第15話

今日もいつものようにみんなで朝ごはんを食べ、いつものようにそれぞれの生活へ戻る、いつもの朝。


共用スペースの窓際に置かれた金魚鉢の中で、金魚がゆっくりと泳いでいた。

朝の光を受けて、水面がきらきらと揺れている。

小さな泡がひとつ、ふわりと浮かび上がっては、静かに弾けた。


外では、入道雲が空の高いところに根を張っている。

白くて、分厚くて、どこか堂々としていた。

夏が本気を出してきたな、と思う。


「ねえ、綾香さん。海、行きたいなあ」


美咲ちゃんが、金魚鉢の前でしゃがみ込みながら言った。

そのまま後ろにTシャツに短パン姿で、畳の上に倒れこむ。すっかり“夏休みモード”だ。

美穂さんが私のことを下の名前で呼ぶようになってから、それを真似るように、美咲ちゃんも自然と「綾香さん」と呼んでくれるようになった。


「海かあ。いいね、夏らしくて」


私は麦茶をひと口飲みながら、金魚の泳ぐ様子を見つめる。

水の中の世界は、どこか時間の流れが違うように見えた。


「でもね、お母さんが最近ずっと忙しくて……お仕事、いっぱいあるんだって」

「そうなんだ」

「うん。だから、海はまた今度って言われちゃった」


美咲ちゃんは、金魚鉢の縁に頬をのせて、少しだけしょんぼりしている。

その姿が、なんだか金魚と似ていた。


私は、そっと麦茶のグラスを置いた。

そして、少しだけ声のトーンを落として言う。


「……じゃあさ、美咲ちゃん。みんなで行くっていうのは、どう?」

「え?」

「お母さん、7月いっぱいは忙しいけど、8月の最初の週末なら時間が取れるって言ってたよ。それに、長岡さんも“車出すのは任せとけ”って言ってくれてるし」

「ほんとに!?」


美咲ちゃんが、ぱっと顔を上げる。

目がきらきらと輝く。


「ただし——」


私は、少しだけ声を引き締める。


「ちゃんと宿題、やるって約束してくれるなら、ね」

「う……」


実は、美穂さんから宿題については頼まれていたのだ。

美咲ちゃんは、ちょっとだけ口を尖らせて、それから観念したようにうなずいた。


「……わかった。ちゃんとやる。だから、行きたい!」

「よし、それなら決まりだね」


私は笑って、金魚鉢の中を泳ぐ金魚を見つめた。

その尾びれが、ゆらりと揺れて、朝の光を反射していた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


黒のワンボックスカーは朝の光を浴びながら、国道を南へと走っていた。

運転席には長岡さん。サングラス越しに前方を見据えながら、リズムよくハンドルを切っている。

助手席には宇津井さん。普段夜型の生活を今日に合わせてくれたのか、少しぐったりしていた。


「……眠い」

「そりゃそうだろ。宇津井くん、昨日も夜中まで起きてただろ」

「朝集合って言われても……」

「言ったの一昨日な。しかも“了解”って返してたじゃねえか」

「……あっ」

「おい」


その後ろには私と美穂さん、美咲ちゃんの三人が並んで座っていた。

美咲ちゃんは窓の外を見ながら、「海! 海!」とテンション高め。

美穂さんはその隣で、日焼け止めを塗りながら「浮き輪、ちゃんと入ってたっけ?」と後部座席に積まれた荷物を確認している。


「はい、ちゃんと積んでありますよ。あと、タオルと着替えも」


私がそう答える。

美穂さんは昨日も追い込みの時期だということで、結構遅い時間に帰ってきていたから、その分は美咲ちゃんと一緒に準備を進めていた。


美咲ちゃんがふいに座席の間から身を乗り出した。


「はい、これ! 運転がんばってる人たちに!」


そう言って、グミの小袋をふたつ差し出す。

長岡さんは「お、ありがとう」と笑いながら受け取り、宇津井さんは少し迷ったあとで、同じようにお礼を言ってから、静かに手を伸ばした。


そのやりとりを見ながら、美穂さんがふと声を落とした。


「……本当に、ありがとうございます。こうして一緒に出かけられるのは、美咲も、私もすごく楽しみにしてましたから」

「気にすんなって。俺らも楽しいんだから」


長岡さんがバックミラー越しに笑いかける。


「……いい天気でよかった」


宇津井さんが、グミをひとつ口に入れながらぽつりとつぶやいた。

その言葉に、私たちは自然とうなずいた。

窓の外には、青い空と、遠くに白くもくもくとした入道雲。

今日という一日が、ちゃんと“夏の思い出”になる気がしていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


