第23話 初期パスワード

そして、リゼリア達が投げ続けられ合気の真髄を受けること一時間後。


草原はもはや戦場の跡のようだった。道着はボロボロ、髪は逆立ち、目は焦点を失い、誰もが地に伏していた。


剛心は深く息を吸い込んだ。


「よしみんな、そろそろ休憩にしよう」


その声が終わるや否や、横合いから呻くような声が飛んできた。


「コロシテ……」


呻いたのは、エンケだった。

目の焦点は定まらず、口元には泡を浮かべ、明らかに理性がどこかへ行っていた。


飛びかかってきた彼を、剛心は反射的に合気で投げる。ぐるりと宙を描いて畳に沈んだエンケは、それでも再び這い上がろうとしていた。


剛心は眉間に皺を寄せた。


「優希……みんな、なんだか様子がおかしいぞ……」


「だから操られてるって言ってるじゃないですか!!」


優希の叫びに、剛心ははっと目を見開いた。


「な、なんだと……?じゃあ、俺が今までやっていたのは……暴力だったのか……?」


まるで自らが修羅となったことを悔いる僧侶のような顔で、彼はゆっくりと地面に拳を置いた。


「なんで言ってくれなかった、優希!」


「言ってました!何度も言ってました!耳の穴、飾りですか!?」


優希は額を押さえ、半ば泣きそうな顔で叫ぶ。その間にも、ウスゲーが椅子を拳をふり回しながら接近し、リゼリアが奇声を発して壁をよじ登っていた。


「そんなことよりどうするんですか、この状況!!」


剛心は懐から帯を引き抜き、素早く両端を結び始めた。


「捕縄術で抑える」


その宣言とともに、彼はリゼリアの懐へ音もなく滑り込み、巧みな体捌きで関節を封じた。

呻き声とともにリゼリアの体が崩れる。そのまま帯で動きを封じると、剛心は無造作に言った。


「リゼリア、帯を借りるぞ」


「ダメでしょ!女性の帯に手を出しちゃ!!」


優希が叫びながらも、《アイテムボックス》を開き手元に出現した縄を剛心に投げ渡す。


「助かる!」


剛心は素早くその縄を活用し、次々と暴走する門下生たちを制圧していく。


気がつけば、全員が床に転がされ、縄でぐるぐる巻きにされていた。


だが——


「ギィエエエエ!」「ワ゛ア゛ア゛ア゛!」


目を血走らせ、泡を吹き、意味不明の奇声をあげ続ける者たち。

静寂とは程遠い、狂騒の静止画。


そこにあったのは、制圧されたのに少しも安らがない、悲しき異世界の朝であった。


ようやく、場は静けさを取り戻していた。草むらの上にはリゼリアたちが、目を虚ろに、捕縄術によって縛られたまま横たわっている。夕風が吹き抜けるなかで、ただひとり、優希が汗を拭っていた。


