第五章 白黒風船と海天一色

 窓の外から聞こえてきた雨音が次第に耳の中で溶け消えていき、本来柔らかかった灯りも少し眩しく感じられるようになった。これが一体何を意味するのか、時間の経過を証明しているのか、それとも一万メートルの高天に浮かぶ雨滴が自らの結末のために奏でる哀歌なのか?


 いや、もしかしたらそれは彼らがこの世にもたらせる最後の一時の静寂なのかもしれない?彼らもきっとこの世界を愛しているのだろう。


「身を切るような冷たい空気と共に到来したのは、私たちの最も可愛く最も輝く森。」


 森さんがドアを押し開けて入ってきて、奇妙なナレーションを口にしながら、雨たちがもたらした最後の一時の静寂はこれで終わった。白は犠牲になったね。


「森さん、彼女の美しい顔は、ニキビ跡さえもえくぼのように愛らしく、思わず彼女の頬を捧げ持ち、傲慢な寒風を無視し、深く抱擁してキスをした!」


 うん、わけのわからない妄想、森さんは相変わらずだね。でもそういえば彼女のどこにニキビ跡が?


 それにどうかお願い、前の発言は全部私の言ったことじゃない、森さんが私の視点を真似して言ったんだ。それにこの人はどうして自分で勝手に入ってくるんだ?「ただいま」すら言わないなんて、本当に失礼だ。


 ……ちょっと待って、ここは私の家なのに、なぜ彼女が「ただいま」と言うべきだという錯覚に陥ったんだろう……


「僕の部屋に入る前にノックもしないのか?森さん?」

「そんなによそよそしくしないで〜」

「それは君が言うことじゃないだろ?」


 こいつはますます図々しくなったな。


 今は素敵な雨後の時間だ、ちょうど寝ようとしていたところなのに、森さんが来たからもう無理だ、絶対に寝られないから。


「あら〜水水はさっきまであんなに熱烈にキスしてたのに、今はこんなによそよそしいなんて、ちょっとチャラ男すぎるんじゃない〜?」

「森さんの妄想日記、いつ絶賛放送開始するんだ?」

「おや?あたしはあのお姉さんのレベルには達してないよ?」

「森さんの通学路。」

「うんうん……それならまだ許せる〜」


 そう言うと、森さんは一気に飛びかかってきた。


 私はベッドで気持ちよく寝ていたのに、彼女が来て布団を奪い取った、性格が本当にひどい、森さんは布団を奪うことが生きる道を断つことだって知らないのか?


「セバス○アン〜ライト消すの手伝ってくれてありがとう〜おやすみ〜」

「隣の芝居に勝手に飛び移るなよ、それに起きて家に帰って寝ろ。」

「やだよ〜あたし雷怖いんだもん〜」

「雨もう止んだのに今更?」

「え?!止んだの?!」

「君の聴力と度胸には呆れるよ。」


 でもこれも初めてじゃない、森さんはよくもまあ色んな理由でやってきて無理を言うんだ。一緒に寝ようって言うけど、実際にはただ私に付き合って謎の時間を過ごさせたいだけだ。


 例えばこの前の強風の時、ヒューヒューいう風の音が森さんの幼い心を震撼させた。それにこの前の豪雨の時、雨粒のパラパラ音が大きすぎて、森さんにクリティカルヒットを与えた。


 そのうちだんだん麻痺してきて、なぜ怖がっているのかを追及しなくなった、どうせ聞いて心に留めても病気になるだけだ。森さんって奴は、地面に置けば狍子(バカシカ)、海に置けばマンボウ、空に置けばハシビロコウ。バカで、守ってやる必要がある。


「よし、Ms.ビビリ森、今回は何を持って遊びに来たんだ?」

「あたしガム持ってきたよ!」

「おお、じゃあフルーツ味のキスゲームだな、それは本当に面白そうだ。」

「それもアリかもね。千穂理のキステクはすごいんだから、生き埋めにされても、舌をシャベルにして自力で掘り出せる!でも今日はやめておく。」

「じゃあガムでシャボン玉作ってみるか、わあ、すごい。」

「水水の口調、毎日カップ麺しか食べてない人みたい!適当!」


 私はため息をついた、なぜならガムでどう遊ぶか全く思いつかなかったからだ、私の想像力が貧弱なせいだ。


「今日は遊ぶ予定なんてなかったよ!疲れたよ。」

「うん。うん……え?!森さんが疲れるなんてあるの?!」

「あるでしょ?」


 この言葉を聞いて、私は驚き慌ててベッドサイドテーブルに駆け寄り、スマホを手に取り、素早く伏見の番号にかけた!


「おい!伏見!」

「どうしたアユ?今ボス戦中だ、早く言ってくれ。」

「森さんが疲れたって言ってる!」

「なに?!」


 伏見の驚きの声と共に、電話の向こうで何かが床に落ちて、慌てて拾い上げる音がかすかに聞こえた。


「死死死死死死死死……死!よし倒した!今すぐ見に行く!」

「頼んだ!」


 私は期待に胸を膨らませて伏見の帰りを待った!


「水水!伏見君と何話してるの!」

「しっ――」


 森さんは本当にうるさいな、今は大事な時だ、絶対に見逃せない!


 しばらくして、伏見が戻ってきた。


「アユ……火星は相変わらず何の変化もない……」

「なに――どうして!……森さんが疲れるなんてことがあるのに、なぜ火星に生命体が現れないんだ……!」

「アユ……ゲーム続けるよ……」

「うん……」


 私たちは通話を終えた、今この時、伏見の気持ちも私と同じくらい複雑なのだろう。


 くそ……失敗した……!


「ちょっとちょっと水水!あなたたち一体あたしを何だと思ってるの!千穂理はただ疲れただけだよ!」

「『ただ』?!森さんは体力無限大のプレイビースト(遊び獣)だろうが!」

「あたしを無限体力だなんて思わないでよ!」

「……プレイビーストの部分は否定しなかったな。」


 この世にはいつも超常現象が起こるものだ、例えば心霊写真、空飛んだり地に潜ったり、怪物魔法、邪悪な実験、森さんが疲れるとか、どれも不思議だ。


「水水お願いライト消してよ〜」


 森さんの両足が交互にベッドを叩き、自分の無能さをアピールしている。


「おう。」


 私は軽く返事をし、森さんのためにライトを消し、その後部屋を出てドアを閉めた、ゆっくり休ませてやろう……待て、ここは私の部屋じゃないか?


 こいつに鳩が鳩を追い出して巣を占領されたのか……なぜこいつはこんなに自然にできるんだ……


 でも仕方ない、森さんが来たら、2、3時間はごちゃごちゃしないと帰らない、なぜかはわからないけど、彼女は隣に住んでるのに。


「ねぇ〜水水、一緒におしゃべりしようよ〜」

「ああ……わかった。」


 私はライトをつけた。


「ライトはつけなくていいよ?」

「わかった。」


 私はライトを消した。


 ☆☆☆☆☆


 おしゃべりの内容はシンプルで、たった二文字:夏葉。


 森さんは夏葉さんにすごく興味があるみたいだね、これは良い知らせだ、夏葉さんがもっと友達を作れるなら良いことだ。でも、今の話題は夏葉さんの趣味嗜好について話すことから、夏葉さんの生活について議論することに変わってきた。


 もちろん私は気にしない、森さんの人柄は悪くない、彼女は過度に憐れんだり冷やかしたりしないから、議論するなら議論しよう。


「夏葉さんって、あの時水水がランダムに選んだ店員さんだったんだ……信じられない……」


 そうだ、あの罰ゲームはもちろん森さんと伏見と一緒にやったものだけど、彼らは事後に相手の身元を確認しなかっただけだ。


「でもね水水、夏葉さんがこうするのは良くないと思うんだ。一人で行動して人と積極的に関わろうとせず、他人の助けも無視する、クールって言うより、逃避って表現の方がぴったりじゃない?」


 森さんも真剣になったな……彼女が真剣な時はたまに自称を戻すんだ。どうやら本当に夏葉さんを身内と思って、真剣に彼女のことを考えているようだ。


 そういえばこれが今日の森属性?判断力が鋭く核心を突くギャルってやつ?


 夏葉さんが言うには、実は一、二人が積極的に誘おうとしたことがあるらしいけど、彼女は全部断ったらしい。簡単に言えば、彼女は私たち以外とは全く関わらない。


「確かにそうだ、でもそれも悪くないんじゃない?幸せになれるなら、それでいいんじゃない?」

「でも、水水、今あなたは夏葉さんと付き合っているんだよね?あなたは幸せなの?彼女が一人で幸せならそれでいいの?そばで彼女を気にかける人はどうでもいいの?」

「……わあ、床板って一枚一枚でできてるんだ、すごい。」

「そう!あたしも最初に気づいた時はすごく……水水話題そらさないで!」

「え、そういえば森さん、日本の結婚式ってどんな感じ?結構興味あるんだ。」

「日本の結婚式は四種類あるよ、神前式、教会式……だから話題そらさないでってば!」

「わかったわかった……じゃあ訂正するよ、みんなが『不幸せじゃない』ならそれでいい。」

「たぶんそうなんだろうね。」


 森さんは珍しくため息をつき、ポンと私を叩いた。


 彼女がそうするのも無理はない、二人で真っ暗な部屋で空気の一点をぼんやり見つめるなんて、森さんはあまり好きじゃないだろうから。


「森。」

「ん〜?水水急に敬語使わなくなったね?」

「聞く必要がある。だって君は一房緑の髪があるからね。」

「水水嫌い!あと一ヶ月で色落ちするから!」

「とにかく、森は普段みんなにすごくモテてるんだろ?嬉しいのか?」

「そうねえ……ほとんどの人はあたしの見た目が好きなだけだから、それを考えると心からは嬉しくなれないんだよね。」

「その考えをもう一度聞かせてくれ、聞いてるから。」


 実は森さんの考えや意見はずっと前に聞いたことがある、でも今は彼女の話し声をBGMに何か考えたいから、こうして森さんに頼むしかなかった。


 あの森さんがこんなことを言うなんて、本当に感動だよ。


「水水の要求って変だね……わざわざ聞くなんて……わかったよ……

 今あたしが思うのは、見た目、声、家庭環境なんかは、褒められるべきものじゃないってこと。そういうものは生まれつきのもので、努力で得たものじゃない、それだけを褒められるのは本当にひどいことだよ、自分の努力したところが無視されたみたいで、自分の努力がどうでもいいみたいで。

 それに、褒めじゃないならもっとひどい。人にブスだとか声が汚いとか貧乏だとか言われる……これらは本人が決められない要素なのに、そのせいで辱められる、これ以上無実で無力なことはない。」


 森さんの言うことは正しい。


 彼女はただのわんぱくな子じゃない、真剣になるととても様になる。


「そうだね……でも夏葉さんは明らかに他の人に虐められてる、これは間違いなく家庭環境のせいだ、私たちに何ができると思う?」

「水水は絶対にトラック一台分のお金を送るのも賛成しないだろ?じゃあまず夏葉さんを自信を持たせる方法を考えよう。」


 確かに、自信はとても大事なものだ、一人の人に与える影響は想像を絶するほど大きい。


 外見的なものより、まず内面の魂を回復させるのが最重要だ。


 自尊心、自信、自己愛、自己肯定感、この四つはどれも欠かせない。


 彼女が自分を認めて初めて、全てが徐々に良くなっていく。


「夏葉さん……彼女は自信と自己肯定感に欠けてるみたいだ。」

「水水!もっと詳しく教えて!」

「他に補足できることがないか見たいんだろ?」


 森さんは何も言わず、頭を寄せてこすりつけてきた、これは賛成の意味だろう。


「まずは自信、つまり物事をやる自信だ。夏葉さんは自分に友達ができるなんて信じてなさそうだ、自分が何かを達成できるなんて信じてなさそうだ、とにかく自分に何かを得る資格があるなんて信じてなさそうだ。」

「うーん……ちょっと難しいかも?こんな状況だと、何もしたくなくなっちゃうよね?」

「そう、だから私の考えはまずここから始めること。例えば花を一鉢プレゼントするとか?とにかく小さなことから自信を鍛えてもらって、花を育てて、水をやって、順を追ってやった方がいいかな?」

