第32話
朝、目覚ましの音でゆるやかに意識が浮かび上がる。
布団の中にはまだぬくもりが残っていて、外の空気が冷たいことを想像するだけで、もう少し布団に包まれていたくなる。
でも、今日はなんだか違う気がしていた。
窓を開けると、頬を撫でる風の中に、ほんのりと土と草の匂いが混ざっていた。
春の匂いだ。
太陽の光も少し暖かく、冬の厳しさをそっとほどいてくれているように感じる。
身支度を整え、いつものように共用スペースの台所へ向かう。
最近は寒さが厳しかったこともあり、具だくさんのお味噌汁に数品のおかず、というのが定番だったが、今日は少し春めいたものを作ってみてもいいかもしれない。
台所に入ると、調理台の上にビニール袋が置かれていた。
中には何が入っているのだろう。袋の中を覗き込む。
そこに入っていたのは、ゴロゴロと大きな新たまねぎと、数パックのイチゴだった。
「いったい、誰だろう……?」
袋の中には、メモが一枚入っていた。
そこには『走ってたら、朝市で新タマネギとイチゴが売ってたから買ってきた!』と書かれていた。
朝から運動していたとなれば、きっと長岡さんだろう。
ありがたく使わせてもらうことにした。
水分の多い新たまねぎは、オニオンスープやサラダ、炒め物にも合いそうだ。
どうしようかな、と考えながら冷蔵庫や戸棚を開ける。
よし、ベーコンと冷凍のほうれん草がある。これでスープを作ろう。
あとは目玉焼きとソーセージを焼いて、イチゴとヨーグルトを添えれば栄養もばっちりだ。
食パンも、枚数は問題ないことを確認済みだ。
いつものように、野菜を切って鍋に放り込む。
手早くフライパンに卵を落とし、蓋をする。みんなの黄身の好みに合わせて焼く時間を変えるのも、我ながら手慣れたものだ。
特に美咲ちゃんは半熟が好きだから、美味しく食べてもらえるように気を配る。
イチゴはへたを切り落とし、数粒ずつ小皿に分けてから、ヨーグルトを上からかける。
恐らく必要ないだろうが、お好みで、糖蜜をかけてもらってもいいだろう。
そうしているうちに、台所においしそうな匂いが広がってくる。
その香りにつられるように、共用スペースの引き戸が開いた。
今日はめずらしく一番乗りなのは、宇津井さんだった。
「……おはよう」
「おはよう。今日もおねむですか?」
「……ん、ちょっとだけ」
ぼさぼさの黒い髪をポリポリと掻きながら、ゆっくりと中へ入ってくる。
そして、いつものように食器棚の方へと歩いていった。
「……今日は、何を並べたらいい?」
「今日はスープとヨーグルトがあるので、大きいスプーンと小さいスプーン、それからお箸ですね」
「了解」
「あ、今日は牛乳なんでコップも並べてもらえると助かります」
「分かった。……後でやっとく」
食器の入ったケースを抱えて、畳敷きの部屋へ向かう。
宇津井さんのその姿も、すっかり見慣れた風景になっていた。
しばらくして、仕事や学校へ向かう格好の美穂さんと美咲ちゃん、そして一度シャワーを浴びたのだろう、さっぱりとした様子の長岡さんが現れて、いつものように朝ごはんの時間が始まる。
みんなで手を合わせて「いただきます」を言ってから、料理に箸を伸ばすのも、すっかり日常になっていた。
「今日、たまねぎとイチゴ、ありがとうございました」
「いやあ、イチゴが美味そうだったから、つい買っちまった」
「旬の食材は……いい」
満足げな表情で、黙々とスープを口に運ぶ宇津井さん。
その姿を見て、長岡さんも少し笑みを浮かべていた。
「このいちご、すっごく甘くて美味しいね」
「ほんと。こんなに美味しい苺を食べたの、久しぶりかもです」
美咲ちゃんと美穂さんも、嬉しそうにイチゴヨーグルトを味わっている。
特に美咲ちゃんはフルーツが大好きなので、こんなふうに喜んでくれると、こちらも嬉しくなる。
朝の日差しが窓越しに差し込み、畳の上にはやわらかな影が揺れていた。
誰かの箸の音や、スプーンがかすかにぶつかる音。そんな小さな物音にも、どこか心地よさを覚える。
「そういえば、今日の午後から雨が降るらしいですよ」
「みたいですね。美咲にも折り畳み傘を持たせています」
「洗濯物……今日は干そうと思ったのに」
「ははは、まぁ明日は晴れるみたいだな」
「私も洗濯物が溜まってきてるんで、宇津井さんのことは笑えないです……」
「だめですよ、綾香さん。こまめにお洗濯しないと」
「……はい」
いつもの、とりとめのない話を交わす朝の食卓。
初めてこの場所に来た頃に比べると、みんな、すっかり打ち解けている。
こうして話していると、自然と楽しい気持ちになってくる。
「ちょっと暑くなってきたんで、少しだけ窓を開けてもいいですか?」
「おう、いいぞ」
「わたしも大丈夫!」
換気のために、窓を少しだけ開ける。
起きたときよりも、春の匂いが濃くなって鼻に流れ込んできた。
もう、春はすぐそこだ。
私が荒巻荘にやってきてから、もうすぐ一年になる。
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