「やっと……やっと落ち着きましたね……」


その声は、安堵というよりも、どこか虚脱に近い。剛心が隣で立ったまま、自らの帯を整えているのを見て、優希はふと問いかけた。


「剛心さん、もしかして聖典に……何か変な表示、出てませんでしたか?」


「これか?」


空中にUIがふわりと浮かび上がる。そこには、簡素だが決定的な一文が記されていた。


《イベント:仲間の屍を超えて孤高の強さを手に入れてください》


その瞬間、優希の顔から血の気が引いた。


まるで凍てつく風にさらされたように、唇がわななき、瞳が揺れる。


「……どうした?」


剛心の問いは真っ直ぐだった。だがその真剣さが、優希の心に余計な重みをもたらした。


彼は知ってしまった。自分たちが築いたあの道場。あの試合の、震えるような拳のぶつかり合い。そして——


「……解除方法が、わかりました……」


喉が痛んだ。言葉が、刃のように胸を裂く。


「どうすればいい?」


剛心の問いに、優希は苦悩の末に、ようやく言葉を絞り出す。


「……ッ……殺すことです」


俯いたその声音には、絶望と、諦念と……それでもなお抗いたいという感情が、すべて入り混じっていた。


沈黙。


剛心は、まるで時が止まったように静かに立っていた。


「はっ?ふざけてるのか?」


その声音は、笑っていなかった。


優希は、顔を上げる。


「聖典の介入です……操作される前なら、まだ間に合った。でも……もう……」


まっすぐに、剛心の瞳を見つめる。


「僕のチートスキルでも、無理です……」


緊張が走る中、空気を割って一匹の影が近づいてきた。


「剛心、大丈夫かにゃ?」


どこか遠くから歩いてきたクロが、心配そうな声をあげる。


「クロ、俺に近づくな!」


剛心がとっさに声を荒げる。


「クロ??」

突然の大声に優希が困惑する。


クロは自らの胸をぽんと叩いた。


「僕は大丈夫にゃ。それより、聖典はどうなってるにゃ?」


剛心は一拍置いてから、聖典をクロに見せた。


しばしの沈黙。そして、クロは低く呟いた。


「危険思想の流布……根絶やしにするってことかにゃ」


「危険思想?俺たちが?」


剛心が静かに問い返す。クロは、小さく頷いた。


「この世界のプロトコルにないからにゃ。剛心の“武道”、そして決め手は……リゼの“キュ力と武道の融合”。」


「それらは“最大多数の最大幸福”を乱すにゃ」


その一言に、剛心の眉がわずかに動いた。


「自らの意思で道を切り開くことがか?」


低く、静かに怒りの熱が滲んだ声音だった。


「剛心さん、さっきから何を……?」と優希が問う。


「優希、ちょっと黙ってくれ!」


即座に遮られる。その声音には、明確な意志と切迫が宿っていた。


「どうすればいい、クロ!」


クロはしばらく口を閉ざし、長いしっぽを揺らしながら考え込んだ。


「……設定を変えるにゃ……でも、難しいにゃ」


「設定?」


クロの声に導かれ、剛心は聖典を掌に掲げた。


「まずステータスを開くにゃ」


その指示に従い、剛心は指先で宙をなぞった。聖典のUIが淡く光を放ち、彼の情報が表示される。


「そこから下にスクロールするにゃ」


剛心は眉をひそめた。


「なにもないぞ」


「もっとスクロールするにゃ。下の下、そしてそのまた下にゃ」


剛心は指を動かし続けた。ページはどこまでも続き、底なしのデータの海のように広がっていく。


「一番下まで来たが……何もないぞ」


「いいから、右下あたりを……そっと範囲選択するにゃ」


クロの声はどこか慎重だった。剛心は半信半疑ながらも、右下の虚無に指を添えてなぞる。途端に、真白だった画面の色が反転し、古めかしいグレーのUIが浮かび上がった。


その中央に、唐突に現れる小さな文字。


《設定はこちら》


「こっ……これは……」


剛心の声が、わずかに震えた。


そこにあったのは、かつて遠い時代に使われていた、あの懐かしき──いや、あまりにも懐古的すぎるインターフェース。


「ふ……古い……Windows98の時代だぞ……」


その顔が青ざめる。


「ちょっと見せてください剛心さん!」


優希が慌ててのぞき込む。


クロはその様子を見て、ぽつりと呟いた。


「ここからが問題にゃ。設定、押してみるにゃ」


剛心は息を整え、指先で「設定」を押した。


だがその先に現れたのは、さらに絶望的な一言。


「……これは、パスワードか」


沈黙が落ちた。


クロの声が、静かに宙を震わせる。


「それが解ければ問題は解決するにゃ、でも——」


剛心は目を伏せ、わずかに呼吸を整える。空気が、張りつめる。


「……やるさ」


その言葉は、誰に向けたものでもなかった。ただ、拳を重ねてきた日々に、背中を預けてきた仲間に、そしてその命の重みに。