「水水、それじゃあ小さすぎない?夏葉さんは元々一人暮らしじゃない?このレベルの小さなことじゃ物足りないよ?」

「確かにそうだね……いや、成功に大小はないだろ?ただ夏葉さんがそれを成功だと思ってないだけだ。彼女にそのことが意味があると気づかせればいい。」


 森さんは再び沈黙し、また頭をこすりつけてきた。


 おい……ちゃんと言ってくれよ?髪の毛が顔にかかってきて、結構くすぐったい。なんか今日の彼女は普段と違って、以前より甘えてる気がする。


 カーテンの隙間から差し込む月明かりがあまりにもかすんでいて、私は彼女の顔を見ることができず、今の表情を知ることもできない。うん……ちょっと気になるな。


「自己肯定感はちょっと難しい、何かをすることで得られるものじゃない。」

「褒めてあげよう?」

「褒めてあげよう。」


 愛を使うのが一番簡単な方法かもしれない。もちろん、これも少しずつゆっくりやらなきゃいけない、いきなり解決は無理だ。


 周董(ジェイ・チョウ)が歌ってたあの歌詞、どうだったっけ?まず愛を好きな色で塗りつぶす。


 でも……


「でも……これで本当にいいんだろうか…?」


 決心を下す時になって、役立たずの私はまた少し後退してしまった。


「どうしたの?」

「夏葉さんをもっと明るくしてほしい……それはただの私の一方的な願いに過ぎない。多分彼女は今の一人行動に慣れ親しんでいて、多分私はただのお節介野郎なだけかもしれない……」


 夏葉さんのような人の多くは、人に気にかけられることをとても嫌がる、普段たまに世話してもらうのはまだいいけど、相手が自分を変えようとしたら、すぐにこれからの付き合いを断ってしまう。


 そういうこと、私と森さんは見てきた。


「水水はそのことを確認したことあるの?」

「実は私はただ一時の勇み足だったんだ;多分今私が思っていることややっていることは全部意味がないかもしれない……」

「そんなことないよ!」


 森さんは手で私の顔を包み込み、おそらく真っ直ぐに私の顔を見つめているのだろう、見えないけど、今の彼女がとても真剣なのがなんとなくわかる。


「水水が今やっていることは絶対に意味がないことじゃない!」

「……」

「日差しが好きな人もいれば、月光が好きな人もいるけど、みんな灯りを拒まないでしょ?みんな愛される必要がある、それは男女老少甲乙丙丁(誰であれ)関係ない!」


 濃厚な、名言や哲理を言いたいけど言えない感じ。でも私は彼女の言いたいことを理解した。


「水水があたしを助けた時もこんなに考えなかったでしょ?でも結果は良かったじゃない?私たちはただ彼女に新しい選択肢を与えたいだけ、それが間違っているわけない!」

「さっきの……」

「じゃあ水水の目の前のあたしは?なぜ他の人を見るよりあたしを見ようとしないの?」

「……わかったよ、ありがとう、森さん。」

「えへへ〜」


 本当に可愛い。


 よし……夏葉さんのこともしばらく話したし、森さんもそろそろ帰るんじゃない?


「遅いよ。」

「そうね、じゃあ水水おやすみ〜ふー……ふー……」

「倒れたふりをするな!」


 耳元で聞こえる規則的な呼吸音に、私は何かを思い出したように、森さんに質問を投げかけた。


「森さん、なぜ君は幸せに暮らしているの?」

「……んふふん〜らららら〜〜」


 彼女は鼻歌を歌うだけで、私の質問には答えなかった。


 まあいい、幸せに理由なんていらないこともある。


 まるで明日も太陽が東から昇るのを理由なく信じるように、幸せは、多分ある人にとってはそういうものなのかもしれない。


「ねえ、水水、願い事をしてよ?」

「?何だよ、急に。」

「願ってよ願ってよ〜」


 私の願いはシンプルだ、それは彼女が今のように、甘えたければ甘え、怒りたければ怒り、自由気ままに、素敵でいてほしい。


 でもそうは言えない。ちょっとからかってみよう。


「……じゃあ、すべての人が本当に好きな人に出会った時、瞳がハート形になることを願う。」

「……うえっ!怖い!バカ!水水がそんな大悪党だなんて思わなかった!」

「どこが怖いんだよこの野郎!」

「色んな意味で危険!」

「色んな意味?!」


 森さんはわざと私をからかっているかのように、最後の言葉を言う時に手を伸ばし、指先でそっと私の鼻をつまんだ。


「今日の輝く森も正義を貫いてるね!」

「ああ、そうだ、輝く森の力は強すぎて、この恐ろしい大悪党は倒された。窒息して死んだ。」


 私は適当に森さんの言葉に返事をした、彼女はとても喜んで、ふんっと鼻を鳴らした後、手のひらを離した。


「もし本当にそうなったら、あたし困っちゃうよ……」

「でも目からハートが出るのは普通じゃない?」

「どこの普通だよ!水水はあんな変なものをあまり見ないで!」

「ちっ……わかってるくせに……君に言われる資格なんてないだろ……」


 私は腹いせに森さんの金髪を何度か揉んだ。


「――そ、そんなところ……触っちゃダメよ!水水!」

「おい、触ってるのは君の頭だけだろ?」

「え?そうだった?たぶんそうだね。じゃあ存分に楽しもう〜」

「……」


 何を楽しむんだ。


 私は手を引いた。


「え〜?やめないでよ水水〜もっとやって〜」

「やだ。君の言い方がひどすぎる。」


 ちっとも慎みがない奴だ。


「早く早く〜もう一回やってよ〜今度はもっと強く〜」

「言い方変えるよう勧めるよ、森さん。」


 森さんは返事をせず、「にゃーにゃー」と鳴き声を上げながら、布団を引っ張り、「シュッ」と中に潜り込んだ。


「確かに言い方を変えたのは嬉しいけど、猫の真似して恥ずかしくないのか、森さん。」

「その感情はとっくにどこかの引き出しの隅に置き忘れてきたよ?」

「じゃあちゃんと探しに戻れよ!」


 ☆☆夏葉和枝☆☆


 世の中には理解しがたいことがたくさんある。


 例えば生きること。


 でも理解できなくてもやらなければならないこともたくさんある。


 例えば生きること。


 あるいは通学路の分かれ道に直面すると、本当に振り返って行きたくなる。なぜまっすぐ行かなければならないのか、ただ学校に行くためだけ?次の角にもっと自分がやるべきことがあるんじゃないか?


 冗談だ、そんなものがあるわけない。


 僕はまるで冬に捨てられた枯れ葉や枝のような存在で、情熱も価値もとっくになくなっていて、使命なんてあるわけがない。


 ……


 ……最近、ある人がほんの少しだけ僕の生活を変えてくれた。


 彼の性格は良くて、彼の友達もそうで、僕の考えを気にかけてくれる。もちろんそれには気づいている。


 ただ一つ疑問があるのは、なぜ彼はそんなことをするのか?


 僕より惨めな人は数えきれないほどいて、僕より無感覚な人はもっと計り知れないのに、なぜ彼はわざわざ僕を選んだのか?


 もちろん僕は知っている。


 僕には住む家がある、給料をもらっている、ご飯が食べられる、学校に通っている、日本にいながらラーメンを食べたこともない多くの人よりずっと恵まれているし、東京にいながら橋の下で住む場所もない人よりずっと生活は豊かだ、僕は不幸じゃない。


 いわゆる学校でのいじめも痛くも痒くもなく、大抵は僕の物を投げたり、貶す言葉を数言浴びせるだけだ;手を出すことはあまりなく、傷跡も残らない、打撲はすぐに消える。満身創痍にされたり、ポルノ動画を強制的に撮らされたりする女子たちに比べればずっとマシだ。


 家庭も大した問題はなく、両親の離婚なんて現代ではもう珍しくないだろう?借金があるのも普通だろう?ましてや家庭内暴力の回数は数えるほどしかなく、感情の破綻による家庭の崩壊は暴力による崩壊よりずっとマシだ?僕の家庭は多くの人よりずっとマシだ。


 そんな僕が、どうして人の好意や助けを受ける顔があるんだろう?


 彼らはもっと助けを必要とする人を助けられるんじゃないか?


 僕は一体何者だ?どうしてこれらを得られる?どうしてただバイトするだけで客の気遣いを得られる?どうして僕がこんな素晴らしいことに遭遇する資格がある?それに……


 正直、気にかけられるのが少し怖い。そんなもの聞いているだけで現実味がない;特に僕みたいに悲惨レベルじゃない人間が気にかけられるのは、なおさら偽善的に感じられる。


 彼らを信じたくない。


 この前、相手を食事に誘った。


 居酒屋すら行ったことのない人はたくさんいるだろう、ラーメンすら食べられない人もたくさんいるだろう、そう思うと、自分がひどく嫌になる。ぜいたくな食べ物を食べ、人の善意に浴し、安定した生活を享受しているこんな僕が、たまに未来に絶望することすらあるなんて、本当に落ちぶれた人たちに申し訳ない。


 だから、やはりあの疑問だ、僕は一体何なんだ?


 制服を着ている、僕は学生か?


 違う、普通の学生は悩みのない生活を送っていて、生計のために奔走したりしない。


 従業員服を着ている、僕はサラリーマンか?


 違う、普通のサラリーマンは毎日たった六、七時間しか働かないはずがない、もっと努力してもっと稼ぐ仕事が普通だろう。


 色あせた服を着ている、僕はけちんぼうか?


 違う、普通のけちんぼうは毎月あんなに利息を払ったりしないし、ましてや親族に生活費を送ったりしない、一生の蓄えは全部棺桶に持っていくのが普通だ。


 じゃあ僕は一体誰なんだ?


 僕は生まれた時から、ずっと違うアイデンティティで飾られてきたようで、単一のアイデンティティと言葉だけで僕を形容しようとするのは無駄な努力に違いない。


 娘であり、クズの娘だ。娘であり、金を稼ぐ娘だ。姉であり、優秀な姉だ。姉であり、遠い存在の姉だ。


 勉強したが、県内トップ3の高校には入れず、この学校も合格ラインぎりぎりで入った。金を稼いだが、自分を豊かにする可能性はなく、一ヶ月に五千円余裕があればいい方だ。自立したが、弟を養う能力はなく、あの浮気男に頼らなければならない。


 何もかも中途半端なこの人生には、本当にうんざりだ。


 やっぱり、死んだ方がいいんじゃない?借金まみれの母を返せなくて絶望させ、結婚しながら浮気相手を家に連れ込んだ父の心の負担を一つ減らし、僕を見下す奴らに八つ当たりする場所を奪い、この世から平凡で役立たずな人間を一人減らす。


 いわゆる幸福感は一体どこに神様が隠したんだ?たとえそこが地獄でも僕は行くつもりだ。


 ……結局今僕が考えているのは何のためか?思うに、ただ惨めさを売りたいだけだろう。自分が悲惨で強い人間だと確信させるために。


 もし本当にそういう人間なら、こんな無意味な考えは持たないはずだ……


 やっぱり、いくらあの本当に強い人たちに憧れても、僕は所詮落ちぶれた者だ。


 僕みたいに頭の中が自分を欺くことばかりの人間は、永遠に立ち直れないだろう。


【ピンポン〜】


【ピンポン〜】


 ん?誰かからメッセージ?


【和弦:お姉ちゃん、今度のテストまたA取れたよ!】


【和弦:それに、この前お姉ちゃんに話したあの絵画コンクール、僕も二等賞取れたよ、褒めて!】


 ……もう。


【夏場:すごいね、和弦。今月は二千円多くお小遣いあげる、それに、次はまたあの居酒屋に連れて行くからね】


【和弦:ありがとうお姉ちゃん!お姉ちゃん大好き〜】


【ピンポン〜】


 ん?またメッセージ?


 ……七海千秋?これは誰のアカウント?


 ……ああ、この前の森さんか。彼女がこんな名前を使うなんて、意外だな。


 うん……海に行く?あの赤レンガ倉庫の辺りのこと?行ってもいいのかな……


 いや、今月の出費がちょっと多いし、それにこんなに休みを取るわけにはいかない、シフトも調整しにくい。後で毎日何時間かバイトを増やそう。


 ごめんね、でも誘ってくれてありがとう。


 ☆☆于徳水☆☆


「水水~~~」

「どうした?」

「あたし、夏葉さんに嫌われちゃった〜〜」

「は?」


 森さんが突然何を言ってるんだ、彼女は何をした?


