第5話「魔獣の咆哮」
夜明け前の砦は、不穏な静けさに包まれていた。
遠く、風にまぎれて低いうなり声のようなものが聞こえた気がして、私は目を覚ました。
石造りの廊下を抜けて外へ出ると、冷たい空気が頬を打った。星は薄雲に隠れ、朝焼けもまだ遠い。見張り塔に灯る火だけが、夜の闇に小さな光を投げていた。
その瞬間――。
「魔獣だ! 魔獣の群れが南の森から接近!」
見張り番の絶叫が砦中に響き渡った。鐘の音がけたたましく鳴り、眠っていた兵士や使用人が慌てて起き出してくる。
私も心臓が跳ねるような感覚に襲われながら、駆け足で食堂へ向かった。
「ノクティア!」
メイラが慌ただしく駆け寄ってきた。夜具のままの彼女は、髪もまともに結んでいない。
だが、その目はしっかりと覚悟の色で光っていた。
「避難指示が出てる! 使用人と見習いは倉庫棟に集まるって!」
「わかったわ。でも、ケガ人が出るかもしれない。応急処置の準備もしておきましょう」
メイラは小さくうなずくと、私と一緒に倉庫棟へ走る。
兵士たちは各自の持ち場へと散っていく。装備を整える者、武器を配る者、魔導障壁の魔力供給を見直す者――。
その間にも、南門の方角からは獣の唸り声、木々がなぎ倒される重い音が響いてきた。
「今年は例年より魔獣の活動が早いな……」「あんな大群、ここ十年なかったぞ!」
動揺する声があちこちから聞こえる。
私は胸の奥がざわめくのを感じながら、倉庫の一角で包帯や薬品を整える。
「ノクティア、大丈夫……?」
メイラがそっと声をかけてくる。
「平気よ。ここがどんな場所かわかってて来たんだもの」
強がりではなく、本心だった。
でも、砦を襲う“あの気配”は――ただ事ではなかった。
砦の外壁に、最初の衝撃が走る。
石壁が震え、土埃が舞い上がる。見張り塔から魔導の光線が撃ち出され、闇夜に走る獣の影を照らす。
「ぐわっ……あ、脚が……!」
矢や魔弾が飛び交う中、負傷兵が数人、次々に倉庫棟へ担ぎ込まれてきた。
「傷口が深い……毒まで回ってる!」
「魔導士を! 魔導士はどこだ!」
叫ぶ声、泣き声、息も絶え絶えの呻き。
私はとっさに動き、消毒薬と包帯を手に取る。
「メイラ、こっちを持って!」
「う、うん!」
私は兵士の傷口に消毒液を注ぎ、必死で止血を試みる。だが、砦中の魔力障壁が揺らいでいるのか、時おり空気が妙にひやりと冷たく感じた。
(まずいわ……魔道障壁がこのまま持つとは思えない)
頭の中で、昨夜調べた砦の魔力流路図を思い浮かべる。南門近くの障壁中枢に“亀裂”が生じやすいことは既に確認してあった。
もし、あそこが破られたら――。
「メイラ、ここはお願い。私はちょっと様子を見てくる」
「えっ、でも……」
「大丈夫。絶対に無茶はしないから」
メイラは不安そうに私を見つめるが、私は笑ってうなずいた。
人目を避けながら、私は廊下の影から外壁の方へと足を進めた。
南門付近は混乱のただなかだった。
司令官カイラスが自ら指揮を執り、兵士たちに的確な指示を飛ばしている。
「右側の障壁が下がってきている! 魔導士班、至急魔力供給を増やせ!」
「砦の子供や非戦闘員は後方避難だ!」
「くそっ、あの大きさの魔獣……“鉄角獣”か!?」
石壁の外、闇の中に、巨大な影がうごめいていた。全身が黒鉄色の鱗に覆われた牛のような体、頭に異様に発達した角を持つ魔獣――鉄角獣。それを中心に、無数の中型・小型の魔獣が這い寄ってくる。
兵士たちの剣や魔導弾は、巨大な魔獣にはほとんど通じていない。
「障壁が……っ!」
青白い光を放つ砦の障壁が、鉄角獣の咆哮と共に激しく軋んだ。その衝撃で、すでに魔力が薄れている部分が歪み、細かなひび割れが走る。
私は迷わなかった。
人目のない石壁の影で、ゆっくりと深呼吸をし、両手を壁にそっと触れる。
(古代魔術……今なら、気配を消して発動できる)
周囲を気にしつつ、頭の中で静かに詠唱を始める。
――《守護と再生の理式、第五階梯・障壁再構築》
私の内側から流れ出す魔力が、壁を伝って砦中に広がっていく。
誰も知りえぬ古の言葉が空気の中に溶け、障壁の魔導回路に再接続されていくのが分かった。
障壁に走った無数のひびが、淡い光の糸で縫われていく。
やがて、その糸が輝きを増し、再び南門の障壁が活性化した。
「……障壁が戻った!?」
「今の、誰が……?」
「魔力班は後方支援を続けろ!」
カイラスの声が、どこか驚きと安堵を混ぜて響く。
私は人目に触れぬよう、その場からすぐ離れ、暗い廊下に身を隠した。
数十分後、魔獣の群れは障壁を越えられず、やがて徐々に退却を始めた。
夜明けの光が砦を照らし始めたとき、騒動はようやく終わりを告げた。
その後、私は倉庫棟で負傷者の応急手当に追われていた。
「ノクティア、大丈夫!? すごい音だったけど……」
血相を変えてメイラが駆け寄ってくる。
私はほっと息をつき、静かにうなずく。
「こっちは大丈夫。メイラこそ、無理しなかった?」
「うん、私、見習いだけど今日だけは役に立ちたくて……」
二人で小さく微笑みあう。
ふと、背後で兵士たちが話しているのが耳に入った。
「南門の障壁、奇跡みたいに戻ったな……誰がやったんだ?」
「司令官でも魔導士班でも手が出なかったのに。まさか、本当に“砦に神様がいる”のか?」
「いや、もしかしたら――“あの王都上がりの無能令嬢”とか……」
ちら、と視線がこちらに向く。
私はわざと知らん顔で、手元の包帯を結び続ける。
「まさか。でも、今夜の守りは、ちょっと異常だったよな……」
「“あの女”が魔法を使えるはずないし……でも、気味が悪いよな……」
称賛と疑いとが、複雑に入り混じったささやきが砦の空気に残る。
その日の夕刻。
全員が疲れ果てたなか、カイラス司令官は兵士たちを集めて言った。
「南門障壁の復旧は、誰が行ったのか……まだ分からない。だが、我々は生き残った。この砦には“何か”がある。それだけは確かだ」
彼の目が、ふと私のほうをかすめる。
私は静かに目を伏せてその視線をやり過ごした。
夜、メイラがそっと私の部屋を訪ねてきた。
「ノクティア……もしかして、南門の障壁……」
私は、そっと首を横に振る。
「分からないわ。ただ、みんなのために何かできたなら、それでいいの」
メイラは小さく微笑んで、静かに言った。
「やっぱり、ノクティアはすごい。私は……私も、いつか誰かを守れる魔導士になりたい」
「きっとなれるわ。メイラには、守りたいものがたくさんあるもの」
二人で、しばらく窓の外を眺める。
夜の空は澄みきっていた。
けれど、砦の人々の心には、まださざ波が立ち続けている。
――砦の空気が、少しずつ変わり始めているのを、私は感じていた。
「誰も知らない場所で、誰も知らない力で、誰かを守る」
それが、今の私にできる唯一の証明だった。
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