第9話
「ちょっと暑くなってきたかなぁ」
今日もみんなで朝ごはんを食べたあと、私は荒巻荘の掃き掃除を終え、草むしりに取りかかっていた。
もう6月を迎えるということで、昼近くになるとさすがに蒸し暑い。
正直なところ、ちょっとばて気味だ。
宇津井さんは夜行性だから、今ごろはきっと布団の中。
日浦さん家……美穂さんはお仕事、美咲ちゃんは小学校。
長岡さんも今日は用事があるとかで、朝から車に乗ってどこかへ出かけていった。
お昼ごはんは一人だし、適当に朝ごはんの残りをいただくことにしよう。
材料費を出してくれている三人からも、「いつも作ってもらってるから」と言ってもらえたこともあり、お言葉に甘えている。
そんなことを考えながら草をむしっていると、いつの間にか、やろうと思っていた区画の草をすべてむしり終えていた。
あとはまとめて、ゴミ袋に入れてしまえば終わりだ。
「ごはんの前に、まずはシャワー浴びよ」
お腹も空いていたけれど、それよりも汗を流したい気持ちのほうが勝った。
私はひとつ大きく伸びをして、近くに置いてあったゴミ袋を取りに向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あー、さっぱりしたー」
シャワーを浴び、上はTシャツ、下は下着一枚という、とても人前ではできない格好で、自室である101号でお昼ごはんを食べていた。
スマホを適当に弄りながら、のんびりとした時間が過ぎていく。
明日の朝ごはんの材料は共用スペースの冷蔵庫にあるし、買い物もまだいいだろう。
大がかりな点検等の案内は、まだ懇意の不動屋さんからも来ていない。
このままお昼寝でもしようかな、と思ったとき、私の部屋のチャイムが鳴った。
慌てて近くにあったズボンと薄手のカーディガンを身に着け、玄関へと向かう。
ドアを開けると、長岡がクーラーボックスを抱えて立っていた。
「お疲れのとこ悪ぃな、姉ちゃん。アジが沢山釣れちまってよ。みんなで食べようぜ」
少し離れたところに港があるのは知っていたが、長岡さんはどうやら釣りに出かけていたらしい。
長岡さんがクーラーボックスを開けると、魚特有のにおいと共に、大量のアジが顔をのぞかせた。
身も丸々と太っており、なんともおいしそうだ。
「それで、頼みがあるんだが……下処理、手伝ってくんねえかな」
そう言って、バツが悪そうに笑いながら、右手でこめかみのあたりをポリポリと掻いていた。
「分かりました! ちょっと部屋片づけてきますね!」
私もそう言い残し、一旦玄関を締める。
今日の晩ごはんはアジで決まりだ。
刺身は確定として、南蛮漬けにしようか、フライにしようか、カルパッチョもいいかもしれない。
楽しみな気持ちがむくむくと、私の中に巻き起こってきた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
いろいろと準備を済ませ、私は長岡さんと一緒に、共用スペースの台所に立っていた。
アジを手に取り、鱗を落とし、内臓を取り出していく。
「……上手いもんだな」
隣で同じように手を動かしていた長岡さんが、私の手さばきを見て言った。
私を褒めたが、長岡さんも相当なものだ。やはり釣り人ということもあり、魚の扱いには長けているのかもしれない。
「他の料理もそうですけど、母にいろいろ教えてもらいました」
「へぇ。仲いいんだな」
「はい。でも、嵐みたいな人なので……突然、大家さんにさせられたりもするんですけどね」
「ははは。そりゃ突然言われたらびっくりするよなぁ」
笑いながら、二人で黙々と手を動かしていく。
男性と二人きりだというのに、不思議と緊張感はなくて、なんとも心地いい時間だった。
「いや、しかし——お姉ちゃんが来てくれて良かったよ。前は爺さんと茶を飲むくらいで、他の住人と飯を食うなんて考えもしなかった」
「宇津井さんとも、前は全然?」
「全然。すれ違っても会釈するくらいでさ。たまに気にならない程度の叫び声が聞こえてくるくらい」
「昔から叫んでたんですか……」
話しながら手を動かしていると、沢山あったアジの下処理もあっという間に終わった。
料理に応じて、既に三枚におろされたものもある。
「料理に関しては任せていいか? これで材料とか頼むわ。俺は俺で、買っておきたいものがあってな」
そう言って、長岡さんは財布から福沢諭吉を一枚、惜しげもなく手渡してきた。
なんとも太っ腹な人だなと、材料費をいただくたびに毎回思う。
以前、お釣りを返そうとしたら「金だけはあるんだから、返さなくていいぞ」と固辞されてしまったので、それ以来、私は遠慮なく“いい食材”を買うようにしている。
「大丈夫ですよ。アジは好きに使わせていただきます!」
「おー、楽しみにしてるわ」
そう言い残して、二人で洗い物まで済ませた後、長岡さんは一旦、共用スペースを後にした。
私も、作りたい料理の材料を買いに行かなくちゃだ。
歩いてすぐのスーパーマーケットに向かうため、財布を取りに自室へと戻ることにした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そして、夜――
共用スペースのテーブルには、刺身、なめろう、南蛮漬け、唐揚げなどアジ料理がずらりと並んでいた。
『アジ、釣れました!!
長岡さんが大量に持ってきてくれたので、今夜はアジづくしの夕ごはんです!