「さっきあたし、伏見君からもらった夏葉さんのLINEアカウントで明日海に遊びに誘ったんだけど、夏葉さんは行かなくてもいいって!」

「そうか。それに文章は短くしてくれ、そうしないと聞き疲れる。」


 大したことじゃないのに、森さんはそんな反応か。


「夏葉さんはまだ忙しいから、時間が取れなくても仕方ない。」

「え〜〜夏葉さん普段何で忙しいの?水水とよく遊びに出てるのに!」

「よく?たった二、三回だろ?」

「あたしは一度もないのに!」


 なんだか森さんのこの言い方、ちょっと酸っぱい感じ?まあいい、たぶん気のせい。


「揚霊学園って県内偏差値トップ5の高校だろ?入るだけで私たちよりどれだけ努力が必要かわからないのに?」

「え?揚霊学園ってそんなにランク高いの?すごい!夏葉さん!」


 こいつは全く気にしたことないのか?揚霊と清和はそんなに離れてないのに、結構近い高校なのに。


「普段はバイトにも結構時間を使ってるし、一人暮らしだから、彼女は基本的に一日中頑張って生活してるんだ。私たちみたいに好き勝手やってない。」


 清和も横浜では有名な私立高校だけど、揚霊と比べると成績ではやっぱり一歩劣る。揚霊は国立だから学費は高くないけど、平均偏差値は71もある。清和は高級私立校で、平均偏差値69は普通。


「ご飯作ったり洗濯したり……すごいな……夏葉さん……」

「おい、君が挙げたこの二つの例だけは自慢に合わないだろ?」


 森さんの家の家事も俺がやってるのに、彼女は俺を褒めもしない、当たり前になってる、くそ。


 半年以上も苦労してこいつを育ててきたのに、全く気にかけてくれない。残念。


「だって水水が普通の人が一番最高だって言ったから?洗濯や料理ができる人は普通でしょ?だからすごい!」

「……反論できない。」


 確かに、洗濯も料理もできない人の方が少ない、普通の人サイコー!


「そういえば、水水は夏葉さんを助けるのにこんなに熱心だけど、これって普通の人にある行動?」

「もちろん、良心があるのはみんなの標準装備だろ?」

「標準装備!」


 なんとなくこの言葉に酸っぱい感じがするけど、森さんは瀬戸が好きなはずで、夏葉さんを好きになって俺にやきもちを焼いてるわけじゃないだろう?やっぱり気のせいだ。最近少し敏感すぎるのかも。


「今すぐみんなが使う言葉で千穂理を形容して!」

「可愛くてウザい魅惑的な悪役。」

「あたしに他に思うことは?」

「生まれてから一度も死んだことがない不死の伝説。」

「貴重なご意見ありがとうございますがここまででお願いします。」


 もう、森さんが自分で聞いたくせに。


 ……女の子ってそういう自覚ないのか?仲が良すぎて、絶対に面と向かって褒めたりしないだろ?


 他の人に聞かれたら、絶対に「可愛くて魅力的な人気者」って答えるけど、森さん本人の前では絶対に口に出せない……


 でも確かに俺は彼女を褒めてない、少し埋め合わせしよう。


「……前に君にあげた万能券、今は二回使える。」

「ええ?!水水なんで早く言わないの!」

「どうした?これは賞味期限切れないだろ。」

「あたしもう伏見君に譲っちゃった!」


 結局なんでこんな奴に申し訳なく思うんだ?あんなもの平気で人にあげる?


 ふん、女。


「水水〜千穂理を逃がしてください〜」

「……もういい、新しいのを作ってやる。」


 ふん、自分。


「やった〜!水水サイコー!」

「はいはい、次は気をつけて。次があればだけど。」

「あたし自分でデザイン描いてもいい?」

「うん……いいよ、どうせ描き直すから。」


 ☆☆☆☆☆


「おはよ〜」

「おはよう。」


 森さんは毎朝こんなに元気いっぱいだなーーもし彼女が今日30分遅く起きてなければそう言うところだった。


「約束した?」

「約束した。」

「わ〜……ふん。」

「何だよ。」


 森さんが何を考えてるかは天が知る、今日の属性はツンデレか?言葉にできない?


 残念ながら俺はまだ黒澤家から読心術を教わっていないので、全く理解できない。


 もしかして、自分が夏葉さんに断られて一緒に行けなくなるのを心配してるのか?


「早くご飯食べろ、もう時間ない。それに、夏葉さんは君のこと嫌ってない、遠慮なく一緒に来い。」

「え?!そうなの!よかった〜」


 何に?もちろん遊びの誘いだ。


 昨日森さんが誘って断られた後、俺に夏葉さんを誘ってくれと頼み、俺も断らず、彼女を家まで送った後に自らメッセージで夏葉さんに聞いてみた。10分ほど話し合った後、最終的に夏葉さんも承諾してくれた。


 ふん、ある人は一言で人を誘い出そうとして、この自信は絶望的だ。


「水水見事に任務を遂行!じゃあ次はご褒美タイム!」

「ん?何のご――」


 森さんはそう言うと、突然抱きついてきた。


 緑の一房が俺の顔に貼りつくことがご褒美だとは思えない。


「そういえば、ヘアカラーって匂いあるのか?」

「あるよ……でもあたし植物性カラー使ってるから、鼻につく匂いはないよ?」


 なるほど、あの謎の梅の香りはシャンプーの匂いだったのか、カラー剤がこんなに良い匂いがすると思ってた。そういえば森さんはこのシャンプーを特に気に入ってるみたいで、ずっと変えてない。


「なんか水水がすごく失礼なこと考えてる気がする!謝って!」

「ごめ……ちょっと待て、考えてもないし!それに口に出してないことをなんで謝らなきゃいけないんだ!」


 俺は嫌そうに森さんを体から剥がし、緑の髪で俺の顔を突く機会を与えなかった。


 彼女は腕をバタつかせてまたくっつこうとしたが、残念ながら俺の腕の方が長い、頭を押さえられると森さんは抵抗できなかった。


「早くご飯食べて学校行くぞ、ふざけるな。」

「水水水水!いつ約束したの!」

「週末。ちゃんとご飯食べろ。」

「そういえば昨日知秋お姉さんが飲み物一箱持ってきたよ、超美味しいらしい、あたし二缶持ってきた、水水飲んでみる?」

「自分でもまだ飲んでないのか?何味?」

「オレンジとレモンが描いてあって、炭酸水っぽい感じ!」

「炭酸水か……後で飲んでみる、今はまずご飯だ。」

「それにそれに!水水知ってる?もうすぐ鶴岡祭だよ!流鏑馬が見られる!その後一緒に見に行こう!」

「聞いたよ、16日だろ?あの日は火曜日……まあいい、休み取って付き合うよ。」

「おお!じゃあ来月の――」

「うんうん、全部承知した。」


 俺は微笑みながら、滑らかな動作で元々森さんの分だった朝食をキッチンに戻し、気を利かせて保温箱に入れた。


「ブルブル……水水のこんなに適当な承諾、あたし寒気を感じる……」


 俺は森さんの言葉に乗らず、そっと彼女の髪を撫で、自分でカバンを持って家を出た。


 彼女の言うことは全部正しい、全部良い、でもとにかく俺は先に行く。


「待って待って水水!あたしまだご飯食べてない!ちょっと待って!」


 うん、彼女の言うことは全部良いけど、これはやめておく。


 俺は背後から聞こえる叫び声を無視し、一人で通学路を楽しく歩いた。


 たまには怒ることもあるな。


 学校まで歩いて20分ほど、森さんには身支度と食事と着替えに10分ある、遅刻しなければいいが。


 ☆☆☆☆☆


「水水、一緒にいて…………サボろう?」


 森さんが後ろから抱きつき、耳元で色っぽく甘い声で囁いた。


「……一緒に、この時間を、もっと楽しいことに使おう……」

「わかった、行こう。」

「うわーー一日休んでよ休んでよ〜〜あたし今日運勢悪い気がする〜〜」


 戻って彼女に付き合うんじゃなかった。


「向さん、私たちを送っていただけますか?」

「問題ありません、于さん、森さん。」

「私は年下ですから、向さんは呼び捨てで構いませんよ。」

「わかりました……水君。」


 ああ、言ってなかったな、【向知秋】さんはメイドさん、つまりこの間伏見家が森さんの世話のために派遣してきた方だ。


 最近彼女がいるおかげで、久しぶりに楽になった。少なくとも今の森さんは11時以降は外出禁止、深夜1、2時に家でランダムに落下する森さんに遭遇することはなくなった。


「え〜〜水水〜知秋お姉さん〜」


 森さんは長く引き延ばした声で抗議を表したが、体は素直に向さんの運転する車に乗り込んだ。


 もう10分しかない、歩いては到底間に合わない、向さんに車で送ってもらうしかない。


「そうだ、知秋お姉さん、車酔いしそうかも。」

「承知しました。では心を込めてお詫び申し上げながらお送りいたします。」

「お詫び?!」


 その後惨憺たる状況は詳述しないが、とにかく学校に着いた時、車もついでに廃車になった。森さんは何とか無事だった。特に私が支えている時はなんとか動けた。


 そういえば、この車の品質は本当に良かった、少なくとも私たち三人は車内で少しも怪我をしなかった。


 ……要求を下げすぎたか?


 車を降りて、私は真っ先にブランドはわからないが間違いなく高級なこの車をチェックし、向さんに魂の質問を発した:


「向さん、これは伏見家の専用車でしょう?こんな乱暴な運転で大丈夫ですか?」

「大丈夫です、水君。ご覧ください、まだ動きます。」

「まだ動く?」


 向さんは誇らしげにハンドルを切った。


「動きに全く問題ありません!スムーズです!」

「……」


 向さんが成熟した落ち着いた人だと思い込んでいたことをお詫びします、やはり同世代か、大学生の年齢だ。


「水君、そんな目で見ないでください……少なくともこの車はまだ運転できますよね?」

「まだ運転できる?」


 私は妙な煙を上げているボンネットと、いつの間にか一つなくなったタイヤを見て、どうやって運転するのか全くわからなかった。


 向さんは手袋をはめた小さな手を優雅に伸ばしてドアを開け、細い長い脚で車の後ろに歩いて行き、「パン〜」と華麗なトランクを開けた。車が廃墟になってなければ、なかなかの光景だったかもしれない。


「ほら!ドアもトランクも開く!」

「……」


 伏見よ、君の家がこんなメイドを雇って本当に大丈夫か?


 それとも君がこの向さんを森さんの家に送り込んだこと自体が狙いだったのか?


「水君?聞いてますか?」

「……うん、確かに開くな。」


 向さんは確かに運転できるな。


「水水……あたし死にそう……」


 その時、車内から森さんのか細い声が聞こえ、遺言を聞かせてほしいと伝えてきた。


「では君の遺言は?」

「世界平和……」


 はあ。


 ☆☆夏葉和枝☆☆


 今日も私はちゃんと学校に行った、すごい。


 昨夜水君がまた誘ってくれた……短時間に連続で誘われる、これは大切にされている証拠?それに気づいて、少し興奮して普段より遅くまで寝てしまった。


 幸い、少なくとも遅刻はしなかった。


「夏葉、昨日は君が担当の掃除だったな?」


 私が着席したばかりの時、担任が私に声をかけてきた。


「放課後すぐに帰ったのか?教室がすごく汚いぞ?今日残って一緒に掃除しろ。」

「本当にすみません、先生。今日は残ります。」


 先生が満足そうにうなずくのを見て、ようやく安心した。


 昨日はもちろんちゃんと教室を掃除した、もし本当にどこか少し手抜きがあったとしても、先生の言う「すごく汚い」レベルには絶対にならない。


 ではなぜそうなったのか?


 私は遠くの中村と鈴木を見た、案の定、二人は不愉快な笑みを浮かべてこっちを見ていた。


 ああ……先生に私が叱られるためだけに、二人はわざわざ学校で30分待って、私が掃除して帰った後に悪さをしに来た?


 それだけの価値があるのか?


