狐の嫁入り、契約は恋を連れて
ゆずの しずく
第1章 契約の花嫁
古都・葛原——。
山々に囲まれ、川のせせらぎが町を横切るこの地には、古より“神”と“人”が共に在るという信仰が根づいている。神社が生活の中心にあり、祭りには必ず“神使”が舞い、季節の移ろいに合わせて人々は祈り、暮らしてきた。
その町の中でも一際古い家のひとつが、香月家である。
香月琴音は、香月家の長女として生まれた。控えめで、物静かで、けれど芯の強さを持つ十八歳の娘だった。家はかつて、神社の御守役として栄えていたが、時代の波には逆らえず、いまや家計は傾き、土地も維持できない状態になっていた。
そんなある日、琴音に一つの話が持ち込まれる。
「月嶺家との婚姻話よ」
母がそう告げたとき、琴音はただ静かに頷いた。すべてを理解していた。
それが家を救うための“契約結婚”であることを。
月嶺家。
町の北部、山の中腹に広がる広大な敷地を持ち、霧に包まれた屋敷に住まうその一族は、“神使の家系”として知られていた。誰もその当主の姿を見たことがなく、町の人々は彼らを畏れ、同時に崇めていた。
白い狐を祀る一族。神の血を引くと言われる者たち。
——そしてその一族の当主こそが、琴音の“契約相手”だった。
「形式だけの結婚よ。名前だけの夫婦でいいの」
母は言い切った。冷たい口調だったが、その裏にある不安も、琴音は感じ取っていた。
——それでも、断る選択肢はない。
嫁ぐ日、琴音は白無垢に身を包み、無言のまま神前に立った。
儀式は静かに進み、町の者の見届けもないまま終わった。
彼女は、まるで一人で旅立つような心持ちで、月嶺家の門をくぐった。
門を越えた瞬間、空気が変わった。
——冷たい。
真夏だというのに、風はひんやりとしていて、蝉の声すら聞こえない。
霧が流れ、緑が濃く、時間の流れが異なるような感覚に陥った。
古びた木造の屋敷は、どこか神殿のような静けさを湛えていた。
案内もなく、琴音は一室へ通された。
そこには、すでに誰かの気配があった。
「入るぞ」
襖が音もなく開かれ、現れたのは——
白銀の髪を持ち、琥珀の瞳を持つ青年。
清らかな白装束をまとい、背には、ふわりと揺れる白い尾。
「君が……今日からの“妻”か」
その男、月嶺千景は、明らかに“人間”ではなかった。
琴音は思わず息を呑んだ。
だが、彼女は逃げなかった。怯みもしなかった。
ただ、静かに頭を下げた。
「香月琴音です。本日より、お世話になります」
千景は眉をひそめ、興味なさげに言った。
「月嶺千景。契約通り、婚姻の形式だけは守る。互いに干渉しないこと、それが条件だ」
琴音は頷いた。
まるで台詞のようなやり取りだった。
それからの日々は、予想以上に静かだった。
食事は別々。会話も最低限。屋敷の中で顔を合わせることすら稀だった。
琴音には使用人もつかず、掃除も洗濯もすべて自分でこなした。
不満はなかった。ただ、どこか張りつめた空気があった。
ある夜、琴音は障子越しに月の光が差し込む庭を眺めていた。
その庭の中心で、白い狐が舞っていた。
——あれは、千景……?
尾が揺れ、前足が地を踏み、まるで古の神楽のような動きだった。
静かで、しなやかで、美しい。
「……舞っているの?」
思わず琴音が声をかけると、狐の姿がふわりと揺れ、青年の姿へと戻った。
「昔の儀だ。体が覚えている」
千景は月光の下で微笑んだ。その微笑みは、どこか切なかった。
琴音は問いかけた。
「なぜ私を選んだのですか?」
千景は答えなかった。
長い沈黙のあと、ぽつりと呟くように言った。
「お前の家が、崩れかけていた。それだけだ」
——それはきっと、嘘ではない。けれど、本当でもない。
琴音はそう思った。
千景は、誰にも心を許していない。
誰かと関わることを拒み、孤独を選んでいる。
琴音はその姿に、なぜか懐かしさを感じた。
その日を境に、二人の間に少しずつ変化が生まれた。
廊下ですれ違えば、挨拶を交わすようになった。
ある日には、本を貸してくれた。
またある日には、屋敷の裏庭に咲く花の名前を教えてくれた。
「これは、“月鈴草”。この地にしか咲かない」
白く、小さな花。
音を立てることなく咲くその花は、千景のようだった。
琴音は、彼の心に触れたいと思うようになっていた。
——契約の妻。それでも。
けれど、千景は一線を越えさせなかった。
「君は長くいない。人の時間は短い」
それは、過去に誰かを失った者の言葉だった。
琴音はゆっくりと、言葉を返した。
「限られた時間だからこそ、できることをしたい。たとえそれが、あなたの隣で咲く花のように、静かな存在だったとしても」
千景は、その言葉に表情を曇らせた。
そして、わずかに目を伏せ、こう呟いた。
「……君は、変な人間だ」
その言葉の裏に、微かな笑みがあった。
そうして、静かな二人の暮らしは、少しずつ色を変えていく。
契約で結ばれたはずの夫婦。
だがその契約の下で、確かに芽吹き始めた何かがあった。
それはまだ、恋と呼ぶにはあまりにも脆く、か細いものだった。
だが確かに、そこに在った。
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