第2話 融雪②
「おはよう。目が覚めて何よりだ」
突然、背後から声が響いた。思わず身体が跳ねるように反応して振り返ると、そこには白衣を纏った女性が立っていた。鏡に近付いてまじまじと自分の顔を見ていたせいで、背後に立っていた彼女に気付けなかったようだ。医療従事者らしい整った姿勢と冷静な眼差しを向けてくる彼女に、僕は威圧感を覚えて壁に張り付くように後退ってしまった。
「早速色々引っぺがしてくれたな…。まぁ、いい。混乱するのは正常な反応だろう」
女性は硬い表情を緩めて微かに苦笑すると、ベッド脇に設置された機器に手をかけた。機械の微かな作動音と共に、空中に淡い光を帯びたディスプレイが現れる。
「さて。記憶が無いようだな。何から覚えていて、何を覚えていないか、教えてもらえるか?」
彼女の言葉に頷いた僕は、再びぎこちない動きでベッドの縁に腰を下ろし、言葉を探しながら自分の現状と思い出した記憶の断片を口にした。
自分が何者なのか、まったく分からないということ。名前も、過去も、関わりがあったであろう人々の事も、何一つ思い出せないということ。覚えているのは、先ほど思い出したばかりの二つの記憶だけ。人間と獣が争ったような亡骸の山と、白髪に赤い瞳を持ち、背に赤い羽を生やした少年の姿だ。
その記憶が何なのか、彼が誰なのかは分からない。ただ、それが夢でも幻でもなく、“本物の記憶”であるという確信だけはあった。
女性は僕の言葉を聞き、ディスプレイに向かって正確に記録を打ち込んでいった。キーを押すたびに小さく鳴る電子音は耳障りがよく、話を遮る事は無かった。
時折彼女からの疑問に答えつつ話がひと段落すると、彼女は深く長いため息を吐き、無言のまま背後の白い壁に体を預けた。眉間に皺を寄せながらも感情を大きく乱すことはなく、ただ疲れを滲ませるような仕草だった。
それがどうにも気まずく、そして自分が生み出した状況というのもあり次の言葉を迷っていると、彼女とは別の声が部屋の隅から飛んできた。
「大変そうだな、記憶が無いなんて」
視線を向けると、先程の青年が腕を組んでこちらを見ていた。どうやら、話している途中から僕たちの話をずっと聞いていたようだ
「でもまぁ、すぐに思い出せるさ」
その声のあまりに軽い様子にだろう。女性が再び小さく溜息をついた。
「まったく、お前はいつも楽観的過ぎる!」
「成代はいつも考えすぎだろ?」
「はぁ…。確かに、検査では脳にも神経にも異常はなかった。いずれ戻る可能性は高いが…」
「なら、大丈夫だな!」
青年は嬉しそうに笑うと、勝手知った様子でベッド脇の椅子に腰を下ろした。その気さくな態度に、僕も思わず肩の力が抜ける。彼は初対面にも関わらず、どこか旧知の友人のような安心感を与えてくれる不思議な人物だった。
「俺はフロウ。こっちの不愛想なのが
「勝手に紹介しやがって…。ったく、こいつにはいつも振り回されてばっかだ」
その動作はぶっきらぼうでありながらも、完全に呆れているというわけではなく、どこか温かみが含まれているように感じられた。先程のやりとりもそうだ。二人の間に流れる気心の知れた空気に、僕の胸には言いようのない不思議な苦しさが込み上げた。
そんな感情をかみ砕こうとしていると、再びフロウさんがこちらに向き直った。
「さて、君のことはなんて呼べばいいかな?」
名前。
それは自分を自分たらしめる何よりの輪郭だった。しかし、いざ尋ねられてもそう簡単に浮かぶものではない。そもそも自分で決めるのは難しいと、僕は思考を巡らせてすぐにそう思った。
「そう言われても…」
言い淀みながらもそう返すと、フロウさんはほんの一瞬考え込むような素振りを見せてから、手のひらをぽんと打ち鳴らした。
「じゃあ、“スノウ”はどうだ? 雪の中で見つけたからね」
それはあまりに単純な名づけだったが、妙にしっくりと腑に落ちた。どこか懐かしいような感覚を覚え、僕は名前を口に出す。
「スノウ、ですか」
舌先に触れる音、口内で転がる響きのひとつひとつが、不思議なほど自分に馴染んでいくようだった。まるでこの世界のどこかに、かつて“スノウ”と呼ばれた自分が存在していたかのように。その感覚は、今の何もない自分に大きな安心感を与えてくれた。
「…うん。これがいいです」
そう言って自分で納得するように微笑むと、フロウさんの顔がぱっと明るくなり、満足げに頷いた。
「よし、スノウ。これからよろしくな」
言葉と共に差し出された手は、大きく温かく、柔らかな感触を宿していた。その温もりは空虚な胸に直接触れてくるようで、取るのに少し戸惑ってしまう。しかし、その手の向こうにある真っ直ぐな眼差しに覚悟を決め、僕は手を伸ばした。
彼の手を握り返すと、掌から伝わるぬくもりが胸の奥に小さな灯をともしてくれた。
名前を与えられたこと、そしてこの温もりを通じて初めて得た人とのつながりが、自分の存在を確かなものへと変えてくれたのだった。