 悲しいことだ。宇宙誕生の時から存在する原子が、あんな愚かな生命体を形成し、その生命体には「知性」すらあるなんて、なんて皮肉で悲しいことか。


 もし彼女らが超新星爆発や中性子星合体で生まれた原子を使っているならなおさら残念だ、彼女らは完全に重元素誕生の妨げの元凶だ。


 ……よし、こんなこと心の中で言うだけだ。


 このことをはっきり言うことはできない、先生に言ったところでどうなる?今回叱られたとしても、今後も嫌がらせを続けなくなるわけがない。


 彼女らの前で罵倒することもできない、そうすればもっとひどい迫害を受けるだけだ。


 このレベルの嫌がらせは、多くの人が経験したものよりずっと軽い、手を出さないし、我慢しよう。


 以前水君がたまたま私のカバンを拾ったこともある……これは知り合いに間接的に見られた恥ずかしいこと、こんなことは二度と起こってほしくない。


 よし、何も知らないふりをして、放課後にもう一度掃除しよう。私は見た、教室の一番前の教壇がいつしか大きな黒い染みに染まっていた、何か洗いにくい塗料のようだ、そうでなければ先生は授業前に誰かに片付けさせるはずだ。


 今日のバイト時間は少し短くなるかもしれない。


 日曜日も出かける……


「はあ……」


 今年初めてお金に悩んだ。


 高校に合格してから、勉強の時間を減らしてバイトに充てたから、毎月何とか少しは貯金できた。でも今月……お金もかかるしよくバイトもできない、行ったり来たりで……


 今まで貯めたのは10万円ちょっと、これじゃあ何度か病気になれば底をつく……どうしよう……もう一つバイトを探そうか……家庭教師は給料が高いらしい……高校生を家庭教師に雇う人なんている?それとも……


 とにかく賞味期限間近の調味料は買わないようにしよう……コーヒーも少し減らそう……


【チリンチリン〜】


 ……?


 ああ、始業のベルだ、そろそろ時間だ。


 今日の一時間目は英語、私は英語の教科書を取り出し、新たな一日の勉強時間を始めた。


 一時的に勉強で様々な悩みを忘れよう。なんて素晴らしい学園生活だろう。


 ☆☆于徳水☆☆


「森さん、すまないけど、ちょっと離れてくれないか。」

「やだよ〜水水カップの水そんなにいっぱいにしてどうするの?ちょっと揺れたらこぼれちゃうよ?」

「自分ならできると思ったんだ。最近夜更かししすぎて、手が少し震えてる。だから離れててくれないと、こぼれちゃう。」


 なぜ夜更かしが増えた?この問題は匿名のMさんに聞いてほしい。


「一口飲めばいいじゃん?」

「これは生水だ。花にやるんだ。」


 先生に急に頼まれたから、じょうろがない私はカップで水を汲むしかなかった。


「とにかく、僕が教室に戻るまで触らないで。」

「どう考えても無理だよ〜なはっ!」


 私の制止を無視した森さんは背後から組みつき、私の手の中にある一口分の水資源を破壊した。はあ、どうあれ無駄だ。


「お前……最近俺を抱く回数が多すぎないか?」

「……うっ?!」


 森さんは慌てて私を離し、体を背けた、見せたくないみたいだ。


 ふん、この水を無駄にする憎むべき奴、きっと自分の卑劣な行いに赤面して恥じているに違いない!


 案の定!彼女が振り返った時には耳まで赤くなってた!でも恥を知るのは良いことだ、人は本当に自分の過ちを自覚してこそ改められる。


「あの……水水……」


 森さんは顔を赤らめてそっぽを向き、私をまともに見ようとしない、小さい仕草もやめず、指で髪をいじっている。よし、これは過ちを犯した子供が先生の目を見られない行動で、髪をいじるのは不安と恥ずかしさの表れだ、素晴らしい。


「あなた……私のことどう思ってるの?」


 彼女が発したこの言葉はとてもかすかで、完全な弱みを見せている!森さんが弱みを見せるなんて!超レアだ!彼女がこうなんだから、真剣に叱るのも悪いな。


「少し言うことを聞かないけど、過ちを改めるそのところは好きだよ。」

「うえっ?!?」


 森さんの表情はまず謎の照れくさそうなものから、それから「なんか違う」とつぶやき、すぐに呆けた表情から淡白なものに変わった。感情の動きが豊富だ、もし黒澤兄妹がここにいたら簡単に読心できるだろう、彼ら黒澤家の読心術は一流だ。


「バカ、ブタ、アホ、死ね!」


 森さんが私を…………え?森さんが私を罵った?


 え?????大勢の前で???彼女がそんなことする?


 前にもバカとか言ってたけど、口調は全部ただの甘えだった、今回は本気だ!森さんが人を罵るのを聞くのは初めてだ!なぜだ!


 まだ何が起きたのか尋ねる間もなく、森さんは一人で人混みの中に消え失せ、私を廊下に茫然自失とさせた。


 近くのクラスメートが何か囁き合っている、何人かの男子は恐ろしい目つきで私を刺してきた、私は一体何をした?なぜそんな目で見る?水を無駄にしたから?


 本当に最悪だ、学園生活。


 ☆☆夏葉和枝☆☆


 少し素敵だがそれほどでもない学園生活が終わると、私のバイト時間がやってくる。


 正直、ここの店長は本当にいい人だ、私がパートタイムなのに、時給1050円もの賃金を払ってくれる。ここでは最低時給が930円前後なのに、店長は私のために昇給してくれた、本当に感動した。


 もちろん、私もほぼ安定してバイトに来ている、そうでなければ店長は私にこんなに良くしてくれない。


 二年前、私はここでバイトを始めた。最初は特に考えもなく、ただあの家から離れたかっただけだ。


 その後、あの家はますますバラバラになり、彼らが離婚するまでになった。私は母親に引き取られ、弟は父親に引き取られ、私たちの家も正式に過去のものとなった。そして私はだんだんバイト生活に慣れ、一人でここに住むようになり、母親だけの家に戻りたくなくなった。


 一年半前、近くの公立高校に進学することに決めた。公立は補助があるから、学費が安いから。


 揚霊学園、私の一番近い公……いや、国立学校。当時はこの学校の状況を調べていなかったから、国立を普通の公立だと思って挑戦したなんて、今思えば信じられない。


 生活上の変動で、当時の私は勉強以外何も知らなかった、それに運も良く、合格の最後の枠に滑り込んだから、そういうわけで揚霊に合格した。


 噂では、母親は結婚前は傲慢で無礼なギャルで、父親はハンサムで派手好きなプレイボーイだった。その後彼らは偶然私を妊娠し、家族に知られてしまい、二人は結婚せざるを得なかった。もちろん、このひどい事実暴力は父親が教えてくれた、だって私は母親に引き取られたから。


 結婚後、母親は何も変わらず、相変わらず傲慢で金銭志向の性格で、表面的な華やかさを保つために、クレジットカードでたくさんの軽いブランド品を買って見せびらかした。


 父親は結婚後はむしろ落ち着いて、ちゃんと仕事をし、妻と娘の面倒を見るようになった。でも残念ながら、弟が生まれた後、母親の貪欲な欲望はますますひどくなり、家計が負担できない高級品を買い始め、ナイトクラブで人と踊りに行ったりした。うん……うん。


 父親はその頃から母親に嫌気がさし始め、偽装する気もなくなり、私たちは初めて知った、父親は実はずっと会社の様々な同僚と浮気していた、表面的な良き父親像はただの罪悪感の現れだった。


 そんな真実を知って、母親も自分を解放し始めた。ギャンブル、それは彼女の最も速い娯楽となった。


 こんなものに手を出したらろくなことにならない……ごめん、ちょっと待って、お客さんが来た。


「合計1658円です〜ご利用ありがとうございました〜またのお越しをお待ちしております〜」


 ……さて、さっきどこまで話したっけ?


 ギャンブルだっけ?そう、ギャンブル。


 一度でもやってしまえば、もう抜け出せなくなるかもしれない。


 最初のうちは母親も小額で遊んでいて、たまに大金とお菓子を持って帰ってきて、そんな時は気前よく私と和弦にお菓子を分けてくれた。


 もちろん、落ちぶれた犬のように帰ってくることも少なくなく、そんな時は家の空気が重くなり、身動きが取れなくなった。


 こういう人は手っ取り早く稼ぐ快感に浸ってしまい、苦労して働いて報酬を得ることに耐えられなくなる。そして損してもかまわない、次は必ず取り戻せる。


 当然、二年前に彼女は一発かけて、二千万円の借金を作り、彼らは離婚した。それが私がバイトをしようと決めた理由だった。


 でも結局は母親だ、どんなに嫌っても、結局は軽く流すしかない。これが血のつながりの制限だろう。


 今、私は毎月母親のために十二万円の利息を払っている、元本は彼女自身で返してほしい。もちろん現実的に言えば私にも元本を払う余裕はない。


 でも彼女も毎月十万円の利息を払わなければならない、あまり余裕はないはずだ?


 最近の母親はちゃんと仕事も始めた、心を入れ替えたようだ。具体的にはある夜、彼女に電話で呼び出され、彼女はたくさん酒を飲み、私を抱きしめて泣き、たくさん話し、たくさん吐いた。


 いずれにせよ、多分すべてが良くなっているのだろう。


 あれ以来、たまにOL服を着た母親を見かけることもある、やっぱり仕事してるんだ。はあ。


 ☆☆于徳水☆☆


 時々、欺くことは避けられない行いだ。


 自分を欺くにせよ、他人を欺くにせよ、いつもそんな選択肢が現れる。


 今まさに放課後だ。


「水水!」

「はい。」

「君は人狼か?」

「そんなゲームの仕方ないだろ……」

「だから君は?」

「違うよ。」


 これは善意の嘘だ。


「おい、お前ら二人、このゲームは順番に発言するんだ、同時に話しちゃダメだ。」

「わかったよ〜伏見君〜」


 うん、そうだ、私たちは人狼ゲームというゲームをしている。


 ゲームのルールはシンプルで、人狼陣営は毎晩一人を殺し、市民陣営は昼に投票して誰かを追放する。人狼の勝利条件は市民を殺し尽くすこと、その逆も同様、これが最も基本的なルールだ。


 そして今のゲームでの私の役職は、まさに人狼だった。


 私と森さん、伏見の他に、参加者は瀬戸と黒澤兄妹、標準の6人プレイで、役職は人狼二人、市民二人、予言者一人、魔女一人。


 そう、前に友達は五人以下と言った、まさに彼ら五人だ。森さん、伏見、瀬戸、黒澤兄妹。


「う〜ん……あたし最初の発言、特に言いたいことないよ、市民だ、終わり〜」


 初夜は誰も死なず、魔女が薬で誰かを救った、森さんは市民として、最初の発言者は当然視野がない、普通だ。


 不運にも、今回は私の相棒が伏見だった、この超ゲーマーのリードで、きっと――


「お兄ちゃん、後輩は人狼だよね?」

「凌羽、まだ私の番じゃない、話せないよ。」

「わかった、お兄ちゃん。」


 ええええええ???もう私が疑われてる?!


 今話していたのは、黒澤兄妹だ。


 兄は黒澤裕司、妹は黒澤凌羽、二人とも二年の先輩で、黒髪の美人。特徴は他人には理解できないほどの仲の良さ、そしてあの不可解な読心術。


 でも読心術と言っても、実際には微表情分析と第六感で、本当の超能力ではない。


「私は魔女、昨夜お兄ちゃんを救った。後輩、あなたが私のお兄ちゃんを殺そうとしたんだよね?」

「いや、先輩、そんな言い方怖いです……そんな目で見ないでください……本当に殺意を感じます……」

「それに、小伏見、さっき私が後輩の話をした時、あなたの表情がおかしかったね?パス。お兄ちゃんの番。」


 先輩に無表情に狙われるのは、なんだか妙に興奮する……


「私は予言者、凌羽の言う通り、昨夜一二三さんを調べた、人狼カードだ。一二三さんに投票、パス。」

「お兄ちゃん、私すごいでしょ?」

「うん、すごいよ、凌羽。」


 はあ、神職二つ全部この兄妹が取ったのか?


 次は瀬戸の発言だ。


「二人の先輩の指摘があれば、あなたたちは疑いを晴らせませんね、于くん、伏見くん。二人を疑います、終わり。」


 まずい……矛先が全部こっちに向いてる……オフラインで人狼ゲームをやるのはここが嫌いだ、ちょっとした微表情でもバレる……


 今伏見の番だ、逆転の可能性はまだあるのか……?


「二人の先輩、実はお二人こそが人狼ペアですよね?ここで凌羽先輩と役職を張り合います、私の手札は魔女カード、昨夜は自分を救いました、犠牲者は私です。」


 伏見はまだ諦めていない!さすがトップクラスのゲーマーだ。


「なぜ私とアユを狙うか、実は簡単です。あなたたちの後に発言するのは三人だけ、森の発言を見ると彼女は役職を持っておらず、後ろの三枚のカードのうち二枚が神職、あなたたちは適当に張り合えばいいだけです。」


 うん、伏見は様々なゲームには長けているが、人狼ゲームのような対人ゲームはまだ慣れていないようだ。さっきの発言には明らかな穴があった、彼らが気づかないことを願うしかない。


「お兄ちゃん、小伏見が私たちを人狼だって言ってるよ。」

「凌羽、君を信じるよ。」

「私もお兄ちゃんを信じてる……」

「凌羽……」


 おいおい、私たちは真剣に発言してるんだぞ、君たちはそんなにベタベタしてていいのか?もうすぐキスしそうだぞ?


