重ねる

 進んで命を危険に晒すような真似はしたくない。理由は至極単純で、まだ死にたくないからだ。

 それでも観静みしずの同行者兼案内人という役割を請け負った以上、危険な場所にわざわざ突っ込んで行かなければならない。俺はこれから、何回でも死を予感してしまうんじゃないんだろうか。


 例えば、廃旅館の二階にいるときに床が嫌な音を立てた時とか。


「結構外観よりボロだったね。車戻っててもいいんだよ?」

「お前になんかあったら俺の右腕はなくなったままだろ」

「それもそうか。いや、助かるよ。一人でここ回りたくないって思ってたから」

「なら最初からそう言え」

 観静は車の中に入っていた懐中電灯で前を照らしながら、床板が不安を駆り立てるような音が鳴る廊下を進んでいく。建物内は埃や木の腐った臭い、それに障子や畳を浸食しているカビの臭いが混ざり合っていた。

 

 最近知ったことなのだが、観静の大層立派な車のトランクには固形食糧をはじめ廃墟探索に役立ちそうなものがわんさか積まされている。元々二人で乗るのにも余るぐらいの広さなので、車中泊の際もトタン屋根の襤褸屋に泊まるよりかはよっぽどくつろげた。

 車にせよ道具にせよ、用意するには金がそれなりに掛るはずだ。観静が全て自分で用意したとは思えない。恐らく、観静が以前言っていた目玉を利用して利益を得ようとしている団体が用意したものだろう。


「お前は都市でどの程度の立場だったんだ?」

 思わずそう聞くと観静は足を止め、眉を顰めるとまた歩き出す。家鳴りのような板の軋む音がずっと続いていた。

「正直に言うと、立場なんてなかったよ。前に触陽ふように話した団体で俺は下っ端の下っ端だった。だからこうして外側に放り出されたんだ」

 無理矢理口角を引き上げているように見える観静は、そう言いながら懐中電灯で周囲を照らした。濃い木目の廊下は花瓶や手ぬぐい、浴衣なんかが散らかっている。

「じゃあこんなところで死んでたら放り出した連中を見返してやることもできないな。床がいつ落ちるかもわからないし少し様子を見たらさっさと戻るぞ」

「……そうだな。ありがとう」


 壁に掛った浮世絵風の絵を見ようとして立ち止まり掛けた観静は、今度は瞑っている右瞼を痙攣させまた歩き出した。

「お前どうかしたか……?」

「いや、なんでも。そういえば、触陽はなんで自動車の部品泥棒なんかしてたの?」

「……まあ、それしか生きてく方法が思いつかなかったからだ。やってるうちにそういう生き方がすっかり板に付いた」

「じゃあ泥棒やってない今は禁煙期間みたいなもんか」

「どういう例えだよそれ……」

 俺は旅館の受付で見つけたを手の中で回した。旅館の名前が書かれたマッチ箱には、牛車を引く頑強な牛が描かれている。この他にもいくつか見つかったが、湿気ってなかったのは一つだけだった。


 廃旅館に足を踏み入れることになったそもそものきっかけは、番頭が俺に渡してきたおまけの品だった。ラジカセを番頭に返し、夜に使いさえしなければ問題なく使えそうだということを伝えると、番頭は満足そうに頷いてから煙草を寄越してきたのだ。

 実に喜ばしいことだったが、吸うために必要な肝心な火がなかった。ライターを切らしてしまってから久しいため、どこかで手に入れる必要があった。民家から拝借してもよかったのだが「せっかく温泉街に来たんだし旅館のマッチがいいんじゃない?」という観静の提案によって今に至るというわけだ。





 懐中電灯の光はしきりに床のあちこちを照らしている。観静は時々通りざまに客室も覗いた。カビの生えた布団に腐ってボロボロになった畳、ハンガー。家電の類いは廃墟荒らしが持っていったのか見当たらないが、それ以外のほとんどの物が残っていた。


 気になったのは、観静がいつにもまして早足で歩いていることだ。

「戻ろう。ここなんも無いみたい」

 二階の物置を覗いたあと観静はそのまま踵を返した。俺もあまり長居はしたくないと思っていたが、それにしてはやけにあっさりしている。

「もういいのか? 目玉になんも見せられてないだろ」

「雰囲気だけで十分」

「それならいいけど……あ、すまんちょっと待ってくれ」


 ふいに、手の中で転がしていたマッチ箱を床に落としてしまった。箱の中から何本かマッチが飛び出している。拾うためにしゃがむと床板の軋む音が聞こえてきた。それに加えて観静が付近をしきりに彷徨いているので、うるさいぐらいの床板の音が鳴っている。 