少しの穏やかな感覚の後、フロウさんはふと表情を引き締めた。彼の緑の瞳は真っ直ぐに僕を捉えており、先ほどまでとは違う空気をまとっている。
「スノウは、これからどうしたい?」
唐突に投げかけられたその問いに、僕は考え込んでしまった。
今の僕には何もない。名前すら、今与えられたばかりだ。過去も、育った場所も、痛みも喜びも、誰かの温もりすらも思い出せない。残されているのは、ただの空白だけだ。
…けれど。だからこそ僕の中にはひとつだけ確かな思いがあった。
自分が何者だったのかを知りたいという思いだ。
この世界のどこかに生きていたはずの自分に触れてみたい。その感情だけは、胸の奥底にしっかりと根を張っていた。
しばらく考えて自分の気持ちを確かめた僕は、口を開いた。
「……記憶を、取り戻したいです」
言葉にした瞬間、胸の内にひと筋の光が差し込むような感覚が走った。思いを口に出すことで、それは曖昧な願いではなく意志へと変わったのだ。
フロウさんは僕の答えを聞くと、目を細めて静かに頷いた。瞳の奥に宿る安堵と喜びが、柔らかな笑みと共にこちらへ伝わってくる。
「よし。それなら、まずは住む場所が必要だ」
張り詰めていた空気を和らげるように、フロウさんは立ち上がった。
「さすがにこの診療所にいつまでも居座るわけにはいかないからね。なあ、
軽い調子で名前を呼ばれ、記録を整理していた様子の
「何と言っても、ひとりで大抵の治療を片づける天才医師、だからな。今日はスノウしかいないが、普段はもう少し人がいるんだ」
フロウさんが言葉を紡ぐと、
限られたベッドの数。食事や薬代、生活にかかる細々とした費用も馬鹿にはならないだろう。ここはあくまで患者のための診療所でしかなかった。
フロウさんは軽く笑い、続ける。
「でも、スノウは運が良い。俺に拾われたんだからね。住む場所は、俺が責任をもって提供するよ。もちろん、嫌なら断ってくれても構わない」
その言葉はあまりにも自然で、当然のことを告げるかのようだった。まるで最初からそう決まっていたかのような響きに、僕は思わず目を見張った。
「いいんですか」
「スノウがいいなら、俺は大歓迎だよ」
「……オレは推奨しねぇがな」
不意に渋い声が割り込んできて
明らかに不服そうなその態度には、医者としての立場を越えた、個人的な警戒心が滲んでいるように感じられた。
仲が良さげに感じられた二人だったが実際は違うのだろうかとフロウさんを見ると、彼は気にした様子もなく、ただ肩をすくめただけだった。
「そう言うなよ。スノウの体を調べたのは
「幻獣…?」
その言葉が耳に触れた瞬間、無意識に口が動いていた。聞き慣れない言葉のはずなのに、どこかで確かに耳にした記憶がある。遠い夢の中で耳にしたような曖昧な感覚が、僕の胸の奥をざわつかせた。
僕の反応にフロウさんは小さく目を瞬かせ、意外そうに息を呑んだ。しかし、すぐに柔らかい笑みを浮かべ直す。
「幻獣も忘れてるなんて…ずいぶん重症だね」
彼は少し姿勢を正し、今度は穏やかな口調で説明を始めた。
「幻獣っていうのは、この世界で人間より先に存在していたとされる種族なんだ。今でも詳しい生態はほとんど解明されてないけど、基本的には神聖な獣として扱われる」
そこで一度、彼は言葉を止めた。室内に広がる沈黙は、心なしか先ほどより少し重く感じられた。
「さっき君が言っていた記憶、亡骸の山……。君は人間と獣だと言ってたし、俺も最初はそう受け取った。けど、話を詳しく聞くに、恐らく人と幻獣だろうね。そして君自身の身体も……その見た目からは想像できないけど、臓器や神経の構造が、人のものとは明らかに違っている…。そうなんだろ?成代」
「──あぁ。通常の人間に比べて体温が高く、内臓構造が異質だ。骨も人間とは違っているようだが…オレが知っている幻獣に君のようなその、完全に人型である特性を持つものはいない。…せめて他にどんな特性があるのか…他の幻獣と照らし合わせるにも、もう少し時間が欲しい」
「だそうだ。つまり君は、人間じゃないってことだ」
告げられた事実は、思いのほか静かに胸に落ちた。驚きや恐怖はなかった。むしろ胸の奥で「やっぱりそうか」と呟く声がする。ずっと奥底で分かっていたことをようやく言葉にされたような、不思議な納得感があった。
「俺の所属している組織には、幻獣や半幻獣の仲間がたくさんいるんだ。むやみに一人で記憶を探すよりも、似た存在と共に過ごした方が、きっと何か手がかりを見つけられると思わないか?」
フロウさんの提案に、僕はちらりと、目だけで
僕は深く息を吸い、フロウさんの方へ向き直った。
「わかりました。よろしくお願いします」
口から出た自分の声は、震えも迷いもなく、揺るぎない響きを持っていた。
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