「私の視点では、今の状況で予言者はアユしかいません。私の提案は私と全員で裕司先輩に投票し、まず偽予言者を追放し、それから私と凌羽先輩の二人の魔女が互いに毒殺し、どちらが本物の魔女かを見る。パス。」


 ああ……次は私か?今は票を集めなきゃいけないんだな?


 私は伏見の目を見て、どうすればいいかわからなかった。でも伏見は私の状況をあまり気にしていないようで、まるで私たちがすでに勝利を確信しているかのようだ。


 じゃあ……適当に票集めしよう。


「私……予言者だ、昨夜調べたのは森さん、森さんは善人だ。伏見は人狼予言者に初日から追放宣告されて、裏切り確率は低い、私は彼を善人扱いする;最後に裕司先輩に票を集める、今夜先輩と伏見は互いに毒殺しろ、パス。」


【投票開始】


 ワクワクする時間だ!


【投票終了】


 私、伏見、森さんが裕司先輩に投票、裕司先輩、先輩、瀬戸が伏見に投票。同票、追放者なし。


 戦術的考慮から、夜には裕司先輩を殺し、昼には案の定私が毒殺され、裕司先輩と共に死亡退場。


 伏見は先輩が裕司先輩を失って慌てている隙に、発言が非常に優れていて、瀬戸の票を集めることに成功し、最終的に人狼が勝利した。


 ゲーム後の振り返りをしながら、片付けをし、校外へ向かって歩いた。


「水水!あなたがあたしを騙したなんて信じられない……」

「そんなこと言わないでよ……良心が痛む……」

「痛んでほしいんだよ!水水が千穂理を騙すなんて!誰を騙してもいいけど、あたしだけはダメ!」

「いや、森さんがそう言っても、人狼ゲームは――」


 頭が痛い。


 森さんの今日の属性はわがまま姫に違いない。


「「ごちそうさまでした。」」


 隣の黒澤兄妹もなぜか、私たちを見ていると突然一緒にうつむいて手を合わせ、こんな変なことを言った。私たちが何をごちそうした?


 伏見も笑いをこらえきれていない?何が起きた?今朝と同じで、私だけが何が起きたかわからない感じだ。


「水水!こっち見て!」

「はいはい、見てる見てる。」

「二度と騙さないって誓って!」

「いや、そこまでするか……ただのゲームなのに……」

「これからも水水に騙されるかもしれないって考えると……そんなこと想像しただけで最悪!絶対に許せない!」


 そうだ、少しの嘘も我慢できない人もいる。ただ森さんはちょっとやりすぎだ。


 でも……我慢しよう。なぜか、彼女なら許せる気がする。


「わかった。これから君を騙さない。」

「……やあ〜……水水、行くよ〜」

「行くよ。」

「「ごちそうさまでした。」」


 あの黒澤兄妹はさっきから本当にうるさい!


 ああ……こんな生活……本当に最悪だ。


 週末を待とう。


 ☆☆☆☆☆


 火曜日。


 私は森さんと一緒に鎌倉の流鏑馬祭りを見に行った、こんな勇猛な行事が平和な時代に見られるなんて、意外だ。馬の蹄が舞い上げる砂塵で森さんの髪が汚れそうになった、近くの観覧券を買わなければよかった。


 よしよし、戻ってきたのだから、気持ちを引き締めて、あの場面を思い出さないようにしよう。


「伏見、はい、お土産。」

「あたしのもよ〜」


 私と森さんは一緒にお土産を伏見に渡した、彼は私たちと一緒に行かなかった。


 私は普通の鳩のバタークッキー、定番の贈り物は失敗しない。森さんのはメロンプリン。うん、JKらしい、甘い。


 伏見は感謝の気持ちでお土産を受け取り、ソファに座るよう誘い、何か準備するから私たちは先にテレビを見ていてほしいと言った。


 今日私たちが伏見の家に来た目的は、伏見にオレンジキャンディの作り方を教えるためだ。伏見はもちろん材料を準備しに行った。


 なぜ急にこれを教えることになったのか?


 それはあるおおらかな森が、私をこき使える万能券を伏見に譲ってしまったからで、今日は万能券の依頼で来たのだ。


 でも正直、こんな小さなことには万能券なんていらない、伏見が一言言えば教える、だってこれはあまりにも簡単すぎるから。多分彼もそれを手元に長く置いておくのが申し訳なかったんだろう、私もそうだ。


「よしし〜!水水早く始めよう!」

「なんだか君の方が伏見より興奮してる気がする……」

「お菓子とキャンディだけは裏切れない!」

「それは裏切ってくれ。」

「水水とアリだけは裏切れない!」

「なぜ俺とアリが一緒なんだ!」

「水水とゾウリムシだけは裏切れない!」

「ますます裏切れそうだ!」


 隣の伏見は親切にも人を見下す森さんを止めてくれた、感動だ。


 とにかく、始めよう。


「さあ、まずオレンジを絞る。」

「絞り出せ〜絞り出せ〜」


 なぜか森さんも一緒にやっている。私たち三人はキッチンの大理石のカウンター前に並んで、分離式のジューサーでオレンジジュースを絞り、それぞれ小皿に入れた。


 今のところ、森さんはまだ何も壊していない、素晴らしい。


「それから砂糖、はちみつ、レモン汁。砂糖を入れすぎないでね、森さん。」

「白くて〜甘くて〜」


 私はこれら三つを少なめに入れ、伏見はレモン汁を多めに、森さんは砂糖を多めに入れた。好みがはっきりしてるな、お二人様。


「中弱火でゆっくり煮詰め、かき混ぜながら、ゼリー状になるまで。」

「手でずっとずっとやって〜べとべとになるまで〜……うわ!水水あなたあたしに何てこと言わせるの!」

「……君は。」


 少なくとも食べ物をそんな下品に形容しないでくれ。それにどう計算したら俺のせいになるんだ。


 すぐに、私たちのオレンジキャンディの原型ができた。


 私の鍋にはゼリー状のものだけが残り、伏見と森さんの鍋は一方は完全に塊になり、一方は焦げ付いた。うん、わざと森さんに注意しなかった、さっき食べ物でふざけたことへのちょっとした罰だ。


「型にクッキングシートを敷いて、流し込み、ヘラで平らにする。最後にもう一枚クッキングシートをかぶせ、冷蔵庫で冷やす。」

「水水!あたしのヘラで取れない!」

「ああ、じゃあ鍋のまま食べればいい、同じことだ。」

「え〜〜」


 森さんのことはさておき、彼女の今日の料理は超常発揮で、意外だったのは伏見がこんなにミスしたことだ。火力が明らかに強すぎて、最終的な出来は硬くなるだろう。


 彼の模倣学習能力は一流のはずなのに、なぜ私という料理人が隣で手本を示しているのに問題が起きたのか?


 無理やり一部の砂糖液を救い出した後、森さんも一緒に型を冷蔵庫に入れて冷やした、彼らの仕事はようやく終わった。後はキャンディを切るだけ、これは私がやる。


「ふぅ〜疲れた〜」

「まあな、ちょっとのことだ。」


 今日の伏見は静かだ、普段なら一緒にツッコミを入れるのに。


「そういえば、伏見はなぜオレンジキャンディにこだわるんだ?前に二回も作らせたよ。」

「それはね……」


 気のせいかもしれないが、伏見の目に一瞬の寂しさが走った気がした。


「俺んちは知ってるだろ、父さんは忙しすぎて、家族と一緒にいる時間なんて全然ないんだ。」


 これは確かで、伏見家の事業は大きすぎて、社長が家庭を大切にしながら様々な産業を経営するなんて想像しにくい。


「小さい頃、父さんが一度だけ手作りで砂糖を煮詰めてくれた、あのオレンジキャンディの味が唯一の親情の思い出なんだ。」

「伏見君がまた食べたいなら、これからあたしが作ってあげるよ?」

「……だから君がこれが好きなのか。」


 私が初めてオレンジキャンディを作った時、伏見は美味しそうに食べていた。でも私の腕前がこの大御所の舌を感動させるほどではないことは確信していた、当時はずっと不思議だった。


「それに、多分父さんも初めてだったから、あのキャンディはすごく酸っぱくて、食感も硬くてザラザラしてて、失敗作だったんだ。そういえば、これが父さんの失敗を見た唯一の瞬間だ。」


 そう言いながら、伏見は笑った。


 伏見があんなにレモン汁を入れ、あんなに強火にしたのは、わざとだったのか。単なるミスだと思ってた。


「じゃあじゃあ!キャンディ固まった?水水!」

「うん……時間もそろそろだ、これで固まってるはず。」

「じゃああたし取り出すね!」

「ああ、頼む。」


 私は立ち上がってキッチンに戻り、森さんが渡した三つの型を受け取り、固まったオレンジキャンディを出し、包丁で均等に小さく切って、完成品にした。


 三つのキャンディは混ぜないでおこう、味が合わないといけないから。


「いただきます〜」

「ご飯かよ?」

「森、喉詰まらせないでね。君の作ったあれ、石より硬くないから。」

「うん、切っててわかった。」

「失礼ね!」


 森さんは自分の作ったキャンディを一口食べ、すぐに複雑な表情を浮かべ、このキャンディが美味しいかどうかは言うまでもない。


「水水……なんで……舌が削られる感じがする……それにすごく硬い……食感が最悪……」

「火加減が間違ってて、気泡が多すぎる。砂糖をまぶして食べろ。」

「アユ、俺のこれもすごく不味い……お前の食べていいか?」

「もちろん、どうぞ。」


 私は自分のキャンディを伏見に渡し、ついでに彼の作ったキャンディを一つ取って口に入れた。


「うん……」


 私は森さんを呼び寄せ、軽く頬をつまむと彼女は口を少し開け、その隙に伏見の作ったキャンディも森さんの口に入れた。


「うっ!すっぱい!伏見君レモン汁入れすぎ〜」

「だろ?不味いだろ?」


 伏見は軽く笑っただけだった。


「やっぱり、この十数年覚えていた味は実際は本当にひどかったんだ。」


 ☆☆☆☆☆


「気をつけて帰ってください。」


 伏見の家で約二時間ボードゲームをして遊んだ後、私と森さんもそろそろ帰る時間だ。


「またね〜」

「学校で会おう、伏見。森さん、走るな。」


 私たち二人は伏見に別れを告げて去ろうとした。


 そして次の瞬間……予言通り、事故が起きた。


【ガンッ!】


「ぐっ!」

「「森さん/森?!」」


 私と伏見は同時に叫んだ。


 玄関まで歩いた森さんは段差につまずいたようで、今は膝をついて足首を押さえていて、森さんの苦しそうな様子だけで怪我をしたかどうか判断できた。


「アユ、薬箱を持ってくる。」

「うん。」


 伏見の反応は遅くなく、すぐにトイレに薬箱を探しに行った。私は数歩で森さんのところに駆け寄り、彼女を起こし、怪我を確認した。


 おそらく痛みのせいで、彼女の体は自分を支えきれず、両腕を私の首に回し、耳元でささやいた:


「水水……痛い……」

「優しくするから、手を離して、見せて。」


 冷や汗をかいている森さんは珍しくおとなしく、普段と違って素直に協力してくれた。


 私はそっと森さんのソックスを脱がせ、ズボンの裾をめくって見ると、ほんの少しの間に足首が青紫色に腫れ始め、皮膚の表面には赤い点々も見えた、深刻だ。


「動ける?まずソファの上に支えてあげる。」

「無理だよ……」


 靭帯損傷か……


「背負って行くから、乗って。」


 私は二の句も告げず、すぐに森さんの前でしゃがみ、乗るよう合図した。


 森さんはうめき声をあげながらしがみつき、私は慎重に足首の近くを避け、足を支えて、彼女を安全にソファに下ろし、足をソファの肘掛けの上に高く置いた。


「アユ、薬箱持ってきた。」


 宝物を携えた伏見が急いで戻ってきて、薬箱を地面に置き、何が必要か尋ねた。


「足首の捻挫だ、氷枕あるか?」

「ある。」


 伏見の家の救急箱は私が今まで見たどの家庭の救急箱より大きく、中には何でも入っているようだった、羨ましい。伏見はどこからか使い捨ての氷枕を取り出した。


 私は氷枕を受け取り、内袋を破った、化学反応がすぐに袋内で起こり、内部の温度が急激に下がった。


 伏見は森さんに直接当てようとしたが、私は止めた、氷枕は直接当ててはいけない、少なくともタオルに包んでから当てる、これは重要な知識点だ。


 森さんに氷枕を当てた後、私と伏見は顔を見合わせ、次に何をすべきかわからなかった。


「アユ、赤チン塗る?」

「外傷ないよ?薬は効かないかも……でも試す?」

「実験台にしないでよ……」


 もちろん、これは冗談だ。伏見の救急箱には赤チンが入っていなかったからだ。あまりにも低級だからかもしれない。


「森さん、まずここで休んで、何か食べるものを用意してくる。」

「うん、もう少し冷やしたら病院に連れて行く。」

「水水、伏見君……急にすごく頼りになるね……」

「ずっと頼りになる。注意を二回も促されたのに走り回る人より頼りになる。」

「……(顔を背ける)」

「次はちゃんと足元見るんだぞ?」

「……うん。」


 森さんは本当に心配の種だ。狍子森。


 とにかく、彼女のこの様子では明日は外出できない、先に夏葉さんに伝えよう。


 ☆☆夏葉和枝☆☆


 ついに、週末が来た。


 水君は遠出を計画していて、中郡の大磯に行くと言っていたが、今日の私は小銭をたくさん持っていて、遠出なんて全く怖くない!たぶん。


 今日はわざわざ店の先輩がくれた古い服を着た、見た感じ安くないし、明らかに古くもない……とにかく佐先輩に本当に感謝している!


