第3章 西の神域と絆の試練

西の神域――久奈嶺(くなね)。

かつて「言霊の地」とも呼ばれたこの場所は、言葉に宿る力を信仰する独自の文化と信仰体系を持っていた。

千年前の封印では“言葉による神縛り”が使われ、強大な力を抑え込んだとされている。


しかし近年、その封印に微細な歪みが生じ、周囲の集落では「言葉が通じない病」が増えていた。

言葉を忘れ、会話が成り立たなくなる――。

それは、人の“心と言葉のつながり”が断ち切られていく現象だった。


神楽殿に戻った琴音と千景は、早速、久奈嶺からの急報を受け取った。


「言葉が通じない? まるで……言霊そのものが乱されているみたい」

琴音は報せを読む手を止め、眉をひそめる。


「この報告……“神語封じ”という技術が使われた痕跡がある。

もしそれが悪用されているのなら、ただの病気じゃ済まない」

千景の声にも緊張が滲んだ。


神語封じ――古代の言霊術師が使っていた、言葉と記憶を結びつけ、他者の意識や記憶に介入する禁術。

それが神域の封印に干渉されれば、神そのものの意思が歪められる危険性があった。


「行こう、西の地へ」

琴音の決意に、千景はうなずく。


「君が決めたなら、俺は共に行く。それが俺たちの“契り”だ」


───


久奈嶺の地は、かつての白霧峠とはまた違った空気を持っていた。

谷あいに広がる集落は、霧ではなく静かな風に包まれていた。

空は晴れていても、何か“声が届かない”感覚が常に漂っていた。


「琴音様、千景様……」

二人を出迎えたのは、久奈嶺の言霊師たちだった。

その中の長老・**柾重(まさしげ)**は、深い皺と穏やかな瞳を持ち、言葉の一つ一つに重みを宿していた。


「言葉が……抜け落ちていく。我らが子や孫たち、気づけば言葉を忘れ、記憶も曖昧になってゆく。

これは“封印”の乱れではなく、誰かの意図が感じられます」


「誰かの……?」琴音が訊き返すと、柾重は静かにうなずいた。


「かつてこの地に封じられた神の一柱――“縛言(しばりごと)”の神。

その神は、契りに背いた者の口を封じ、真実さえも覆い隠す力を持っていました。

そして今、その“声”が、再び人の心を蝕み始めているのです」


まるで――言葉によって、人を支配しようとする意志が目覚めている。


「この地の封印を維持していたのは、代々“絆言葉”を伝える巫女の家系。

しかし……その巫女が、今は行方不明なのです」


柾重の言葉に、琴音と千景は思わず視線を交わした。


「その方の名は?」


「――弓月(ゆづき)。まだ若い娘でした。ですが、“口寄せ”の才が強く、神との契約に深く関わっておりました。

……彼女が消えた夜、不気味な唸り声と共に神域の封が軋む音が聞こえたのです」


琴音の心に、妙な違和感が走った。

弓月――どこかで聞いたような名だった。


「探しましょう。今のままでは、この地の人々の心が失われてしまう。

……私たちが、彼女を見つけ出して、もう一度“絆”を取り戻す」


千景も黙ってうなずいた。

彼の表情には、迷いはなかった。


だが、琴音の胸の奥には、小さな不安が灯り始めていた。

――もしその巫女が、自ら望んで封印を乱したのだとしたら?


