第23話

目を覚ますと、部屋の中はうっすらと夕暮れの気配に染まっていた。

カーテンの隙間から差し込む光が、淡いオレンジ色に変わっていて、時間の移ろいをそっと知らせてくれる。

向こうのベッドでは、美咲ちゃんが、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。


美穂さんはもう起きていたのだろう。

ベッドには姿がなく、バルコニーに設えられた椅子に腰掛け、遠くの夕日を眺めていた。


私は水を一口飲み、美穂さんのいるバルコニーへと、美咲ちゃんを起こさないように気をつけながら、そっと向かった。


「……綺麗な夕日ですね」


窓を開けた私に気づいた美穂さんが、穏やかな声でそう言った。


海は、夕陽に照らされて金色にきらめいていた。

その光は波のひとつひとつに染みこんで、まるで海全体が静かに呼吸しているようだった。


遠くの砂浜は、さっきまでの白さが柔らかな桃色に変わりつつあり、足跡もないまっさらな風景が広がっている。

波打ち際で跳ねる水しぶきが、きらりと光ってはすぐに消えていった。


あたりは静かで、聞こえるのは風が木の葉を撫でる音と、遠くから届く波の音だけ。

まるで誰かが用意した絵のような時間。

私は、柵に手を添えてもう一度深く息を吸い込んだ。

潮の香りと、夕日のあたたかさと、少しの旅の疲れが、胸の奥にじんわりと染みていく。


「本当に、そうですね」


そのまま、ふたりでしばらく、少しずつ変わっていく景色を眺めていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


美咲ちゃんも、しばらくすると目を覚ましたので、集合時間に間に合うように身支度を整え、ホテル内のレストランへと向かった。


館内のダイニングスペースは、落ち着いた照明に包まれていて、白とベージュを基調とした内装がやさしく目に映る。

窓の外には、まだ少し残っていた夕焼けが、ゆるやかに海の面を照らしていた。

三線をベースとしたBGMが、心地よく耳に響いてくる。


あらかじめ宇津井さんが予約してくれていたらしく、私たちはスムーズに席へ案内される。

席に置かれた紙を見ると、前菜、スープ、魚料理、肉料理などが並ぶ、この土地の食材を使ったフルコースだった。


美咲ちゃんは、少し緊張した面持ちで椅子に腰掛けている。

無理もない。私自身も、フルコース料理となると、大学の卒業祝いに親と訪れたとき以来だから、ずいぶんと久しぶりだ。


実は、今回の夕食をホテルのレストランでとるという話は、美穂さんの発案だった。

旅行の準備段階では、長岡さんが「外でみんなで気軽に食べられる場所」を探してくれていたのだけれど、

美咲ちゃんにこうした場所で少しずつ経験を積ませたいという美穂さんの想いが、私たちに伝えられた。


そのとき、長岡さんが言った「社会経験は大事だしな」という一言。

それが、みんなの中に自然に落ち着いて、今回の食事がレストランで行われることになった。


ほどなくして、前菜が運ばれてきた。

魚を使ったオードブルで、色とりどりの野菜が添えられている。


「えー、ごはんってこれだけ?」


美咲ちゃんが、屈託のない笑顔でそう言った。


「美咲、これは“フルコース”って言って、あとからどんどん料理が出てくるの」

「そうなんだ。じゃあ、お肉とかも出てくる?」

「うん。とびきり美味しいのが」

「わーい!」


目を輝かせながら、美咲ちゃんはオードブルに嬉しそうに箸を伸ばした。


「これ、美味えな。ノンアルで済ませようかと思ったけど、ワイン頼もうぜ」


長岡さんがお酒のメニューを見ながら言った。


「あ、長岡さんが頼むなら私も……飲んでいいですか?」

「オレはお酒弱いから……とりあえずノンアルコールで」

「私も、ちょっと飲んじゃおっかな」


それぞれが合わせる飲み物を選びながら、

大人組は少し肩の力を抜いて、フルコースのひと皿ひと皿を楽しむ準備をしていた。


その後も、海老を使った濃厚なスープ、特産の魚を使った焼き物、フォアグラを使った逸品料理、脂の乗ったメインの肉料理と続いていった。

どれもこれも非常に美味しくて、私たちは時間も忘れながら料理を堪能していた。


「やっぱり、肉料理には“赤”だな」

「“赤”だね」

「おっ、分かってんなぁ」


長岡さんは、何杯目かも分からないワインで肉料理の脂を流し込んでいた。

その隣で、それを真似るかのように、美咲ちゃんもグラスのジュースをごくりと飲み込む。


「明日の夕食は……居酒屋だったはず……」

「まあ、明日は明日で飲みますから」

「……飲みすぎでしょ」

「えー、宇津井さんは飲まないの?」

「……お酒弱いから」


こちらも、かなり飲んでいるはずなのに、ほろ酔いの美穂さんがそう答える。

引き気味に返す宇津井さんの姿が、少し可笑しかった。

私も、普段食べられない料理を味わえたのと、少しお酒を飲んだからか、ふわふわとして少し心地いい。


そうだ。明日は、土地に根ざした料理とお酒が楽しめる、有名な居酒屋を予約していたんだった。


明日の旅程を思い返す。

午前中は、美咲ちゃんが行きたがっていた水族館へ。

その後は車で移動して、名物のお土産が並ぶエリアを散策して――そして、夜は居酒屋で晩ごはん。

もう、次の時間が楽しみになっていた。


コースの最後に出てきたのは、柑橘類を使ったケーキだった。

薄くスライスされた果皮が飾られていて、表面にはほんのりと光るグレーズ。

皿の縁に添えられたミントと、あたたかい紅茶の香りが、ゆっくりとテーブルに満ちていく。


「最後まで席に座って食べられたね。えらかったよ、美咲」

「うん! お料理もすっごくおいしかったから!」


それを聞いていたシェフの方だろうか、恰幅のいい紳士的な感じの人が、ニコニコとほほ笑んでいた。


静かに、晩ごはんの時間が終わっていく。

穏やかなBGMを聞きながら、私は満ち足りた気持ちで椅子に座っていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