 それに、昨日水君が突然森さんが足首を捻挫したと言って、靭帯を損傷したらしい、後遺症を防ぐために三週間休むから今日は来れない……早く良くなるといいな。


 でも私たちの外出計画はキャンセルされなかった。


 午前中から雨が降っていたこの日曜日は不安だったが、幸い私が家を出る数分前にぴたりと止み、外出の余地を残してくれた。


 今日は神様が私を失望させない気がする。


 まず電車で大磯に行き、スマホのナビに従って水君と待ち合わせた場所に直行した。


 そのカフェは駅から遠くなく、十分も歩けば着く。


 頭の中でこれから見るかもしれない風景を思い浮かべていると、いつの間にか足取りも軽くなり、長い間抑えていた何かが突き破られたような気がして、気分がとても良かった。


 でも知ってる、これから起こりうるのは一日を無駄にして、何も学べずお金も稼げず、逆にお金を使うことだと。私にとって不利なことなのに?なぜ楽しみにしているんだろう?


 足取りは再び遅くなり、自分が欲望という感情に理性を奪われたかどうかを反省し始めた。


 多分天も私に考え続けさせたくなかったのだろう、まだ数歩も歩かないうちに、近くで子供の泣き声が聞こえた。


「はあ……」


 私はため息をつき、進路を一時的に変え、近くの公園に入った。ある木の下では、一、二年生くらいの子供が泣いていて、木の葉の下には白い風船が浮かんでいた。


 現実にこんなことあるんだ?


 風船が飛んで、木の下にちょうど落ちて、枝に刺さらず、持ち主は子供で、その子は泣き虫。こんな偶然が私に起こるなんて、私は変なところで幸運なんだ。


 その風船が引っかかった位置は高くなく、紐も長く、手を伸ばせば届いた、いわゆる挙手の労。でも空気は本当にたくさん入っていて、浮力が強く、子供が手を離したのも無理はない。


 飛んでいった風船が戻ってきたのを見て、子供は鼻をすすり、私にお礼を言った:


「ありがとう、お姉さん!」

「どういたしまして。坊や、風船で遊びたいなら紐を手に何回か巻いたり、室内で遊んだりした方がいいよ、そうしないと風船が飛んで行ったら困るから。」


 彼を見ると和弦を思い出す、可愛いな。


「でも!お姉さん、この風船は僕と遊びたくないみたいなんだ、どうしたらいいの?」

「え?どうして遊びたくないの?」

「お姉さん見て、ずっと空に行こうとしてる……僕と一緒にいたくないみたい……」

「そうか……」


 子供の思考はいつもこんなに不思議だ。ああ、むしろ大人になった私たちがつまらなすぎるんだ。


 これは風船が遊びたくないんじゃない、中の水素かヘリウムの密度が空気より小さいから――はあ……私はつまらなすぎる。


「じゃあお姉さんが風船に君のことを好きになってもらうようにするね?」

「え?できるの?あの黒い風船みたいに?」

「黒い風船?」

「あそこだよ、お姉さん見て!」


 彼の指す方向を見ると、少し離れた砂場に黒い風船が地面に落ちていた。違う、砂の上に。


「そう、あの黒い風船みたいに、地面に残って君と遊ぶんだよ。」


 あの風船は明らかに普通の空気で膨らませたものだ。


「それは……やっぱりやめる。」

「どうして?」

「だって……だって……」


 子供は困惑した表情で、自分でも何を言いたいのかわかっていないようだ。


「大丈夫だよ、理由がなくても。」

「違う!……理由はあるんだ……」

「そう?じゃあお姉さんは待つよ、考えがまとまったら教えてね。」


 彼は頭をかき、一分ほど考えてから、答えを出した。


「白い風船と黒い風船は違うんだ、遊びたくないなら仕方ない……ママが言ってた、みんな違うんだって……」


 この子のしつけは意外といいな?いい子だ。


「ママは、みんながパパみたいになれるわけじゃないって、だから自然のままがいいって……風船もそうなのかも……」


 パパ?ああの人?


 その時気づいた、この子の袖口に小さな警察のバッジがついていて、彼のさっきの言葉を合わせると、彼の父親の職業は想像に難くない。


「ママは人に何かを強制しちゃいけないって。この風船がどうしても行くなら、僕には何もできない……」


 この子の理解は少しずれているけど……全体としては正しい。


 すべての風船が空に飛べるわけじゃない……か?


「お姉さんわかった、変えなくていい、いい?」

「うん!」


 子供は興奮して同意し、私を説得できたことに喜んでいるようだ。


「お姉さん、決めたよ。飛びたいなら……飛ばせてあげる。」

「そう?」


 彼がぎゅっと握っていた手を離すと、次の瞬間、一筋の残像が風に乗って空へ舞い上がった。再び空を見上げると、白い風船が青い空に溶け込み、視界から消えていくしかなかった。


 ☆☆于徳水☆☆


 楽しみだ、今日の海辺の旅。企画者が来てないけど。


 もちろん、少し計画を変えればいい、遊びの計画を散歩して景色を楽しむだけにすれば十分だ。


 正直、日本に来て海辺の近くに住んでからも、人生で砂浜に行った回数は数えるほどだ。


 彼らと知り合ってから、初めて海に行ったのはパラオで、ずっと前に森さんとダイビングに行った時だ。二回目は森さんと伏見たちと大金久海岸に行き、珍しい白砂に遭遇し、とても満足した。


 今回は湘南海岸で待ち合わせた、これまた有名な観光地、きっと私を失望させないだろう。


 あまり想像を膨らませる前に、一つの愛らしい姿が目の前に現れ、思わずその人に目を奪われた。


 彼女はガラスの向こうにいる私に気づいていないようで、ただ前を見て歩いていた。


 それは夏葉さんだ。


 今日の彼女は定番のベージュのセーターを着て、ハイウエストのパンツと合わせると体のラインがとても柔らかく見えた。遠回しに言えば……可愛い。


 もしグレーのセーターだったら……


 私は自ら立ち上がって彼女を迎えに行かず、席でカプチーノを二杯注文し、夏葉さんの到着を待った。


 夏葉さんは店に入ると周囲を見回し、私の場所を確認すると、まっすぐに歩いてきた。


「すみません、水君、お待たせしました。」


 申し訳なさそうな笑顔を浮かべる夏葉さんが私に軽くお辞儀をした、完全に私にへりくだっている様子が目に痛い。友達らしくない。


 ……すみません、少し感情的になった。


「いいえ、コーヒーもまだ来てないし、私もちょうど来たばかり。」


 私は笑顔で返した。


「夏葉さん、今日の服すごく素敵です。」


 こう言うと「じゃあ前はダサかったの?」みたいな考えを抱かせるかもしれないが、言わなければ彼女に申し訳ない。


「あ、あ!ありがとう――水君!」


 幸い、夏葉さんの赤面して慌てた反応から、彼女はあまり深く考えていないようだ。


 こんな楽しい雰囲気の中で、私と夏葉さんは10分ほど雑談した、その間ずっと話題を提供し続け、会話が途切れて雰囲気が消えないようにした。


 カプチーノも飲み終わり、そろそろ時間だ。今日は海を見に来たのだから、カフェにずっといるわけにもいかない。


 そろそろ散歩に出よう。


 ☆☆夏葉和枝☆☆


 砂浜までの道は長くなく、途中で時折車が私たちとすれ違うが、ただ慌ただしいだけだ。


 それとは反対に、私のそばの時間はまるで停滞しているようで、私と水君の歩調は一致し、並んで歩いているが、足音以外は何もない。


 もしもし?聞こえる?私たち、テープが詰まってるみたい?


 多分さっきカフェで水君が話せる話題を全部話し尽くしたか、私の反応が淡白すぎて自信を失ったか、とにかくこの沈黙はあまり好きじゃない。


 自分から話しかけてみる。


「あの、水君……」

「はい、どうしました?」

「猫……好きですか?」


 まずい……明らかに気まずい質問をしてしまった……沈黙を破ろうとする意図が明らかすぎる……


「もちろん好きです、近々飼おうと思ってるんです。」

「え、それはいいですね。」


 ……?


 私は何をやってるの?


 水君が無理にこの話題を受け入れ、話を続けるきっかけをくれたのに、どうしてこんなに簡単に済ませた?私はバカ?


 自分が役立たずだと落ち込んでいると、水君がまた話し始めた。


「もう海が見えますね、本当に近い。森さんが来られなかったのは残念です。」


 そう言いながら、彼はため息をついた。


 多分無意識だろう、水君の足取りが少しだけ速くなった。


 なぜか、彼の背中が目の前に現れると、私は立ちすくみ、一言も言えなくなった。


 ☆☆于徳水☆☆


 うん、どう言っても秋だ、海辺で海風を思う存分享受できる、この涼しさは思わず驚嘆してしまう。夏はいつ去ったんだろう。


 しばらくすると、夜になれば、ここは陸風が海へと吹くだろう?人を暗い海へと吹き飛ばす風の方がかっこいい気がする。


 ……何を考えてるんだ、今日はただ景色を見に来たんじゃない、どうして遊び始めた。


「夏葉さん。」

「は、はい!」


 堅苦しくなくていいのに。


「森さんが、貝殻をお土産に持ってきてほしいって言ってたんです。夏葉さんも一緒にお願いできますか?」


 これは本当だ。


「わかりました。では水君、森さんはどんな貝殻が欲しいんでしょうか?」

「それは言ってない、自分たちで選ぼう。」


 夏葉さんは少しやる気が出たようだ、貝殻を拾うことをなかなか体験したいみたい。ありがとう、森さん。


 さっそくやろう、ちょうど近くに誰もいないから、思う存分やりたいことができる。


 うん、高校生二人で貝殻を拾うのはちょっと幼稚すぎる。誰もいなくてよかった。


「おっと、幸先良い。」


 多分神様も私のことを気にかけてくれてるんだろう、私たちがズボンの裾をまくり始めたばかりなのに、足元に一つ見つけた。


 これはアカガイで、刺身でも炒めても美味しい。


 もちろん、これは私には関係ない。貝殻だけだから。


「私も負けられませんね。」


 夏葉さんは私が成果を出したのを見て、刺激されたようで、口調は相変わらず淡々としているが、足の動きは明らかに速くなった。


 でも私は今回の主目的を忘れず、その場に留まって貝殻を探さず、夏葉さんに追いついて、話しかけた。


「夏葉さん、この砂浜は広いから、離れると寂しい気がする、一緒に歩かない?」

「うんうん、その気持ちわかります、一緒に行きましょう。」

「夏葉さんは本当に優しいですね。」


 彼女の競争心が強くなくてよかった、彼女のそばにいられた。もし森さんだったら、今頃誰がたくさん見つけられるか騒ぎ立てて、一緒にいるのを許さないだろう。


「優、優しい?!水君、私まだ何も……」

「話し相手になってくれたら助かるよ。」

「え……そういうことなら……試してみます?」


 よし、計画通り。まず夏葉さんと何か話して、それから自然に話題を彼女に持っていく。


 もちろん、本当に貝殻を拾わないわけにはいかない、何も持たずに帰れば、森(もり)が暗い森(くもり)になるから。


 ☆☆夏葉和枝☆☆


「え、水君、この貝すごくきれい。」

「見せて……夏葉さん、これはパウンペリー貝、四大名貝、君の腕前すごすぎない?」


 これで六つ目の貝殻、貝殻はそんなに難しくないな、こんなに短時間でこんなにたくさん。


 実際には特にコツはなく、ただ波が砂をさらっていくのを待ち、露出した貝殻を拾うだけ。


 わざわざ遠くの海まで貝殻を拾いに行くのは変な気がするが、水君が何も言わないなら、余計なことは言わない。


 ちょうど背伸びをしようとした時、水君が近づいてきて、私の考えを止めた:


「夏葉さん、そろそろ休もうか?」

「え?ああ、はい。」


 水君の収穫を見下ろすと、二人で十数個もあって、結構多い。ふふん、私の方が多いみたい。


 貝殻はこんなに簡単に拾えるんだ、これには価値があるらしい、これで一攫千金も夢じゃない?……冗談。


 水君はすべての貝殻を丁寧に小箱にしまい、蓋を閉めるのを見た時、少し誇らしい気分になった。


 森さんがこの貝殻を見て喜んでくれるだろうか?


