第6話「管理人の近根木さん」

「ウツロギくん」


 夕方、バイトから帰ってきたらところを、管理人の近根木さんに呼び止められた。

 近根木さんは四十歳くらいで黒髪をオールバックしたメガネのおじさんである。


 ツナギ姿の近根木さんはとても疲れた表情をしていた。


「お疲れ様です」


 と声をかける。


 親切な近根木さんのことはきらいじゃないし、マンション関係者の中でもたぶんこの人は大変だろうなと思う。


 心から出た言葉だった。


「癒しは君くらいだよ」


 という言葉は、おそらく近根木さんの本音だろう。

 俺がこの人の立場なら、このマンションの管理人なんて、絶対にやりたくない。


「君が近くにいて目撃してくれて助かったよ。ルールが変化したとなると、一大事だからね」


 というのは近根木さんの本心であり、大家の事情でもあるだろう。


 怪異が珍しくないマンションで住む人がいるのは、家賃の安さだけが一番だろうけど、「ルールを守れば安全」というポイントが大きいと思う。


「ただ、ウツロギくんはお金が貯まったら引っ越すのも手だよ?」


 と近根木さんは勧めてきた。


 たしかに家賃が月100円で、光熱費水道代ネット代無料、管理費も無料だから、真面目にバイトするだけでお金は貯まる。


 ここに暮らす人はほとんどがそれ目当てなんだろう。

 ただし、俺は例外に属している。


「初めて会ったときに言ったように、俺には行く場所がないので……」


 心配されているのはわかっているが、ここはかなりいい場所だ。

 

 だって「どうしてあなたは生まれたの?」と泣きながら責めるははおやがいない。


 「お前は生きてることが失敗だ」と毎日殴ったり蹴ったりしてくるちちおやもいない。


 みんなが楽しく遊んでる間、家の中で「お前には自由も権利も何もない」と罵倒し続ける夫婦アクマもいない。


 このマンションに在るモノたちはルールさえ守っていれば人畜無害なのだから、ヤツラと比べたらよっぽど良心的だと思う。


 世の中には存在しているというだけで、悪意を持って攻撃してくる人間もいるんだから。


「僕が言うのもなんだけど、『慣れすぎる』のもよくないと思うよ」


 近根木さんは「何に」とは言わなかった。

 言われなくても通じるからだろう。


「心配していただくのはありがたいのですが、ここに来るまでよりも悪くならないとは思うので」


 と俺は言った。

 ここにいれば理不尽な暴力も謂われのない罵倒は来ない。

 

 自由に自分の時間を使うこともできる。

 自分で稼いだお金を自分の為に使うことだってできるのだ。


 このマンションこそが天国と呼べるんじゃないだろうか?


 ……これを言ったら近根木さんがすごく悲しそうな顔をするので、心の中で留めておくけど。


「そう。やめたくなったら言うんだよ」


 と言って近根木さんは視線を地面に落として、そそくさと立ち去る。

 

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