真実と嘘。

信頼と疑念。


言葉が通じない世界で、二人は“心と言葉の絆”を、再び試されることになる。



琴音と千景は、久奈嶺の山中に広がる神域の調査を開始した。

封印を護る“言霊の柱”は四方に存在し、それぞれが異なる言霊の属性を担っている。

そのうちの一柱――南の柱にて、異常な波動が感知された。


「……音が、反響しない」

琴音が呟いた。


谷間にあるはずのこだまが消えている。

鳥の鳴き声も、風の音も、すべてが吸い込まれるように消えていく。


「まるで“声”を呑み込んでいるみたいだな」

千景も神剣の柄に手をかけ、慎重に歩を進める。


そして二人が南の柱へたどり着いたとき――

その根元で、ひとり膝を抱える少女を見つけた。


髪は月白に近い銀。

衣は久奈嶺の巫女装束。

だが、顔は俯いたまま、声もなく震えていた。


「……あなたは、弓月さん……?」

琴音がそっと呼びかける。


少女はびくりと肩を震わせた。

けれど、返事はない。いや、返せなかった。


「……声が……出ない?」

琴音はすぐに気づいた。

彼女の喉に、かすかな“封印紋”が浮かんでいた。


神語封じ――。

弓月は、何者かに“声を奪われた”状態だった。


「大丈夫。私たちはあなたを助けに来たの」

琴音がそっと膝をつき、同じ目線で語りかけると、弓月の目に涙が溢れた。


その瞳が、必死に“言葉の代わり”を求めていた。


琴音は自身の掌を見つめた。

かつて白霧峠で授けられた「神火の印」が、ほのかに光っている。


「私の声で、あなたの封印を解いてみせる」


千景が頷き、後ろに下がる。

琴音は弓月の前に座り、祈りの型を取りながら、ゆっくりと“言霊の誓詞”を紡ぎ始めた。


《我、契りの巫女として、ここに祈る

心閉ざされた者に、再び言葉の火を灯さん》


言霊は周囲の空気を震わせ、光の粒となって弓月の身体を包む。

彼女の喉に刻まれた封印紋が、じわじわとほどけていく。


《忘却の鎖を断ち、記憶と声を還元せよ

これは贖いではない――再誕である》


封印が崩れる音が、確かに聞こえた。


「……あ……あの……わたし……」

声が、戻った。


弓月は嗚咽しながら琴音に縋りついた。


「怖かった……誰も信じられなくなって……でも、あなたの声は、暖かかった……」

琴音は彼女の背をそっと撫でた。


「もう大丈夫。あなたの声は、ちゃんとここにある」


千景が一歩前に出た。

「君に聞きたい。封印を乱したのは、君自身か? それとも――誰かが干渉した?」


弓月は涙を拭いながら、小さく首を振った。


「わたしじゃない……でも、私の心の隙を狙った“誰か”がいたの。

その人は、優しい言葉をくれた。『言葉なんていらない、心だけで繋がればいい』って……」


琴音の背筋に冷たいものが走る。


言葉を否定する甘言。

それはまさしく――“縛言の神”が人に囁く誘惑だ。


「彼は……“翳月(かげつき)”と名乗っていた。どこか、あなたに似ていた……琴音様」


「私に……?」


「顔じゃない。声……声の響きが、そっくりだったの」

弓月の言葉に、琴音の手が無意識に震えた。


(まさか……私の声を模した存在が?)