19時くらいから共用スペースでやります〜。お腹すかせて来てくださいね!』
と声をかけたところ、他のみんなからも快諾のスタンプやメッセージが返ってきた。
これなら、きっとみんな来てくれるだろう。
そう思いながら待っていると、早速、引き戸が開く音がした。
のそのそと入ってきたのは宇津井さん。定刻5分前をきっちり守るあたりが、なんとも彼らしい。
「おー……すご」
そうつぶやきながら、片手に持っていたビニール袋を差し出してくる。
中身は……ビールの缶が何本かと、炭酸ジュースのペットボトルが1本入っていた。
「……今日は、配信お休みにするから……」
ああ、なるほど。みんなで飲みましょうってことか。
アジの唐揚げや南蛮漬けをビールで流し込む——絶対おいしいに決まってる。
その話、乗った!
「こんばんはー!」
「すみません、遅れてしまいましたか? 」
美咲ちゃんと美穂さんも、室内へと入ってくる。
以前聞いた話では、美咲ちゃんは学童保育に通っているらしい。
きっとそのお迎えに行っていたのだろう。
「やべえ。俺が一番最後だったか」
そして、長岡さんも到着し、冷蔵庫に何かをしまっていた。
荒巻荘の住人が全員揃い、それぞれが席に着く。
「しかし……頼んどいてなんだけど、これだけの料理を作るの、大変だったろ。本当にありがとう」
「いえいえ、このくらいならお安い御用ですとも」
そう言いながら、長岡さんはビールの缶を開け、私のグラスに注ごうとする。
私もありがたくいただくことにして、自分の缶を開け、長岡さんのグラスに注ぎ返した。
長岡さんは、ビールがグラスに注がれていくのを、どこか嬉しそうに見つめていた。
「二人もどう?」
「……それ、オレが買ってきたやつ……」
「悪い悪い、そうだったな」
長岡さんが宇津井さんにビールを注いでから、美穂さんの方へ缶を向ける。
美穂さんは一瞬、ピクリと反応したものの——飲むことにしたのだろう。
静かにグラスを差し出していた。
「あー、わたしも飲みたい!」
「君は……こっち……」
ビールに興味を示した美咲ちゃんには、宇津井さんがジュースを手渡していた。
そのやりとりに、思わず笑みがこぼれる。
「じゃあ、乾杯」
「かんぱーい!」
そして、みんなでグラスをぶつけあう。
「さあ、今日はアジ尽くし! お腹いっぱい食べましょう!」
みんなで手を合わせて、「いただきます」と声をそろえる。
この流れも、すっかり定番になりつつあった。
早速、自分で作った刺身を口に運び、ビールを一口。
アジのとろけるような脂が、炭酸の爽快感でさらりと流れていくのが、なんとも心地いい。
「この唐揚げ、外カリカリで中ふわふわだね!」
美咲ちゃんが口いっぱいにアジを頬張りながら、目を輝かせる。
「それは長岡さんの下処理が完璧だったからですよ」
私がそう言うと、長岡さんは「いやいや、揚げ方が上手いんだって」と照れくさそうに笑った。
宇津井さんも、なめろうを一口食べては、表情をほころばせている。
自分の料理を、誰かが幸せそうに食べてくれる——それだけで、なんとも嬉しい気持ちになる。
「久しぶりに、こんな美味しいお魚をいただきました」
美穂さんが、南蛮漬けを口に運びながら言う。
その表情は、どこかほっとしたような、やわらかいものだった。
「皆がこんなに喜んでくれるなら、また釣ってくるか」
「わたしも行きたい! 今度は連れてって!」
「え、美咲ちゃん、釣りしたいの?」
「こないだクラスの男の子が、お父さんと行ったんだって! 楽しかったって言ってた!」
美咲ちゃんが、身を乗り出すようにして話す。
その勢いに、長岡さんもちょっとたじろぎながらも、口元をゆるめた。
「そっか。じゃあ今度、道具見繕ってやるか。子ども用の竿とか」
「やった!」
美咲ちゃんが両手を挙げて喜ぶと、美穂さんが「こら、食べながら立ち上がらないの」とたしなめる。
「……構わねえよな?」
美咲ちゃんのはしゃぐ様子を見ながら、美穂さんの方へ視線を送る長岡さん。
美穂さんはその視線を受け止め、静かにうなずいた。
「……釣り、朝早いんじゃないの?」
「ま、日の出とか日の入りがいいのは確かだけど、美咲ちゃんが楽しんでくれりゃ、それでいいだろ」
「あ、なんか私も釣り行きたくなってきたかも。朝ごはんのおかずとか釣ってみたい」
「お姉ちゃんも一緒にいこ!」
「……釣りは、静かにするもの……」
「ちょっと、それどういう意味ですか!?」
「三瀬さん、ビールこぼしちゃいますから。落ち着いてください」
そんなやりとりに、テーブルの空気がふわりと和らいでいく。
こうして、アジを囲んだ夜は、またひとつ、次の楽しみを生み出していくのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あ、冷蔵庫にまだ白ワインあるけど、飲む?」
「ぜひ、飲ませていただきます」
「美穂さん、お酒強いですね……」
「……」
美咲ちゃんを自室で寝かせたあとも、今日はみんなでお酒を飲んでいたんだけど……。
宇津井さんはあまりお酒が強くないのか、お水を飲ませたものの、さっさと寝落ちしてしまった。
私も、かなりお酒が回ってきていて、そろそろ限界。
だけど、長岡さんと美穂さんはというと——
ビール → ワイン → 日本酒 → そしてまたワイン、と次々にグラスを空けていく。
私のまぶたもだんだん重くなってきて、二人が何かを話しているのはわかるけれど、内容までは聞き取れない。
そのまま、ゆっくりと意識が沈んでいって——私も眠ってしまった。
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