晩ごはんのあと、腹ごなしも兼ねて、ホテル内に整備された庭――というか遊歩道のような場所を、みんなで散策することになった。

空には星が瞬いていて、風も心地よく、歩くにはぴったりのタイミングだった。


ライトアップされた石像や、あまり見慣れない南国の木々の姿が、なんとも面白い。

形の違う葉や、艶のある幹が夜の光に照らされていて、どこか不思議な場所を歩いているような気分だった。


「いやーしかし、料理もお酒も美味かったなー」

「ですね。私もつい、飲みすぎちゃいました」

「明日は泡盛を飲みまくるぞー」

「おー」


長岡さんも美穂さんも上機嫌で、もう明日のお酒のことに思いを馳せていた。

左手で美咲ちゃんと手を繋ぎながら、右手を掲げている美穂さんの姿が、なんとも珍しくて――少しだけ、可愛らしくも見えた。


「……飲みすぎは禁物」


ぼそりと、ふたりに釘を刺すように宇津井さんが言った。

あの後、結局一杯だけ飲んだらしく、それだけで顔がうっすら赤くなっている。


「なんだか、とってもいい気分ですね」


私は、誰に言うわけでもなく、ふと口にした。

それでも、皆からは、「そうだねー」と声が返ってくる。


潮風に揺れる葉の音と、遠くでさざめく波の気配。

ささやかな酔いと穏やかな夜が、足元からじんわり広がっていた。


遊歩道の先にある小さな広場まで、私たちはゆっくり歩いていった。

ベンチがひとつ置かれていて、周囲には背の高い草木が風に揺れていた。


空を見上げると星が、たくさん瞬いていた。

夜の空はすっかり深くなっていて、淡く滲む月明かりのまわりに、無数の光の粒がこぼれていた。

南の島の夜空で見る星は、私の知っている星よりもずっと近くて、強くて、煌びやかだった。


私たちは、そのまま言葉を交わすわけでもなく、空を見上げていた。


「……そろそろ戻るか」


しばらくしてから、長岡さんが静かに言った。

歩き出したみんなの背中を、星の光が淡く照らしていた。

さっきまでの静けさが嘘のように、また取りとめのない話で笑い合う。


「じゃ、また明日な」

「……おやすみ」


長岡さんと宇津井さんと別れてから、部屋のドアを開けると、涼しい空気をかき回すファンの音が迎えてくれた。

昼間に差し込んでいた光はもうなく、代わりに室内のランプが静かに灯っている。


「お風呂、順番どうします?」


私はふたりに声をかける。


「美咲を先に入れてしまいたいので、お先にいただいてもいいですか?」

「そうですね。美咲ちゃん、もうおねむみたいですから」

「んー、お腹いっぱいで歩いたから眠い」

「やばい、もう寝ちゃう」

「もうちょっと頑張って、美咲」


すでにまぶたがうつらうつらしている美咲ちゃんを連れて、美穂さんがお風呂の支度を始める。

私はそんな二人を見ながら、荷物を少し整えて、ベッドにごろりと横になる。


今日あったことを思い返すと、やっぱり楽しかったな――と、胸のあたりがじんわりと暖かくなる。


窓の外をふと見ると、さっきまでみんなで歩いていた遊歩道が、まだぼんやりとライトアップされていた。

誰もいないその景色が、もう懐かしく感じられた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


お風呂から上がって髪を乾かし終えたタイミングで、まるでそれを見計らっていたかのように、美穂さんがマグカップに注がれたコーヒーを差し出してきた。


「一杯だけ、どうですか?」

「……いいですね」


そのまま、もう寝てしまった美咲ちゃんを起こさないように、私たちは静かにバルコニーへ出た。

椅子に並んで座り、海の方へ視線を向ける。

夜風はさらりと肌を撫でて、波の音が遠くで優しく響いていた。


「こんな時間が、ずっと続いたらいいのになぁ」


私は、ミルクと砂糖を入れたコーヒーを一口飲んだ。

胃の奥が、じんわりと暖かくなる。


「そうですね。私も、そう思います」


美穂さんが、マグカップに手を添えたまま、静かに答えてくれる。


「現実って、やっぱりいろんなことがありますし……うまくいかないことも多いですけど。

それでも、誰かと一緒に過ごす時間があるだけで、なんとかなる気がしてくるんです」


「それは、私もそうですね。荒巻荘に来る前と違って――

美咲との未来を考えるのが、怖くなくなったんです。今は」


私は、マグカップの中のコーヒーをそっと揺らす。

表面に映った小さな光が、何かの合図みたいにきらりと揺れた。


「ひとりで頑張ろうとすると、見えなくなるものって、たくさんありますから」


美穂さんが言葉を続ける。


「いつか、またみんなで旅行した時……その時は、どんな私になってるんだろう」

「……きっと、今より素敵な綾香さんになってるはずですよ」

「なんか……いいですね、それ」


風が静かに通り過ぎ、私と美穂さんの間に言葉がなくなった。

でも、それは沈黙というより、言葉が必要ないという安心感だった。


少し先の未来に思いを馳せながら――

私たちは、ちょっとした夜更かしを楽しんでいた。

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