存在する資格
拝原しげる
第1話 はじまりの朝
いつの間にか寝入っていたようだ。
目覚める時、必ず嫌な気分に襲われる。胸を押されているような、首のまわりに何かを巻きつけられているような、そんな気配を感じて飛び起きてしまうのだ。
火が消えかかっている。
体が冷え込んだことが目覚めに手を貸したのだろう。
まだ完全に醒めきれずにいる頭をぐるりと動かす。
転ぶといけない。
ゆっくり腰を浮かし、集めておいた枯れ木を残り火に一本投げ足した。
炎は勢いをつけ周囲を明るく照らしていく。
足元に蟻がたかっている。
しつこいやつらだ。
燃えている焚き木の中から一本を引き出し、火の粉を落とすと、それを蟻へ向けた。
蟻は焚き木が近づく前から気配を感じたのか、それぞれが右往左往のあげくに逃げ惑った。
左足の先端から汁が滴っていた。
黄色い膿みの混じった汁だ。
汁にぬかるんだ蟻が、溺れる恐怖と向けられた火の熱さの中でもがいている。
怯えろ。
怯える?
蟻に思考などあるものか、こいつらにあるのは腹を満たすことだけだ。
汁の先の肉が欲しいのだろう。
喰われてたまるものか。
焚き木の黒く焼け残っている部分を汁のもとになっている肉に押し付けた。
じゅうという音と共に肉の焼け焦げる匂いがたちまち鼻につく。
自分の肉の焼ける匂いは、慣れようにもどうにもならない。
たかっていた蟻も殆ど焼け死んだが、私の肉も死んだ。
いつまでもしつこい臭気に腰を上げた。
洞窟の外に出た。
私の住む洞窟は森に抱かれるようにある。
目の前には東シナ海が広がっている。
夜が白みかけている。
やがて太陽が昇る。
今日も暑くなりそうだ。
海面が穏やかな凪の顔で朝を待っている。
森の中から流れ出た河川は洞窟の傍を通り東シナ海へと繋がっている。
台風時には、海の荒れとひとつになってしまいそうな猛々しい顔を持つ川だが、普段は静かに流れている。
この川を辿り上流まで行くと、村へ通じる道が拓けているのが見下ろせる。
川から受ける恩恵は大きいが、間違えば猪狩りに森に入ってきた村民と鉢合わせになってしまう危険性もあるということだ。
森の中では人も獣も水飲み場を求めるのは同じだ。
ここからだと上流までに、ゆうに一キロの道程がある。
それにもう長い間、私は、その道を辿っていったことがない。
下流の海へ繋がる方の、ほんの少し上の滝壺で私の用は殆ど事足りる。
危険を冒すほどの用事が今の私にあるはずがない。
ここに住んで五年が過ぎた。
私は島を出たことになっている。
少なくとも表立ってはそういうことになっているはずだ。
私の病気は業の病というそうだ。
島の向かいにある、鳥がたくさん住む島に私と同じような人々が数人住んでいると聞く。
まだ行ったことはないが、村人は子供達が悪さをすると、クンチャー村(乞食村)に連れて行くぞと脅す、そういう島だ。
私は村をあげて師範学校へと送り出された者だったが、この病に感染した。母親が一人で住む故郷へ一時帰省を装い、娘を預け、村の反対側の海岸線にあるここに来て隠れ住んでいる。
ここ以外行くところがなかったのだ。
すぐにクンチャー村の住人になってしまうことに抵抗があった。
今にして思えば、そういう自分の誇り高さがどれほど惨めなことか。
だが顔や姿が崩れ出す前に隠れなければという判断が遅くなかっただけでもましだった。
またそう思わなければやってはいられない。
何度か娘を盗み見に村へ入ったこともあった。
そのたび、村人から追われた。
クンチャー村の連中が村に入ることを彼らは忌み嫌う。
闇に紛れて物を盗るからだと発病する前は思っていたが、発病してからは真の意味を己の肉体が教えてくれた。
病を確信して以来、娘をこの手に抱いたことなど一度もない。
娘の名前は七恵という。
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