車を降りた瞬間、潮の香りと波の音、それにまぶしい光が一気に押し寄せてきた。

目の前には、白い砂浜と、どこまでも広がる青い海。

その景色を見たとたん、美咲ちゃんが「わあっ!」と声を上げて、浮き輪を抱えたまま駆け出していった。


「ちょっと待って、美咲!」


美穂さんが慌ててサンダルをつっかけ、後を追いかける。

ラッシュガードの裾が風に揺れて、日差しの中で白く光っていた。

私も、Tシャツの下に着ていた水着の肩紐をそっと直しながら、バッグを抱えて砂浜へと続く石段を降りる。

日差しは強いけれど、思ったよりも風が心地よかった。


「よし、ここをキャンプ地とする!」


クーラーボックスとレジャーシートを抱えた長岡さんが、空いたスペースの砂をざくざくと掘りながら、どこか得意げに宣言する。

その声に、宇津井さんが「……それ、言いたかっただけでしょ」とぼそっと返した。


「宇津井さん、パラソルお願いしてもいいですか?」

「ん……荷物番、やっとく」


そう言って、宇津井さんはレジャーシートを広げている長岡さんのもとへ向かい、パラソルを手に取って立て始めた。

Tシャツの袖から覗く腕が、すでに少し赤くなっている気がする。


私もゆっくりと砂の上に足を踏み出す。

じんわりと熱を帯びた砂の感触が、足の裏から夏を伝えてくる。


遠くで、美咲ちゃんの笑い声が響いた。

その声に混じって、波の音と風の音が重なり合い、夏のページをめくるように重なっていく。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


波打ち際まで歩いていくと、足元に冷たい水がさらりと触れた。

じんわりと熱を帯びた砂の感触のあとにくる、そのひやりとした感覚が心地いい。


「いっくよー!」


美咲ちゃんが、浮き輪を腰に巻いたまま、勢いよく波の中へと飛び込んでいった。

小さな水しぶきが、太陽の光を受けてきらきらと舞い上がる。


「美咲、顔にかかっちゃうよ」


美穂さんが笑いながら、後ろから追いかける。

膝まで海に浸かりながら、手で水をすくって美咲ちゃんに水をかける。

私は少し離れたところで、足だけ海に浸かりながら、ふたりの様子を見ていた。


波が寄せては返し、足元の砂をさらっていく。

そのたびに、身体の重心がわずかに揺れて、立ち位置が少しずつ変わっていくのがわかる。


「見て見て、クラゲいないよー!」


美咲ちゃんがそう叫んで、浮き輪の中でくるくると回っている。

その姿があまりに楽しそうで、思わず笑ってしまった。


ふと後ろを振り向くと、パラソルの下で宇津井さんが読書をしているのが見えた。

その隣では、長岡さんが木の棒とタオルを手に、腕を組んで「うんうん」と頷いている。


私はその様子を目に留めてから、もう一度、波の方へと目を向けた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