 そう期待した。


「夏葉さん、早く服を下ろして、風邪ひくよ。」


 水君のこの声で、私はまだ服を元に戻していないことに気づいた。今日は長袖のセーターに長ズボンだったので、ずっとまくり上げていた状態だった、早く戻そう。まず袖を、それから……


 ……うえっ?


 再び地面を見下ろした時、海水がちょうど引き、視界の薄い砂の層を一瞬でさらっていったが、砂は動いておらず、私が急に後ろに――


 ――(バタッ!)倒れた……


 ☆☆于徳水☆☆


 え??夏葉さんが突然転んだ??何が起きた??


「夏葉さん、大丈夫?」


 ☆☆夏葉和枝☆☆


 転んだ後、目まいがして、一瞬意識が飛び、思考が戻った時には水君に支えられていた。


 ……恥ずかしい。


 周囲の移動でバランスを崩して、平らなところで転ぶなんて、今水君の心の中では私を笑っているに違いない……だって本当に笑えるから……


「うん……夏葉さん、あそこに岩があるから、そこで着替えて。」


 ……ん?


 水君がいつ長袖のシャツを脱いで私に渡したのか、その時になって気づいた、さっき海水に転んだせいで、私のセーターは今水をたっぷり吸い込んでいた……


「ここにティッシュもあるよ。」

「本当にすみません!ありがとう、水君。」


 この服を着続けるわけにはいかない、私は穴があったら入りたい気持ちで水君の好意を受け取り、その場でお辞儀をして、一目散に水君が指した岩の後ろへ逃げた……


 脱いだセーターは40〜50%が濃い色に変わり、水君が私より先に気づいたのも無理はない……


 はあ、やっぱりね。


 貝殻拾いの運が良かったから、どこかで取り戻されて、恥をかかされる、これが私だから。


 私はゆっくり着替えながら、今日の流れを振り返っていた。


 …………今日の私のパフォーマンスは最初から最後まで良くなかった、今は水君に迷惑をかけた、彼は私のことを嫌いになった?……


 本当に嫌だ。


 ☆☆于徳水☆☆


 二、三分経ったか、私の上着を着た夏葉さんが落胆した顔で岩の後ろから出てきて、腕に濡れたセーターをかけ、手には使い終わったティッシュを握っていた。


 朝雨が降って少し寒かったから上着を二枚着ててよかった、そうでなければ変態露出狂になるところだった、助かった。


 今日……会ってからまだ30分しか経ってないけど、夏葉さんが濡れたのは上着だけでなく、海辺は特に湿っている……ここで解散しても構わない。


 続けるとしても、海辺にはもういられない。


 散歩を始めてほんの少しで事故が起きるなんて?猫や鉢植えの話に持っていく暇もなかった……


 少し失敗した、次は頑張ろう。


 心の中でこっそりため息をついていると、意外にも夏葉さんがうつむいて私の方に歩いてきた。


「水君、私のパフォーマンスはひどかったですか?」


 え?どういう意味?転んだだけじゃない?


「……」


 夏葉さんはまっすぐに私を見つめ、答えを聞かなければならないようだった。


 海風が彼女の顔を撫で、髪が風になびくが、彼女の落胆した目を隠せない。憂いが眉間に満ちているが、普通を装おうとしているのがわかる。


 多分彼女の言いたいことがわかった。


 彼女は本当にこういうひどい質問をするのが好きだ。


「パフォーマンスなんて……そんな言葉は傲慢すぎないか?」


 私は間を置き、夏葉さんの手からティッシュを取り上げ、ポケットからウメキャンディを一粒取り出し彼女の手に置いた。


 森さんは甘いものが大好きで、様々なキャンディを持ち歩くのが私の習慣になり、様々な場面に備えている。


 彼女が聞きたいことがわかっているが、私は話題をそらすことを選んだ。会話の主導権は渡さないよ、夏葉さん。


 聞きたいことは、自分から聞いてくれ。


「私は――……」


 言葉は半分で、夏葉さんは突然止まり、言いたいことを我慢した。やはり、彼女は一時の衝動で言ったわけではない。


【可愛森から電話です〜無敵可愛元気森の電話です〜】


 なにー?!なぜこんな時に――――


 この専用着信音はある時森さんが無理に設定させたもので、素材は彼女が自分で録音したもので、当然甘えたような口調が入っている……こんな雰囲気で……ああ……人生終わった……


「……大丈夫です、先に出てください。」


 感情が高ぶるのをこの電話が遮ったせいか、夏葉さんは辛そうに口を開いた。


 森さん――――


 ☆☆森千穂理☆☆


 私、千穂理、ベッドに寝たきりで自由に動けない哀れな身、孤独に耐えられない!


 伏見君を呼んで一緒に遊ぼう!だって今日水水は用事があるし、多分今は海辺で夏葉さんと青春を謳歌してるはず。ふん。


 ……あら、間違えた。かけたかったけど、やっぱり切ろう――


 ――え、水水が出た!嬉しい〜ついでに水水と少し話そう。


「于徳水です。」

「変な自己紹介!」

「森さん、君のこと嫌いだ。」

「急に!?なんであたし嫌われたの!?」

「……別に。用件は?」

「えへ、間違い電話〜」

「………………森さん、君のこと嫌いだ。」


 変だ、水水の声が岸に打ち上げられた魚のように絶望的に聞こえる、気のせいかな?


 ……でも彼の声を聞くと、安心する。


「水水〜」

「……何か用か?」

「用事じゃないと断られる?悲しい〜」

「とにかく早くして。」

「うんふん……あたしの部屋ががらんどうでさ、超寂しい。」

「そこががらんどう?……とにかくわかった。」


 実は水水に早く帰ってきてほしかったけど、我慢した!千穂理、分別ある!


【千穂理】と読み、【借りてきた森】と書く!


「それにそれに、あたしもあそこの海が見たい〜」

「あとで写真送る。」


 通話終了。


 あそこの海はどんな感じなんだろう〜よし、とにかくそれは置いといて、早く伏見君を呼んで遊ぼう〜


 ☆☆于徳水☆☆


「ご覧の通り。人生はこういう風に様々なハプニングが起こるんだ。」


 私は死んだ魚のような目で、無表情に夏葉さんに説明した:


「絶対に俺が設定したんじゃない、俺も被害者だ。」

「猫に小判ってやつか……」

「何?」

「いえ、何でもない。」


 夏葉さんはさっき何か呟いたようだが、聞き取れなかった。


 ……でも彼女の目つきを見ると、夏葉さんは何かに気づいたようで、熊吉がウサ美に睨まれたような感じがする、怖い、やっぱりこれ以上聞かないほうがいい。


「だからさ、誰だって小さなハプニングはある?そんなに気にしなくていいよ。」


 あんな着信音を聞かれた方が社会的に死んでいるけど。


 夏葉さんはさっきの着信音に笑われたのか、顔に少し笑みを浮かべた。死んだ甲斐があった。


「水君と私は違う。それにあれは森さんが気にかけてくれたんでしょう?誇れることですよ。」


 気にかけて?感じないね。でもこの小さなことより、前の言葉の方が間違っている。


「私たちのどこが違う、夏葉さん?」

「……え?全然違いますよ。」


 夏葉さんは私を不思議そうに見つめ、目には疑問が尽きず、心底そう思っているようだ。


 彼女の目に、この世界はどんな風に映っているのか、とても興味がある。


「具体的にはどこが?」

「あなたは誰かのために尽くす価値があるし、努力を続ける心も、それにあなた自身の性格……どれも素晴らしいです。そんな素晴らしいあなたは、当然たくさんの良きものに満たされるべきです。」


 言外の意味も明らかだ、彼女は自分に価値がないと思っている。


「夏葉さん、本当に自分と私が違うと思っているのか?否定的な意味で?あなたは多くのものに値しない?」

「……ええ……そうかもしれません。」


 聞き覚えがある。


 ある人は他の人より価値があり、優秀さで一人の人間としての資格を判断する……こんな言葉を誰かから聞いた。その時は認めなかった、今も認めない。


 こんな言葉が嫌いだ。とても嫌いだ。


「夏葉さん、愛されるに値しない人がいるのか?それとも気にかけられるに値しない人が?」

「あなたは優しさを持ちながら、それを臆病に変えてしまった。あなたはとても努力しているのに、すべてを天のせいにする……あなたはそんなに強いのに、自分の長所を無視する!」


 世の中にそんな理不尽なことがある?


 夏葉さんは私の突然の早口を聞いて、思わず呆然とし、口をわずかに開けたが、まったく音を立てなかった。


 私は言えば言うほどイライラした、夏葉さんは私たちと接するたびに自分を一段低く見てしまう、友達同士の尊重と礼儀は美徳だが、決して恭しいものであってはいけない。


 私は夏葉さんを嫌ってはいないが、彼女のこの付き合い方や考え方に合わせるつもりもない。


「人のために尽くすと言えば、あなたも熱心に私の勉強を指導してくれたし、他人の目を気にして不快にさせないようにもしてくれた。時間も労力もお金も惜しまず、私たちのふざけに付き合ってくれた。」

「性格だって、あなたも人に非常に親切で、私たちと似ていなくても、新しい友達として私たちを受け入れてくれた。他人を優先的に許す性格、優しすぎるよ?」

「それに努力、一人で揚霊学園に合格し、バイトで一人暮らしできる夏葉さんは、どう考えても私たちより頑張ってる。」

「もし怠け者の私でさえも良きものをたくさん得られるなら、あなたが得るに値するものは絶対に私より――」

「あなたはすごいんです!」


 夏葉さんは私の言葉を遮った。


「水君は森さんみたいな活発な人とも親友になれるし、伏見君みたいな一人でいる人とも親友になれる、全く違う二人があなたのおかげで一緒にいられるんです!」


 ☆☆伏見と夏葉のチャット履歴☆☆


【不染:森と知り合ったのは、完全にアユのおかげだ】

【不染:だから私たちの関係を語るなら、アユを避けては通れない】

【夏場:ちょっと興味あります】

【不染:とにかく私たちは恋人じゃないし、恋人にはなれない】

【不染:森とアユは隣人で、私は入学後にアユと同じクラスになった、これが知り合った順番】

【夏場:引っ越して隣人と親友になるなんて、運命みたいですね】

【不染:運命?はあ〜それはせいぜい神様がアユに少し試練を与えたかっただけ。まったく正しくない】

【夏場:え?】

【不染:森の性格……以前の彼女は人形みたいだった?行動が杓子定規で】

【夏場:森さんは明るそうなのに……】

【不染:今はね、昔はご飯を何口で食べるかまで計算してた、ロボットとの違いは図の中で全部の街灯を選べるかだけだった】

【夏場:なぜそんなことを?】

【不染:それはね……】

【不染:とにかく、森はアユと友達になってから、十数年抑えていた感情を全部爆発させたみたいで、すごく騒ぐ。入学したばかりの頃、アユは結構手を焼いてた】

【不染:むしろ彼を尊敬してる……森みたいな感情爆発の人と付き合いながら、同時に私とも付き合って、二つの全く違う性格に同時に対応できるなんて】

【夏場:付き合ってる?】

【不染:お付き合いだよ!】


 ☆☆☆☆☆


「みんなあなたに憧れている!誰もが心の中であなたのことが好き!」


 ☆☆伏見と夏葉のチャット履歴☆☆


【不染:いや、アユは割と人気のあるタイプだ】

【夏場:やっぱり……でも水君はたまに自分は普通だ、友達が少ないって言うのはなぜ?】

【不染:うん……彼は森と近すぎる、森は社交界の中心人物だから、みんな自然に彼に少し……夏葉さんもわかるでしょ】

【不染:でも、本当に嫌われてるわけじゃない。同級生として断言する】

【不染:深く付き合ってる人は多くないけど、誰にでも気配りができて、何かあったら助けに行くし、学園祭みたいなイベントでもたくさん貢献したし、ついでに大活躍した】

【不染:人柄も良く、性格も温厚で、あまり積極的に社交しないけど、できる人間だから嫌われない】

【夏場:わかります!】


 ☆☆☆☆☆


「それにあなたのそばの人は皆、あなたが優秀で、あなたなしではいられない、あなたを必要としているって知っている!でも私は違う!水君は私よりずっと優秀だ!私があなたと並べるわけがない!」