すると、その瞬間。

南の柱が強く脈動し、周囲の空気が凍てつくような冷気に包まれた。


「来るぞ――!」千景が叫んだ。

神剣が閃き、空を裂いた。


そして霧の奥から現れたのは、黒い衣を纏った男。

顔は隠れているが、声だけがはっきりと響いた。


「初めまして、琴音。……いや、契約の巫女よ。ようやく会えたな」


その声は――琴音自身の声だった。

微細な抑揚や息遣いさえも、完璧に模倣された“偽りの声”。


「君の声は美しい。だからこそ、皆が信じる。

でも……言葉なんて、所詮、裏切る道具に過ぎない。

“言葉を捨てて生きる”方が、ずっと楽だと思わないか?」


偽琴音――“翳月”は微笑んだ。

その目には、全てを見透かすような冷たさが宿っていた。


琴音は息を呑んだ。

“声”を奪われる恐怖。

“言葉”を否定される絶望。

そして“自分の信念”を揺るがされる圧迫感。


だが――


彼女は、まっすぐ翳月を見返した。


「言葉は時に裏切る。確かにそうかもしれない。

でも、それでも私は、信じたい。

声が届いたあの瞬間の、心のつながりを」


手を差し出し、弓月の手を握る。


「彼女の声が戻ったのは、言葉が嘘じゃないから。

……だから私は、あなたの声じゃなく、“私自身”として戦う」


翳月は初めて、わずかに目を細めた。


「……面白い。では、確かめさせてもらおう。“本当の声”というものを」


霧が濃くなり、周囲の音が消えた。


言葉なき世界での戦いが、今始まる。



――言葉が、消えた。


音が消え、風のざわめきも消え、世界はまるで音楽を失った舞台のように、沈黙に包まれていた。

翳月が手を広げると、音そのものを封じる結界が展開されたのだ。


琴音と千景、そして弓月の三人はその中に囚われ、声を交わせない状態に陥った。

千景が唇を動かしても、音は生まれず、剣を抜く音すら空気に呑まれてしまう。


“言葉なき戦場”――それが、翳月の作り出した空間だった。


だが琴音は、静かに目を閉じて、一歩踏み出す。

彼女の掌に灯る神火の印が、淡く金色の光を帯びて揺れていた。


《……伝われ、心の声よ……》


かつて白霧峠で神から授かった「未来を選ぶ力」。

それは、言葉が交わせない時にこそ真価を発揮する力だった。


琴音の瞳が、まっすぐに翳月を見据える。


翳月は言葉を発しない。

だが、その口元が皮肉げに歪む。


「声がなければ、君はもう“誰でもない”。君の“信じる力”は消えた。そうだろう?」


そう言っているかのように、翳月は口を動かしながら手を掲げた。


黒い波動がその周囲から広がり、まるで“心の声”すら掻き消そうとしてくる。


――否。消えていない。


琴音は、弓月の手を強く握った。


“言葉がなくても、心は届く”

その想いが、光となって彼女の身体を包む。


次の瞬間――


琴音の身体から、まるで花弁のような光が舞い上がった。

それは「祈りの舞」。声を発さずに、身体で語る舞であり、神と心を通わせる最奥の巫女術だった。


ひと振りの手。

一歩の足運び。

すべてが言葉の代わりとして、真意を宿していた。


千景がはっと目を見開く。


琴音の舞は、声以上に強い意志を帯びていた。

“私は、消さない。

この世界の声を、言葉を、絆を”


翳月がたじろぐ。


琴音の舞によって、結界にひびが入り始めていた。


千景が剣を抜く。

彼の剣もまた、舞と同じく、意思を帯びた動きだった。


「――守るための剣。それが俺の、契りだ」


声は届かなくとも、その動きに込められた強さは、琴音と共鳴していた。


翳月の周囲に黒い蛇のような影が湧き上がる。

それらが琴音と千景に向かって飛びかかってきたその瞬間――


「うああああああああ!!!」


――声が、響いた。


それは、弓月の叫びだった。


声なき空間で、本来ありえない“声”が、彼女の喉から放たれた。


神語の片鱗――封じられた巫女の“本質”が解き放たれた瞬間だった。


「わたしの言葉を、返して……!