「……観静、ちょっと手伝えよ。片手だと拾うのしんどいんだが」

「ごめん、一人で頑張って」

「そんなに何か気になるのか? なんもないってさっき自分で言ってただろ」

「そうだね、なんもない」


 そう言いながら、観静は自分の耳を数回指差すと歩調を緩めた。何かを聞けということか。

 床板の軋む音は先程と変わらず継続的にうるさいぐらい鳴っている。俺は違和感を感じた。

 どうして今の今まで気がつかなかったのか。床板の軋む音と観静の歩調はタイミングが明らかにズレている。俺は体重を片足に傾けた。床板は少しも音を立てず、その変わりに別の場所から木材を突き破るような音が聞こえた。


 周囲の温度が急に冷えて感じた。鳥肌が立つ二の腕を擦るのを堪え、急いでマッチを拾い立ち上がる。

「廃旅館の内部を見て回っただけで大分見応えはあっただろ」

「うん。なんもなかったけど床板が抜けなかっただけでラッキーだった」

 俺達は軋む音に歩調を重ねるように出来るだけ早足で、歩調はいつもより小刻みで出口へと向かった。

 早く車に戻りたいとも思った。観静とロクでもないものを見て回っているうちに、あの場所なら安全だという感覚が頭に染みついてしまっている。

 



 一階へ降り出口から外に出る間際、受付のカウンターに宿泊者名簿があるのが見えた。当然そこには掛け線の他には何も書かれていない。俺は傍に置いてあったボールペンを手に取る。名前は書かずに二名とだけ書き、日帰りと宿泊の字を横線で消す。変わりに『散策 歩き回った』と馬鹿らしく書いた。

 この場所には阿呆らしく呑気にやってきた俺達しかいない。そうしてペンを置いて玄関を出る頃には、床板の音は少しも聞こえなくなっていた。


 旅館のどこにも館内で履く用のスリッパが無かったが、どうせ大したことじゃないんだろう。大したことじゃないなら、わざわざ言う必要はない。



 そう長くない滞在時間だったが車内の空気はかなり熱されていた。観静が空調を強めながらため息を吐く。

「嫌になるな。音じゃだけじゃ目玉からすればなんともない。怯え損だったよ」

「そんあ日もある。俺だってガソリン盗もうとして失敗して今こうだからな」

「はは、運が悪かったな」

 通風口が吐き出す風が熱風から心地良い冷風に変わるころ、ようやく冷や汗が止まった。耳に床板の軋む音がこびり付いている気がする。あの音を思い出したくなくてできるだけ口を開いた。

「次はどこに行く?」

「特に希望はないけど、しいて言うなら気晴らしがしたい」

「俺もだ」


 俺はなんとなく、観静のボディバックに視線を向けた。観静の右目なんだから、本人が気晴らししたいと思ってるならあの目玉だってそうだろう。

「ちょっと思ったんだけどさ、このカバン触陽に持って貰おうかなって」

「は?」

 唐突な提案に俺は拍子抜けした。様子を伺っても観静から冗談を言っているような雰囲気は感じられない。


「お前が持ってた方が安全だろ。俺じゃいつ持ち逃げするかわからないぞ」

「そうなったらその時はその時だよ。持ち逃げされた間抜けの俺が悪い。それでも俺は観静に持ってて欲しい」

「やめろ、なんでそんなに信用してんだよ」

 俺はなんとなくむず痒くて顔を背け窓を開けたが、観静の意志は予想以上に頑なだったらしい。速攻で窓を閉められた。


「信用云々よりかは願望だよ。俺はさ、この目玉のこと気持ち悪いって思ってんだよ。俺は使い捨てられるようにしてここにいるのに、この目玉だけはやたら活き活きしてる。俺の体の一部だったらこうはならないはずなのにさ」

 観静はボディバックを俺に渡した。開いたチャックの隙間から、小瓶に入った右目が俺のことを見ている。


「だから俺はこの目玉にロクでもないものしか見せる気にはならない。でも触陽が持ってれば違うだろ? 体から離れた俺の一部を大事にしてくれそうだ」

「……荷物持ちの役割が増えちまった」

「よろしく頼んだよ」

 俺はため息を吐きタバコの箱をポケットから取り出した。こいつを外側に放り出した団体が用意した車だ。存分にヤニ臭くしたって構わないだろう。

 マッチを取り出してすぐに、片手でマッチを点けられる器用さは持ち合わせていないことを思い出した。早々に諦めシートに体重を預けると、いつの間にか車を止めていた観静にマッチを引ったくられた。

 あまり使い慣れてないのか、火を点けるのに多少手こずっているのをもどかしく眺める。ようやく点いた火に煙草を傾けると、車内に紫煙の匂いが広がった。


「どう? 喫煙車にした気分は」

「悪くない」

「良い性格してるなあ」

 小瓶の中の目玉がまるで観静に同意でもするかのように上下に揺れる。


 片腕が奪われた俺と奪った奴、その奪った奴の右目を持つ俺。傍からみれば気味の悪い二人だろう。それがどうしたとも思う。どうせ傍から見てくる人間なんてここにはいない。好きにさせて貰おうじゃないか。


 


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