村雨
津軽玉子
第1話 アメリ
未だ六月だというのに。
「今年は特に暑い」
そう言うようになってから何年目だろう。
海沿いの陽炎に揺れる道を歩きながら、
すると芋蔓を引いたかのように、幼い頃の記憶が次々と呼び起こされて。
どれもかけがえのない思い出ばかりで。
でも、その日々は二度と戻らなくて。
――立ち別れ、いなばの山の峰に生ふる、まつとし聞かばいま帰り来む
だから、一句詠んでみた。
少々ムラのある、照れ混じりのビブラートを効かせながら、朗々と。
本人なりに
隣では、姉の
素っ気ない反応だが、いつものことなのでそこは気にならない。
「たぶん別れを惜しむ歌」
「たぶんって……。なんでまたいきなり」
「うーん……強いて言うなら陽炎と海風に誘われて、かな」
「なんだそりゃ。って、まさかオリジナル? 今思いついたの?」
「それこそまさかだよ。古今和歌集、中学で習わなかった?」
「あれって千首以上なかったっけ」
「千百十一首ね」
「細かっ。とにかくそんなの覚えてられないって。大体、原典に目を通す機会もなかったし」
「お姉ちゃんも詠んでみる? 文庫版貸してあげるよ」
「今度ね」
曖昧な答えから続いた会話が途切れる瞬間は、やはり曖昧だ。
どちらも気ままに言いたいことを言い合って、それきり。
姉妹の家路はいつもこうである。
勝ち気で運動好きな
性格も趣味も正反対だが、お互いの言葉が苦にならない。
そんな二人は同じ高校に通い、毎日登下校を共にしていた。
示し合わせなくとも、なんとなくそうなるのだ。
事ある毎に母からは「なんだか凸凹を埋め合わせてるみたいだね」と、生みの親とも思えぬなかなか失礼なコメントを頂戴するのだが、高校生にもなってなお、汚名は濯げていない。
友人を作るのがうまい
――放っといてよ! 一生このままで構わないから!
二人が未だ中学生で、反抗期真っ盛りだった頃。
この発言を以って、どちらかが母に反論したことがある
と言うのも、
単に時折家で話題に上るので認識しているに過ぎず、そのたびに、
そうして大抵はすぐに別の話題へと移り、流れてしまう。
(一生このままなのかな……?)
少なくとも今のところ、
だが、恵まれたこの環境は、決して当たり前でも、永遠に続くものでもない筈だ。
頭では、そう分かっているから。
「ねえ、お姉ちゃん――」
「ん? ちょっと
折しも、
ちょうど幹線に差し掛かる十字路の、横断歩道の向こう岸。
そこに、大柄な獣が行儀よく座っている。
遠目に見える黒毛は雄々しくさえあり、なかなかの威容だ。
「とりあえず熊じゃなさそうだけど」
「熊って。……犬、だよね」
二人は顔を見合わせることなく、近づきながら観測結果を確かめ合う。
次第に三角形の大きな耳と、少し面長な輪郭と白い顔、それに西洋人を思わせる色の薄い瞳が窺える。
恐らくシベリアンハスキーと呼ばれる犬種だろう。
周囲に飼い主らしき人影はなく、
須磨姉妹は赤信号に阻まれて立ち止まり、更に意見を交換する。
「首輪してなくない? 野犬かな?」
「今どきそれはないでしょ」
(綺麗)
素直に思った。
少し荒れた毛並みはあちこち薄汚れている。
満足な食事にありつけていないのだろう、お腹は正面からでも分かるほど落ち窪んでいていたましいほどだ。
それでも――否、それも含めて、“彼”は美しかった。
「……
思わず
姉の制止の声を振り切って、まっすぐに。
視界の左右でセダンが、ワンボックスが、急停車して通してくれた。
駆け抜ける際、背中に浴びせられた罵声混じりのクラクションも、
ついに辿り着いた瞬間、
(何やってるんだろう)
そんな自分を他人事のように思いながら、手触りだけが生々しい。
やっぱり汚れているようで、黒い背中はぼさぼさでべたべただ。
毛皮越しにも痩せぎすなのが伝わって、きっと見た目以上に弱っている。
なのに“彼”は弱音を吐くことも、逃げることも、噛みつくこともせず。
ただ尻尾を振って、小刻みな息を吐くばかりだった。
「――
「えっ」
怒気を孕んだ
その瞬間、自動車の往来がはっきり聞こえるようになり、びくりと肩を震わせてしまう。
「っとにもうあんたは。いっつもいきなりなんだから」
「その……ごめん、なさい」
呆れ顔の姉に、
実際、小さな頃などはしばしば突飛な行動に出て、よく姉や母を困らせていた覚えがある。
そのタイミングは決まって
普段はわがままも言わず大人しくしている分、周囲からすればなおさら難儀に感じられたことだろう。
その甲斐あって一時性徴以降少しずつ鳴りを潜め、ここ数年は何事もなかった。
だから、油断していたのだ。
「とりあえずその子から離れな」
「で、でもっ」
「“でも”じゃない!」
「――っ!」
口ごたえをぴしゃりと断たれ、
それでも“彼”を離すどころか、更に強く抱き締めた。
「……最近はマダニとか騒がれてるでしょ。万が一があったら洒落になんないよ」
「わ――」
分かってる――喉まで出かかった言葉を
姉のこの反応は至極当然で真っ当なものだということを。
彼女は妹の身を、引いては家族全体のことを案じているだけなのだ。
なのに、自分からはどうしても動けずにいた。
“彼”から離れたくない。
「大体どうするつもり? 連れて帰るの? うちのアパート、ペット不可だよ。うっかり懐かれたりしたら、一番困るのは
「…………」
「……どれだけ本気でその子のこと心配してるのか分かんないけどさ、ちょっと落ち着きなって」
きっと、ここで意固地になると本気で怒られてしまうだろう。
「……うん」
今のうちだと思った。
自分でもなぜこれほど“彼”にこだわるのか分からないから。
「帰るよ」
「あっ――」
けれど、“彼”がついてきてくれることは、やっぱりなくて。
ただ、口で息をしながら、じっと須磨姉妹を見送っていた。
いつまでも。
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