そして、瞳に宿ったのは、揺るがぬ決意だった。


「たとえ何億、何兆通り、何年、何十年かかっても……俺は、仲間を殺せない」


クロが、ぽつりと息を呑むように言った。


「剛心……」


画面に映る入力欄。そこに、剛心は静かに指を添える。無限のように連なる文字の組み合わせ。それは、運命に対する挑戦であり、希望という名の愚直な反逆だった。


覚悟とは、己を削ることではない。削られると知っても、なお立ち向かう姿勢そのものだ。


——そして。


「……」


剛心の眉が、ぴくりと動いた。


「開いた……ぞ」


クロが目を丸くする。


「にゃ!?」


「……パスワードは"password"だった」


風が止んだ。


草原に静寂が戻るまで、三秒ほどの間があった。


「やったにゃ!」


クロは喜びのあまり飛び跳ねるが、剛心の顔はそれどころではなかった。


「いや!これは大変な問題だぞ!」


「えっ?」


「初期パスワードだ!しかも"password"と設定する……これはつまり、“玄関の鍵を1234と張り紙して出歩く”ようなものだぞ!」


「た、たしかに……」


「この世界のセキュリティ管理者は、情報リテラシーが欠落しているどころの話ではない……!

せめて鍵の概念を理解させてやりたい……幼稚園から!」


剛心は拳を震わせながら叫ぶ。地の果てにいる管理者へと届くかのごとく、天を仰いだ。


クロがぽんと背中を叩いて言った。


「まぁ剛心、そこまでいけば、あとは聖典報酬をオフにすればいいだけにゃ」


「ぬぅ……それはそれとして、これは訴訟案件だぞ……!」


剛心は、ぶつぶつと憤りながらも、画面上の「報酬設定」へと指を伸ばした。


クロの声は、どこか軽やかだった。


「まぁ剛心、そこまでいけばあとは聖典報酬をオフにすればいいだけにゃ」


剛心は頷き、画面に表示されたオプションを操作する。白く輝くボタンには《報酬システム:オン》と記されていた。指先が、ためらいなくその上に置かれる。


UI:『警告。この機能をオフにすることで、システムによる恩恵や矯正が受けられなくなります。よろしいですか?』


剛心は、静かに。


「YESだ」


UI:『警告。この機能をオフにすることで、システムによる恩恵や矯正が受けられなくなります。”本当によろしいですか?”』


「YES」


UI:『警告。この機能をオフにすることで、再度オンにはできません。よろしいですか?』


「YES」


UI:『警告。この機能をオフにすることで、再度オンにはできません。”本当によろしいですか?”』


「YES」


剛心は一切の躊躇を見せなかった。その指は、まるで刀の切っ先のように迷いがない。


そして——彼は、ふと目を細めた。


「ふ……古い手だ……ということは、そろそろ来るか……」


その言葉が終わるや否や、聖典画面に新たな警告が現れた。


UI:『警告。この機能をオフすることをやめますか?』


「来たな……」


剛心は両手で顔を覆い、数秒後、深いため息とともに項垂れた。そして、まるで世界の命運を背負うかのように——


「NOだ……」


最後の一撃を叩き込むように、否定の選択を押下した。


UI:『聖典報酬がオフになりました。発動中の罰則が解除されます』


その瞬間、画面が明るく反転し、警告の赤は穏やかな青に戻る。狂気の光を宿していた仲間たちの目にも、徐々に正気の色が戻っていった。


「やったにゃ!」


クロの歓声が、空気を揺らした。


剛心は静かに立ち上がり、聖典を閉じた。そして、心からの安堵を胸に抱きながら、感謝を込めて振り返る。


「ありがとう、クロ……本当に、助かった」


その言葉に、クロは小さく「にゃふっ」と照れくさそうに笑った。


優希の視線が静かに、しかし深く剛心を見つめる。


「……」


やがて、地に倒れていた仲間たちが次々と意識を取り戻し始めた。


「……あれ? 何で私たち、縛られていますの?」


最初に声を発したのはリゼリアだった。瞳は澄み、すでに“何か”の影響からは解放されているようだった。


「お前たち……正気に戻ったか!」


剛心は喜びの声を上げ、急いで彼女たちの縄をほどいていく。だがその背に、優希が静かに声をかけた。


「剛心さん……どうして一人で設定画面に辿り着けたんですか?」


その声には、ほんの少しだけ震えがあった。俯き加減のまま、首をかしげながら問いかける。


「どうしてって……クロが教えてくれたんじゃないか?」


ごく当たり前のように、剛心は答えた。


「……クロって誰ですか?」


優希の問いに、剛心は少しだけ驚いたように眉をひそめた。

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