら今日帰ったら隣には誰も居なかった、なんてこともあるかもしれない。

 そう考えると少し寂しい。


 推しとの距離は離れているべきだと思っているのに、離れてほしくないと思ってしまう。


「今日の授業はここまで」


 何事もなく今日の授業が終わった。

 見事に静香さんの事しか考えてなかった。


 静香さんは今日もシフトではないらしいので、メイド喫茶に行く理由もない。

 そもそも毎日行けるような経済力はない。

 静香さんは土日のシフトには滅多に入らないのは知ってるし、引っ越しして日が浅いのでやる事も多いだろう。


 学校を出てそのまま自宅へ直行である。

 願わくば、静香さんが幻ではありませんように。


 そう思いながら自宅へと歩いていると不思議とすぐに家に着いた。

 いつ見てもボロアパートで寂れている。

 秋ということもあり、より一層寒さを感じさせるおもむきである。


 だがしかし、そんなアパートからギターの音色が響いてきた。


 その音色に釣られて歩いてみると、アパートの裏の川の近くでアコギを弾く静香さんが居た。

 その背中に見とれていると不意に静香さんは振り向いた。できればもう少し聴いていたかった。


「音無くん。おかえり」

「ただいまです」


 やはり無愛想な人だ。

 ギターを持ったままあぐらをかいて座っていた静香さんがこっちに振り返って、その横乳に目がいったのは許してほしい。


「ギター、弾くんですね」

「前はロックバンドやってたんだ。今はシンガーソングライターだけど」

「かっこいいですね」

「……歌の方も人気ないけどね」


 そう言って自虐的に笑った静香さん。

 その顔は少し痛々しかった。


「人気がないのは客の見る目がないだけですよ。その客が損してるだけで、僕は得ですけどね」


 静香さんの将来がどうなるのかは知らないしわからない。

 でも今、隣で静香さんは楽しそうにギターを弾いていた。そしてそれを僕は聴いている。

 それはきっと凄く贅沢なことなのだろう。


「音無くん、結構独占欲強いタイプ?」

「どうなんでしょうね。初恋だからわかりませんね」


 人を好きになったことなんて今までなかった。

 だからわからない。


「ふぅん」


 これが恋だと知った。それが今だった。


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