 ☆☆伏見と夏葉のチャット履歴☆☆


【不染:彼と別れる?】

【不染:いやいや、そんな考えあるわけない】

【不染:宇宙に行かないのは、行けないからじゃなく、自ら重力に足を引っ張られ、この広くない地球に留まることを選んだから】

【夏場:ロケットはそもそも選択肢にない遠いものだけど……伏見君の言いたいことはわかりました】

【不染:え?遠い?】

【夏場:……え?】


 ☆☆☆☆☆


「誰が彼らが私なしではいられないって言った?私がいなくなったら周りの友達は何もできなくなるんだ。」


 私はすぐに夏葉さんに反論した。


「私はただ誰かに支えてもらう必要がある普通の人間だ、比べるも何もない、私たちは同じだ。」


 彼女の感情はまだ高ぶっている、夏葉さんは涙を浮かべ、目には信じられないものが詰まっていて、再び口を開いた:


「なぜあなたたち優秀な人はいつも自分と他人に違いはないって言うの?!本当に私たちの間の差が見えないの?あの越えられない溝が?」

「事は人の為すところ、あなたも続けさえすれば――」

「違うんです!」


 夏葉さんの怒りを含んだ声を聞いて、私はようやく、私の幸福の中にいる行為が、すでに蔦となって彼女の首に絡みついていることに気づいた。


 彼女を引き寄せ縛りつけているもの、吊るして刺激しているものは、実は私から来る無形のプレッシャーだったのか?


「忍耐力も忍耐も性格も!……私までわがままに叫んでるのに、あなたはまだ穏やかに話してる、あなたみたいな人は……」


 夏葉さんは途中で声を失い、口調も怒りから悲しみに変わった。


 誰にも似なくていい。


 夏葉さんの手の中のウメキャンディの包装はよく開けられ、私はそれを開け、夏葉さんの口元に持っていくと、彼女は無意識に口を開けた。


「酸っぱい?」


 考えが遮られたせいか、夏葉さんは一瞬呆け、答えを出した:


「……酸っぱい。」


 私はもう一つウメキャンディを取り出し包装を開け、白く丸いキャンディを露出させ、美味しそうに見えた。


「見えるところは優秀に、見えないところは見えないまま、簡単だろ。」


 次の瞬間、私はキャンディを自分の口に放り込んだ。


「私だって君が思うほど長所ばかりじゃない、ただ欠点が見えていないだけ。」

「……それでも羨ましい長所はたくさんある。」

「でも君もそうだろ?それに、酸っぱいキャンディも素敵だよ?」

「他の人と比べて、私は――」


 でも私はこんな君が好きで、こんな君を助けたい。


 君と接して、君への好感はますます深まった。強さや努力や優しさは私の特質ではなく、君のものだ。一人でここまでできるなんて、本当にこれまで考えたこともなかった。


 認めるよ、最初はただ君が私の友達に似ているから助けようと思った。でも今、理由なんてそんなに必要ないと思う、君が君で十分だ。


 私は夏葉さんの肩を支え、そっと彼女を海の方向に向けた。


 青く深い海は、憧れの広い空に溶け込もうとしているようで、碧波が揺らぎ、きらめく;静けさは罪のようで、一度足を止めれば、青空とは永遠に縁がなくなる。


 でもそれで海が空に劣ると思う人がいるだろうか?


 海天一色。


 ☆☆森千穂理☆☆


「おや?」


 水水が写真を送ってきた。


 興味津々で赤い点を開けると、中には私が水水に頼んだ海の写真があった。


 写真の隅に水水と夏葉さんが立っていて、写真の主役はもちろん美しい海だった。


「通行人に撮ってもらったのかな?」


 私は小声でつぶやいた。


 意外にも、この写真の雰囲気がとても美しく、プロの風景写真としても問題ないほどだった。


 海の果てでは、天と海が一つになり、私はその青の中で境界線を引くことさえできず、混沌と虚無が一体となり、少しの隔たりもなかった。


 ☆☆夏葉和枝☆☆


「海天一色……か……」


 彼が返事をしなかったが、ただまっすぐに海を見つめているだけでも、彼が私に伝えたいことがはっきりとわかった。


「私には無理」なんて言えなくなった、心に何かが増えた気がするから。


 ゆったりとした青色が、元は灰色だった心を塗りつぶした。広い天と海が、元は空洞だった心を満たした。


 温かさが心に染み込み、盗んだ愛がこの黄金の砂浜を満たし、不安な魂も青空の中に消えた。


「夏葉。」


 彼は私の肩を叩いた。


「ちょっと寒いな……戻ろうか?」


 ああ、彼は今は薄いTシャツ一枚で、彼の長袖は私が着ている。


「うん……じゃあ行こう、水。」


 彼がそう呼びたいなら、そうしよう。代わりに、私もそう呼ぶ。


「そうだ、夏葉、ついでに花屋に寄らない?」

「突然?」


 でも私は行く。


 ☆☆于徳水☆☆


 何の花を買おう?


 森さんは自分の部屋が空っぽだと言ってたから、やっぱり花を買って飾ってあげた方がいい。


 そういえば今日は夏葉に花や植物や猫を育てさせたかったんだっけ?


 まあいい、今日は十分に順調だった、わざわざこれにこだわる必要はない。


 花屋に入ると、熱心な店員さんが迎えに来て、花々の香りが一気に鼻に飛び込んできた、怖い。


「いらっしゃいませ、半夏花屋へようこそ〜」


 素敵な名前だ。


「お二人様でいらっしゃいますか?」

「ええ、そうです。」


 私はうなずき、夏葉を連れて花屋をぶらついた。


 花屋の花はなぜこんなに香りが強いのか?家庭で育てるのや路地のは香りが薄いのに。


「水、どうして急にここに?」


 夏葉の声はとても小さく、この静かで穏やかな環境で音を立てるのが怖いようだ。


「森さんに飾る花を買いに。」


 あの女性店員はゆっくり後方に付いてきていたが、私の夏葉への答えを聞くと、すぐに近づいてきた。


「こちらのお客様、女性に花を贈られるんですか?」

「ええ、鉢植えで、場所を取るくらい大きくてきれいで、育てやすいのがいい。」

「場所を取る……?ご要望が珍しいですね……ではこちらペチュニアはいかがでしょうか?成長が早く、花数が多く、色鮮やかで、吊り鉢にもできます。」

「夏葉、どう思う?」

「え、えっ?!すみません……私は詳しくなくて……」

「あ、大丈夫。じゃあまずペチュニアを二鉢ください。他におすすめは?」

「はい〜他のおすすめですが、何歳の女性に贈られるんですか?」

「高校生。」

「ああ〜……とにかくまずバラの花束はいかが?定番ですが、女性はこういうのに弱いんですよ?」


 まず花束を贈るか……


 確かに、遅れて効果が出る育成型より、完成品の方が喜ばれるだろう。


「じゃあまず一束――」


 私はバラの花束を買おうとしたが、ふとガラスの向こうの公園にある何かに目が留まった。


「――すみません、ヒマワリの鉢植えも一つください。」

「はい〜お役に立てて光栄です〜」


 私たちが花屋を出た時、私と夏葉はそれぞれ小さなギフトボックスを持っていた。


 私が持っているのはペチュニア、彼女の箱にはヒマワリがもう一つ入っている。


 これは私が疲れたから彼女に持ってもらったわけではなく、あの二鉢は私が彼女に贈ったものだ。


 過程はシンプルで、ほとんど抵抗もなく、夏葉は少し驚いただけで、赤くなって喜んで私の好意を受け入れた。


「水、どこに行くの?」


 私が道の向こう側に行こうとするのを見て、夏葉は私を呼び止めた、帰りの電車はそっちじゃない。


「買いたいものがあるんだ。一緒に来る?」


 ☆☆☆☆☆


「森さん、ただいま。」

「アユ、なんで『ただいま』なんて言うんだ?」

「おかえり〜水水〜」

「森、その呼び方もおかしいぞ?」


 なぜか、私が森さんの家のドアを開けた時、伏見の声が聞こえた。意外だ、彼はめったに私たちの家に遊びに来ない、大抵は私たちが彼の家に行く。


「吊り鉢だ、遊びで育てて。」


 私は適当にペチュニアをテーブルに置いたが、森さんから強い抗議が来た。


「水水!そこに置いたら画面が見えないよ!」


 ああ、さっきゲームしてるのに気づかなかった、ごめん。


 埋め合わせに、もう一つの紙袋を開けた。


「お土産だ。」


 中には切ってないリンゴ飴と、地元のスナックやデザート、生ジュースが入っている。リンゴ飴は森さん専用。


 貝殻は洗わないと渡せない。


「え〜吊り鉢まで買ったのに、お土産はキャンディ〜?花は〜?」


 森さんは腕を組み、体を少し横に向けて目を閉じた、私を見たくないみたい;時々こっそり見てくる、何か暗示してるみたい。


 伏見はシンプルで、目はまだ画面を追いながら、片手でジュースを開けて飲んだ。おい、片手だけでゲームできるのか?


「ありがとな、アユ。ちょうど喉渇いてた、助かった。」


 ふん、態度の差が歴然……冗談だ。


 私は笑い、手に持ったリンゴ飴を森さんに渡した:


「バラを買おうと思ったけど、考え直した、リンゴ飴も悪くない。」

「ふん〜」


 不機嫌そうな森さんはリンゴ飴を受け取るとすぐに一口かじった。


「……まあいい、大丈夫、リンゴ飴も赤いし。」


 受け入れてくれるならそれでいい。


 私は少し伸びをして、冷蔵庫からジュースを取って休もうとしたが、森さんが言っていたあの炭酸水が冷やされているのを見つけた。彼女に味見すると約束したから、今日はジュースはやめておこう。


「…………おい、これが炭酸水か?カクテルじゃないか?」

「え?お酒?知秋お姉さん言ってなかったよ?」

「向さんが持ってきたのか?見せて……これは家で飲むための調合ドリンクだ、アユ、美味しいだろ?」


 確かに美味しい、それに酒の味はほとんどしない、冷やすとほとんどわからない、だからもう一缶開けた:


「うん、結構美味しい。何度?このパッケージに字がない、絵だけ?」

「文字を印刷するのは安っぽい感じがしない?売りに出さないから。君が飲んだオレンジ味は42度だと思う。」

「プッ――」


 ☆☆夏葉和枝☆☆


「……ただいま。」


 今日は早く帰ってきたので、ついでにバイトをした。終わって、再び自分の家に戻った。


 ここでこの言葉を言うのは初めてだ。もちろん、言っても誰も返事はしない。


 私はこの空っぽの部屋を見つめ、何も変わっていないように感じられ、静けさが息苦しかった。


 でも知っている、これは錯覚だ。


【カチッ!】


 私は電気をつけた。窓辺に行き二鉢の花を丁寧に置き、すぐに立ち去ろうとした。


 これは窓辺で振り返る何千回ものうちの一回に過ぎないはずだったが、今回は振り返る直前、何かが目に入り、体が無意識に止まった。


 ……今日は意外な発見があった。


 夜の闇と灯りが照らす街は美しい。

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