第29話

年末も近づいてきた朝。目を覚ました瞬間、いつもと違う感覚があった。

喉の奥に、ほんの少しざらつき。

頭の中には、うっすらと霧がかかったような重さ。

強い痛みがあるわけではないけれど、身体の奥のほうがじんわりと重く、思い通りに動いてくれなかった。


窓の外は曇っていて、前の晩から降り続いていた雪がまだ静かに積もっている。

毛布の中のぬくもりが名残惜しくて、もう少しだけこのままでいたいと思った。


それでも、荒巻荘の朝は始まる。

朝ごはんをつくるのは私の役目。台所に立つことが、自分の日常を支えている。

布団の重さをそっと押しのけて、ゆっくり身体を起こす。

やっぱり、いつもよりずっと重い。手足が鈍く、背中に熱がこもっているようだった。


洗面台の鏡の前で顔を覗くと、髪は少し乱れ、頬はぽっと赤みを帯びていた。


「今日は……ちょっと、無理しない方がいいかも」


誰に言うでもなく、小さく漏らした言葉が、鏡越しの自分に吸い込まれていく。


すぐにグループラインで状況を報告すると、宇津井さんと長岡さんから、ほぼ同時に返信が届いた。


『……大丈夫? 食欲ある?』

『まずは病院に行こうぜ。車出すからよ』


その直後、部屋のインターホンが鳴った。

身体を起こしてドアを開けると、そこにはコート姿の美穂さんが立っていた。


「すみません。心配になって、来てしまいました」


出勤前なのだろう。黒のジャケット、パンツスーツの上下に、ベージュのコートを羽織っていた。

その傍には、少し眠たそうな顔をした美咲ちゃんが、ぽふぽふと地面を踏みしめている。


「美咲は学童に預けてから行きますので、今日はゆっくり休んでくださいね」

「……はい、ありがとうございます」

「綾香さん、早く元気になってね」

「長岡さんと宇津井さんは、今日は一日中荒巻荘にいるって言ってました。何かあったらすぐ連絡してください」


そう言って、ふわりと笑いながら、美穂さんは美咲ちゃんの手を取って門の方へと歩いていった。

後ろ姿が視界から遠ざかっていくにつれ、静けさが戻ってくる。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「まあ、風邪で済んでよかったよな」

「……そうですね」


長岡さんに車を出してもらい、病院で診てもらったところ、コロナでもインフルエンザでもなく、ただの風邪だった。

安静にしていれば、1日か2日で良くなるだろう。そう言われた。


「食欲はあるか?」

「……柔らかいものなら、食べられそうです」

「了解。昼になったら、雑炊でも作って持ってくわ」


その言葉がとてもありがたくて、素直に甘えることにした。

長岡さんの料理は、いつも美味しい。

きっと、体にも心にも染みる雑炊になるだろう。


部屋に戻ると、玄関のドアに袋が掛けられていた。

中には、プリンや飲用ゼリー、スポーツドリンク。

そのさりげない気遣いに、思わず笑みがこぼれる。


宇津井さんだろう。

きっと昨晩、静かに買いに行ってくれたのだ。

何も言わなくても、そっと手を差し伸べてくれるところが、彼らしい。


スポーツドリンクを一口飲み、布団にくるまると、すぐに意識がぼんやりとしてくる。

目は開いているはずなのに、遠くを見るような感覚だった。

おぼつかない思考のなかで、ぽつぽつと昔の記憶が浮かんでくる。


小さい頃、風邪をひいたときのこと――

お母さんが作ってくれたうどんの湯気や、足音、寝ている私の隣でテレビが静かに流れていた部屋の空気。


荒巻荘も、どこか似ている。

誰かがいて、そっと見守ってくれている安心感。

部屋には独りぼっちだが、ほっとした気持ちになる。


目を閉じると、すぐに私の意識は眠りへと落ちていった。

心地よい感覚だった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


目を覚ますと、ちょうどお昼時だった。

少し寝汗をかいている。あとで着替えた方がよさそうだ。

お腹もすいたな……そう思った瞬間、コツコツと戸を小さく叩く音がした。

たぶん、長岡さんがご飯を持ってきてくれたのだろう。

私は、玄関へと向かった。


「悪い、起こしたか?」


ドアを開けると、お盆を持った長岡さんが立っていた。

その上には、湯気を立てた小さな土鍋が乗っている。


「いえ……ちょうど起きたところでした」

「そうか。なら、腹減っただろ。ほれ」


そう言いながら、お盆をゆっくりと手渡してくれる。

今の弱った私でも、問題なく持てる重さだ。


「食べ終わったら、玄関先に置いといてくれ。適当なタイミングで下げとくから」

「何から何まで……ありがとうございます」

「困ったときはお互い様だろ?」


そう言って、いつものように親指を立てた。

部屋まで入ってこないのは、長岡さんの気遣いだろう。


「じゃあ、またな。養生しろよ」

「はーい。おいしくいただきます」


私は、早速お昼ごはんをいただくことにした。

土鍋の蓋を開けると、暖かな湯気と出汁の香りがふわりと顔を包んだ。

シンプルな卵雑炊だ。

添えてあるレンゲを使って、ひと口すくい、口へ運ぶ。


「……おいしい」


自然と声がこぼれていた。

卵の甘みと、薄味の出汁が口の中でやさしくほどけていく。

そして、ほんのりと感じる生姜の風味。

身体の内側から、ぽかぽかと温まってくるのがわかる。


あっという間に、平らげてしまった。

器を玄関先に置き、薬を飲んだあと着替えてから布団に入る。

身体も心もぽかぽかと温まり、なんとも気持ちがいい。

この分なら、すぐに良くなるだろう。


そんなことを思いながら天井を眺めているうちに、またもや意識がぼんやりとしてきた。

その心地よさに、私は素直に身を委ねることにした。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


――翌朝、目を覚ますと、私はすっかり元気になっていた。

頭もすっきりして、昨日までの熱っぽさやだるさはもう感じない。

この様子なら、いつものように朝ごはんも作れそうだ。


けれどグループラインには「今日は大事をとって休んでね」というメッセージが、みんなから次々と届いていた。

ありがたく、その気持ちに甘えることにした。


簡単に身支度を整えたタイミングで、部屋のチャイムが鳴る。

ドアを開けると、そこには長岡さん、宇津井さん、日浦――美穂さんと美咲ちゃんの4人が立っていた。


「み、みなさん……どうしたんですか?」

「……元気になったって聞いたから」

「綾香さんの顔が、見たくなったので」

「わたしも!」

「たまたまタイミングが被っちゃってさ」


みんな、私のことを心配して来てくれたらしい。

心の奥が、くすぐったくなる。

風邪をひいて、家族以外の人にこんなふうに気にかけてもらったのは、いったいいつ以来だろう。


「……ありがとうございます」


私の元気な顔を見て安心したのか、それぞれがほっとした表情を浮かべていた。


「明日は、おいしい朝ごはん、期待してますよ」

「うん!」

「おう、めっちゃ楽しみにしてるわ」

「とはいえ、無理はしないでくださいね」

「……右に同じ」


そう言って、みんなと笑いあう。

……幸せな朝だな。心の底から、そう思った。

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