続編 第1章 白霧峠の呼び声

春の陽射しが差し込む神楽殿の庭には、薄紅色の花びらが静かに舞っていた。

新緑が芽吹く季節。町は、かつての戦乱を乗り越え、確かな再生の歩みを進めていた。


琴音は朝の祈りを終えた後、縁側に座って湯飲みを手にしていた。

その表情は穏やかでありながらも、どこか遠くを見つめているようだった。


千景が、静かに隣に座った。彼はすでに町の執政の役割を果たしながらも、神楽舞の修練を欠かさなかった。

「また、遠くを見ている顔をしているな」


琴音は微笑みながら湯を一口飲む。

「最近、夢を見るの。白い霧に包まれた峠。誰かが呼んでいるの。……声は、懐かしいような、怖いような」


千景は少し眉をひそめた。

「白霧峠、か……。東の神域。封印の地として、古い文献にも記されていたはずだ」


その名を聞いた瞬間、琴音の胸の奥にひんやりとした感触が広がった。

子どものころ、祖母に聞かされた古い伝承――

“白霧峠には、神と人の契りが眠る”――という言葉が、朧げに記憶に残っていた。


その日の午後、町の巡回から戻った美琴が急ぎ神楽殿を訪れた。

その手には、一通の手紙があった。封は東の領地、**朽野(くちの)**の神官からのものだった。


「これ……白霧峠の封印が、揺らいでいるとの知らせです」


琴音と千景は顔を見合わせた。静かな決意が互いの瞳に浮かんでいた。

「行こう、千景。まだ見ぬ東の地へ」

「君となら、どこへでも行ける」


こうして、二人は再び旅立つこととなった。


───


白霧峠へ向かう道中、季節はゆっくりと春から初夏へと移り変わっていた。

峠は、町から数日東にある山々の境に位置している。そこは“神域”と呼ばれ、常に霧が絶え間なく流れているという。


道すがらの村々では、二人が神楽殿の巫女と舞士であることを知ると、丁重なもてなしと同時に、恐れの声も寄せられた。


「最近、峠の森に入った者が戻らぬのです」

「夜な夜な獣とも人ともつかぬ声が響き、家畜が突然倒れるのです」


人々の話は、すでにただの自然の異常ではないことを示していた。


そして七日目の朝。二人はついに白霧峠のふもとにたどり着いた。


そこは、まさしく「息をする霧」が存在する場所だった。

霧はただ流れているだけでなく、まるで意志を持っているかのように、行く手を拒むように動く。

鳥のさえずりすら聞こえず、全てが静寂に包まれている。


「……感じる?」琴音が言った。


千景は黙って頷いた。

「何かが、呼んでいる。深く、古い、感情のようなものだ」


峠を登り始めてすぐ、霧の中に何かが動いた。

黒く、大きな影。それは人の形をしていたが、どこか歪んでいた。


「……御霊だ」琴音が呟いた。


それは、かつてこの地に生きた人間たちの“想い”が、封印の力に引き寄せられ、霧に取り込まれて変質したものだった。


千景が神楽舞を構え、琴音が祈りを始める。

闇と祈りが交差するように、御霊は呻き声をあげて消えていった。


しかし、峠を進むたびに、御霊の数は増え、霧は濃くなっていく。


その中で琴音は、幼いころに亡くした母の姿を見た。

「琴音……あなたは、まだ知らない。自分の血のことを」


それは幻か、それとも――


驚愕の言葉に動揺しながらも、琴音は奥へと進む決意を固めた。


そして、峠の最奥――“契りの社”にたどり着いたとき、二人の前に現れたのは、

神と契約を交わしたかつての巫女の御魂だった。


「……ようやく来たのですね。我が後継者たちよ」


その声は、時を超え、琴音の血に眠る記憶を揺り動かした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る