第4章 二人だけの祭り
それはある日の夕暮れだった。
縁側に腰掛けて茶を飲んでいた琴音の元に、千景がふいに現れた。
「町では今夜、夏の祭りらしい」
「えっ……」
琴音は目を瞬いた。
祭りのことなど、すっかり忘れていた。
「商店街の灯籠祭りですか?」
「そうらしい。参道に灯籠を並べて、山の神に感謝を捧げる……だが、もう形だけの行事になっている」
千景の言葉には、どこか拗ねたような響きがあった。
本来、灯籠は神使が導いて回るのが正式な形だったはず。
それを知っている千景にとっては、どこか寂しさがあるのだろう。
「……行ってみたいです」
琴音が言うと、千景はわずかに眉をひそめた。
「町に?」
「いえ……ここで。私と、千景様で。ふたりだけの灯籠祭り、してみませんか?」
千景は目を細め、しばらくの間じっと琴音を見つめた。
やがて、静かに言った。
「……そういうのが好きだな、君は」
「そうかもしれません。でも、誰かの心に残るなら、それで十分じゃないですか?」
千景は口元だけで小さく笑った。
そしてその夜、琴音は月嶺家の庭に、小さな灯籠をいくつも並べた。
和紙を重ねて作った即席の灯籠に、蝋燭を入れ、一つひとつに火を灯していく。
「……思っていたより綺麗ですね」
そう言ったのは、後ろからそっと現れた千景だった。
今夜の彼は、いつもの白装束ではなく、墨色の浴衣に身を包んでいた。
髪は緩く結われ、いつもよりもどこか柔らかな雰囲気を纏っている。
琴音は、目を見張った。
「千景様、すごく……お似合いです」
「そうか?」
「はい。ちょっと、町の青年みたいです」
「それは、褒め言葉なのか?」
琴音はくすりと笑った。
その笑い声に、千景も自然と口元を緩める。
火の灯った灯籠が、庭に並ぶ。
揺れる光の中、琴音と千景は肩を並べて歩いた。
「子供の頃、母と一緒に灯籠を見に行きました。家がまだ元気だった頃です」
「そうか」
「……でも、こうして誰かと並んで歩けるなら、それだけで、充分です」
千景は答えなかった。
けれどその横顔には、どこか温かいものが宿っていた。
「昔は、こうして人々の願いを灯籠に込めていた。神楽殿で舞い、灯籠を流す。そんな夜もあった」
「それを……また、できたらいいですね」
琴音の言葉に、千景はわずかに顔を伏せた。
「できはしない。もう誰も信じてなどいない。人は、神を必要としなくなった」
「でも私は、千景様を信じています」
「……」
「あなたが人でなくても、神でなくても。私は、あなたのそばにいます」
沈黙が流れる。
それは、言葉よりも雄弁な時間だった。
やがて、千景がぽつりと呟いた。
「……願いごと、あるか?」
「え?」
「灯籠に、願いを書くものだろう。子供の遊びだが、悪くない」
琴音は少しだけ考えてから、筆を手に取った。
そして、和紙の灯籠に一言だけ書いた。
——「この日が、少しでも長く続きますように」
千景はそれを見て、目を細めた。
「慎ましい願いだな」
「でも、大事な願いです」
琴音が微笑むと、千景は手に持っていた狐面をそっと外し、灯籠の横に置いた。
「……私も、ひとつ」
筆を取った千景は、簡潔に一言だけ書き入れた。
——「人の温もりを、忘れずにいられますように」
それを見た琴音は、そっと目を伏せた。
ふたりの願いが、そっと火に照らされて浮かび上がる。
灯籠はゆらゆらと揺れ、風に踊るようにきらめいていた。
そのとき、空から細かい雨粒がひとつ、ふたつと落ちてきた。
「雨……」
「狐の嫁入りだな」
千景が小さく笑う。
琴音も、ふっと口元を緩めた。
「なら、私は本当に……狐の嫁になったんですね」
「そうなるな」
「悪くないです」
千景はその言葉に、じっと琴音を見つめた。
そして、静かに言った。
「……私も、そう思う」
細かい雨のなか、ふたりは灯籠の火を守るようにそっと手を重ねた。
静かで、誰にも知られない、ふたりだけの祭り。
その夜、月嶺家の庭には、確かに“祈り”があった。
それは神ではなく、人と人のあいだに生まれた小さな奇跡だった。
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