わたしは、言葉を信じたい! あなたに奪われたままじゃ、終われない!!」


その言葉は琴音の舞と同調し、霧の結界を一気に破壊した。


破れた空間の中、翳月が呻く。


「……ならば……見せてみろ……言葉で紡ぐ未来を……」


彼の姿は、霧と共に消えていった。


静寂が、破られた。


風が戻り、鳥が鳴き、光が差す。


世界が、再び“声”を取り戻したのだった。


───


三人は、南の柱の前で肩を並べて座っていた。


弓月は、ゆっくりと口を開いた。


「……声が戻るって、こんなに……泣けるんですね……」


琴音が微笑む。


「それは、あなたが“誰かに届いてほしい”って思ったから。

言葉って、ただ話すものじゃない。“届けたい”って願いがあって初めて、力になるの」


千景も静かに頷いた。


「翳月は逃げたが、終わりじゃないな。奴は、まだ“声”を奪おうとしてくるはずだ」


琴音は、遠く西の空を見つめた。


「それでも……私たちの声は、きっと届く。

言葉が信じられなくなったときこそ、信じよう。

信じた先にしか、本当の絆は生まれないから」


風が吹いた。


それはどこまでも静かで、優しい風だった。



久奈嶺の夜は、静寂の中にさざ波のようなざわめきを孕んでいた。

神域の柱が発する気配が、僅かに震えている。

それは、完全な安寧ではない証だった。


「翳月の気配は消えたが、完全に去ったわけじゃない。

彼は……“言葉を否定する信仰”を広げようとしてるのかもしれない」

千景の言葉に、琴音はうなずいた。


「彼は、“言葉は裏切るもの”だって言っていた。

でも、それでも私は、言葉でしか届かない想いがあるって信じたい」


弓月は小さく笑い、そっと自らの喉に触れた。


「わたし……小さいころに母から絵本を読んでもらったとき、声の響きが好きだったんです。

その“声”があったから、言葉ってきっと信じられるって思ってた……だから、あなたたちに会えて良かった」


琴音は優しくその肩に触れた。


「あなたの声はもう戻った。これからは、あなたが“誰かの声”になる番よ。

その力が、きっとこの地の人たちを守るわ」


村へ戻った琴音たちは、長老・柾重の前で一部始終を報告した。

弓月の証言、翳月の存在、そして失われた言葉が戻り始めたこと――


「……あの娘が声を取り戻したこと、我々にとって何よりの希望です。

“絆言葉”は、人が信じる限り、力を宿す。ならば我らも、改めてその力を継がねばなりませんな」


柾重はそう言って深々と頭を下げた。


「そして琴音様、貴女の導きと覚悟。

言葉を封じられてもなお信じる強さは……かつての巫女を超えたと言っても過言ではありません」


琴音は微笑んで、そっと返した。


「私はまだ途中です。けれど、言葉を届けたいと思う限り、歩みは止めません」


千景も静かに言葉を重ねた。


「俺たちの契約は、形式だけのものじゃない。

これからも一緒に、誰かの声に耳を傾けながら進んでいきたい。……それが、“絆”だと信じてる」


その夜、久奈嶺では久しぶりに「ことのは祭」が行われた。

言葉の神に感謝を捧げ、語らいを大切にする祭。


琴音と千景、弓月も参加し、村人たちの笑顔に包まれながら灯火の前に座っていた。


炎の揺らぎの中、琴音はふと、母が言っていた言葉を思い出す。


《言葉には魂がある。だからね、誰かのために言葉を使うなら、優しくありなさい》


優しさは弱さではなく、届けるための強さなのだ――


祭が終わった後、千景がそっと問いかけた。


「琴音……これからも、君は“神の声”を継ぎ続ける覚悟があるのか?」


琴音はほんの少しだけ間を置いて、しっかりと頷いた。


「うん。だって私は、もう“器”じゃない。

私は……“契りを選ぶ者”として、誰かの声を守りたい。

それが、私の生きる意味だと思うから」


その横顔は、神々しいほど静かで、確かな光を帯びていた。


風が吹いた。

今度は、何かを告げるような、遠い呼び声と共に。


琴音が振り返ると、社の鳥居が揺れ、遠く東から“新たな神域の気配”が届いていた。


「……次が来る」

彼女は立ち上がり、千景と目を合わせる。


「今度は……“北”ね」

千景は剣を背に負い、頷いた。


「どこまでも、共に行こう」


二人は、再び歩き出す。

言葉と絆を信じながら、まだ見ぬ神域へ。

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