お昼ごろ、レジャーシートの上でみんなで一息ついていたころ。

長岡さんがクーラーボックスからスイカを取り出し、タオルと木の棒を手に立ち上がった。


「さあ、お待ちかね。スイカ割り、やるぞー!」

「やったー!」


美咲ちゃんが、濡れた髪をタオルでごしごし拭きながら立ち上がる。

浮き輪を外して、はだしのまま砂の上をぴょんぴょん跳ねていた。


「まずは美咲ちゃんからだな。目隠しするぞ」


長岡さんがタオルをくるくると巻いて、美咲ちゃんの目元に巻きつける。


「きつくないか?」

「うん、大丈夫!」


元気な声が返ってきた。


「じゃあ、ぐるぐる回すぞー。いーち、にーい、さーん……」

「わー、もうわかんないー!」


くるくると回された美咲ちゃんが、棒を両手で握りしめて、ふらふらと歩き出す。

私たちは少し離れたところで見守りながら、「もうちょっと右!」「前前!」と声をかけた。


「そこそこ、今だー!」

「いけー!」

「えーい!」


美咲ちゃんが勢いよく棒を振り下ろす。……が、棒はスイカの横をかすめて、砂を軽く叩いただけだった。


「……惜しい」

「頑張ったね、美咲」

「ナイスファイトだよ、美咲ちゃーん!」


みんなが笑いながら拍手する。

美咲ちゃんは目隠しを外して、「えー、全然ちがったー!」と悔しそうに言いながらも、どこか楽しそうだった。


「じゃあ次はお母さん、頑張ってみよっか」

「えー……割れますかね」


目隠しをされた美穂さんが長岡さんから棒を受け取り、おずおずと構える。

その様子に、美咲ちゃんが「がんばってー!」と声を張り上げた。


私はその光景を見ながら、タオルで手を拭きつつ、ふと空を見上げる。

入道雲がそびえ立つ青空の下、笑い声が波の音に混じって、砂浜にやさしく広がっていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


スイカを食べ終えたあと、美咲ちゃんが砂浜に寝転がって空を見上げながら、ぽつりと言った。


「ねえ、あっちの岩のとこ、行ってみたい」


視線の先には、浜の端にある小さな岩場。

波が穏やかに打ち寄せていて、ところどころに潮だまりができている。


「見てるから。怪我しないようにね」


美穂さんがタオルで手を拭きながらそう言うと、美咲ちゃんはぱっと顔を輝かせた。


「じゃあ、一緒に行こっか」


そう声をかけると、美咲ちゃんはうれしそうにうなずいた。

岩場までは、砂の感触が少しずつ変わっていく。

さらさらだった足元が、だんだんと湿り気を帯びて、やがて小石や貝殻が混じるようになる。

波打ち際を歩きながら、私たちはゆっくりと岩場へ向かった。


「見て、カニ!」


美咲ちゃんがしゃがみこんで、指をさす。

小さなカニが、潮だまりの中を横にすばやく移動していった。


「すばしっこいね」

「うん、でもかわいい」


そのあとも、小さな貝殻を拾ったり、濡れた岩の上をそっと歩いたりしながら、ふたりで静かに時間を過ごした。


「これ、お母さんにあげる」


美咲ちゃんが、白くて小さな巻き貝を手のひらにのせて見せてくる。

少し欠けてはいたけれど、光に透かすと、うっすらと虹色に光っていた。


「きっと喜ぶよ。帰ったら一緒に洗おうね」


そう言うと、美咲ちゃんはうれしそうに笑って、貝をそっとポケットにしまった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


夕暮れの海をあとにして、車は静かに走っていた。

後部座席の隣では、美咲ちゃんがすやすやと眠っている。

濡れた髪はすっかり乾いて、頬にはうっすらと日焼けのあとが残っていた。

車内には、波の音の代わりにエアコンの風の音と、ラジオの小さな音楽だけが流れている。

ふと、美咲ちゃんのポケットから、ころん、と何かが転がり落ちた。


「……あ」


足元に落ちたのは、あの岩場で拾った小さな巻き貝だった。

私はそっと拾い上げて、美穂さんの方を向いた。


「これ、美咲ちゃんが“お母さんにあげる”って言ってたんです。岩場で見つけたんですよ」


美穂さんは、驚いたように目を見開いて、それからふっと笑った。


「……そうなんですか。ありがとう。綺麗な貝殻ですね」


その笑顔は、少し照れくさそうで、でもとても嬉しそうだった。


「ん……」


そのとき、美咲ちゃんが小さく身じろぎして、目をこすりながら起き上がった。


「……もう着いた?」

「まだだよ。でも、もうすぐかな」


私がそう答えると、美咲ちゃんはぼんやりと窓の外を見て、それから美穂さんの肩にもたれかかった。


「おかえり、美咲。楽しかった?」

「うん……すごく」


その声は、まだ夢の中に半分残っているような、やわらかい響きだった。


「なあ、帰りにラーメンでも食って帰るか?」

「いいですね、それ。私もお腹ぺこぺこで」


運転席の長岡さんが、バックミラー越しに声をかけてくる。

その提案に、私は一も二もなく乗ることにした。


「……オレも……お腹すいた」


助手席の宇津井さんが、窓の外を見ながらぽつりとつぶやいた。


「美咲、ラーメン食べられそう?」

「……うん。食べたい」


そう言って、美咲ちゃんは小さく笑った。

その笑顔を見て、私も思わず笑ってしまう。


「じゃ、決まりだな」


車は夕暮れの道を、ゆっくりと走っていく。

今日という一日が、ちゃんと終わっていくのを、誰もが静かに感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る