【十九節.見知らぬ記憶】
真理弥村に鐘が鳴る。
地獄の『夜』が、また始まる。
マコトの罪を知らせる鐘の音が、また──。
◇
ごーん。
白かった冬の空は加速度的に暗くなり、十秒も経たないうちに赤黒く焼け爛れた。
風は台風のような唸り声をあげ、ただでさえ寒い空気を、それすらひと撫でで凍りつかせる程の、凍てつく暴風が吹き荒れ始める。
その中で舞い始めた氷の結晶は、まるで石礫を叩きつけているかのような勢いで頬を打つ。
空を飛ぶ無数のカラス達は、世界の終末を知らせるかのごとく鳴き続け、その悲鳴が絶望と暴力となり暗い空を満たす。
マコトは、今が夏だということを、否が応でも忘れさせるような力が働いているのを感じている。
『マコトくん、こっち』
二人は、安全だと思われる旅館・まりやに向かって、急ぐ。
今の所、この地獄の底で唯一、魔女の手が届かない聖なる領域だ。あの明かりの下に辿り着くことが出来れば……!
かかっ。かかっ。
『夜』になり、何処からか、硬い爪のようなモノが地面を蹴る音が聞こえ始めた。ちょうど、犬が舗装された道を駆けている時のような、乾いた音だ。この音には聞き覚えがある。そう──。
──人形、だ。
あの球体関節で出来た殺人人形が、四つ足で駆け回っているのだ。既に、獲物を補足して行動を開始している。もちろん、獲物は言うまでもない。ここにいる二人だ。
かかかっ。かかかっ。かかかっ。
それは、徐々に数を増して、そして確実に近付いている。マコトとヒナの命を、刈り取る為に。
『マコトくん、急いで』
村の中央の通りは、膝までの深い雪に覆われており、足を取られて上手く走れない。夏物のスニーカーは既にびしょ濡れ、足先が冷えて痺れて感覚がない。
そんな中でもヒナが先を走る。こんな雪の中でも、彼女はまるで雪が見えていないかのように走るのだ……が、マコトはというと、凄まじい頭痛のため、まっすぐ走れないどころか、よたよたと歩くことすら困難を極めた。
『ちょ、ちょっと待って……頭が……』
ごーん。ごーん。
目が回る。吐き気がする。鐘の音は、まるで脳を金槌で打つかのように揺さぶった。
ただの頭痛ではない。マコトには分かるのだ。痛みが、意志を持って語りかけてくる。
──思い出せ。お前の罪を。思い出せ、と──。
ごーん。ごーん。
「うぷっ」
げえええっ。
余りの頭の痛みに、その場に蹲って吐いてしまう。
「はあっ、はあっ……うげえっ」
何も食べていないから、胃液だけがせり上がってくる。雪に、不快な斑点を描かれてゆく。それでも、止まってはくれない。何度も、何度も吐いた。
「マコトくんっ」
ヒナが何メートルか進んで恋人の異変に気づき、戻ってきてくれた。
「しっかりぃ!」
そして手話ではなく『口で』必死に声をかけながら、肩を貸して何とか立たせる。
「いそいで、ビスクがくるっ」
──ビスク……?
ビスクという言葉は初耳だ。人形の事だろうか。それなら、マコトも人形達のゾッとするような量の気配を、そこかしこから感じてはいる。
ただ、動けない。どうにかなりそうな痛みの所為で。
ごーん。ごーん。
かかかかっ。かかかかっ。かかかかっ。かかかかっ。
がくん、とマコトは膝から崩れ落ちる。
もう、人形達はすぐ後ろまで迫っている。
が、彼はもう一歩も動けない。
「マコトくん、たっえ、たっえぇ!」
どうしようも無いのだ。余りに、余りに痛くて、痛くて。
目の前がぐらぐらと揺れて、心臓の鼓動と共に、痛覚が感知する激痛を彼の脳髄に送り込んでくるからだ。故に彼は、もう立ち上がることすら出来ない。
そして、遂に人形のうちの一体が追いつき、爪を高く振り上げ、襲いかかってきた。五本の指から生えた十五センチ以上の長さの爪が、マコト目掛けて振り下ろされる。残酷なことに、マコトは今、蹲っていて無防備だ。
もうダメだ──っ!
そう確信した時。
◇
『あのね、お腹の中にね、赤ちゃんがいるの』
◇
「えっ」
気が付くとヒナが手を広げて、人形たちとマコトの間に立っていた。
そして。
数十体は居るであろう人形の大群は全て静止しており、最前列の固体は爪を振り上げたまま、ゼンマイが切れたかのようにぴくりとも動かない。
ヒナも目をつぶっているらしく、顔を横に背けて手が震えている。
そこにいたモノたちはそのまま、時間にしておよそ十秒停止していた。
──この世でいちばん長い十秒であった。
その後、静止していたそれらの人形たちは、向きを変え、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
『はぁ、はぁ。……今の、なに?』
マコトは尋ねた。さっき聞こえた声について、だ。
聞き覚えのある声であった。けれど、誰が言ったか、思い出せない。
『ヒナにもわからないの。どうしてかな?』
『いや、そうじゃなくて……まあ、いいや』
『?』
マコトは恋人にすら伝わらない言葉にもどかしさを感じるものの、頭痛と、見知らぬ記憶の前では思考がどうしてもまとまらないのであった。
◇
『さ、行こう』
『すまない』
人形たちが居なくなった真理弥村の通りで。
ヒナがマコトを助け起こす。そっと。優しく。
「あはは」
「? どうした?」
『マコトくん、いつも謝ってばかり』
愛しい恋人が、声に出して笑う。マコトも、声に出して聞いてしまった。
そんなに、謝っていただろうか。身に覚えのない事に、マコトは首を傾げた。
『うん。いつも謝ってるよ』
マコトの首の動きは、見透かされていた。
『俺、そんなに謝っているっけ?』
『ほら、今も』
『?』
何かの謎かけかと思って聞いていると。
『頭が痛むでしょ。それはマコトくんの心の中でごめんなさいしている声なの』
『俺の……心の悲鳴……』
『ふふ、やっぱりマコトくんは忘れん坊さんなの』
そう伝えると、マコトが心の底から愛する女性は、マコトから手を離し、雪の中でスキップして歩いた。
まるで雪が見えてないみたいに。
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