【十九節.見知らぬ記憶】

 真理弥村に鐘が鳴る。

 地獄の『夜』が、また始まる。

 マコトの罪を知らせる鐘の音が、また──。



 ごーん。


 白かった冬の空は加速度的に暗くなり、十秒も経たないうちに赤黒く焼け爛れた。

 風は台風のような唸り声をあげ、ただでさえ寒い空気を、それすらひと撫でで凍りつかせる程の、凍てつく暴風が吹き荒れ始める。

 その中で舞い始めた氷の結晶は、まるで石礫を叩きつけているかのような勢いで頬を打つ。

 空を飛ぶ無数のカラス達は、世界の終末を知らせるかのごとく鳴き続け、その悲鳴が絶望と暴力となり暗い空を満たす。

 マコトは、今が夏だということを、否が応でも忘れさせるような力が働いているのを感じている。


『マコトくん、こっち』


 二人は、安全だと思われる旅館・まりやに向かって、急ぐ。

 今の所、この地獄の底で唯一、魔女の手が届かない聖なる領域だ。あの明かりの下に辿り着くことが出来れば……!


 かかっ。かかっ。


『夜』になり、何処からか、硬い爪のようなモノが地面を蹴る音が聞こえ始めた。ちょうど、犬が舗装された道を駆けている時のような、乾いた音だ。この音には聞き覚えがある。そう──。


 ──人形、だ。


 あの球体関節で出来た殺人人形が、四つ足で駆け回っているのだ。既に、獲物を補足して行動を開始している。もちろん、獲物は言うまでもない。ここにいる二人だ。


 かかかっ。かかかっ。かかかっ。


 それは、徐々に数を増して、そして確実に近付いている。マコトとヒナの命を、刈り取る為に。


『マコトくん、急いで』


 村の中央の通りは、膝までの深い雪に覆われており、足を取られて上手く走れない。夏物のスニーカーは既にびしょ濡れ、足先が冷えて痺れて感覚がない。

 そんな中でもヒナが先を走る。こんな雪の中でも、彼女はまるで雪が見えていないかのように走るのだ……が、マコトはというと、凄まじい頭痛のため、まっすぐ走れないどころか、よたよたと歩くことすら困難を極めた。


『ちょ、ちょっと待って……頭が……』


 ごーん。ごーん。


 目が回る。吐き気がする。鐘の音は、まるで脳を金槌で打つかのように揺さぶった。

 ただの頭痛ではない。マコトには分かるのだ。痛みが、意志を持って語りかけてくる。


 ──思い出せ。お前の罪を。思い出せ、と──。


 ごーん。ごーん。


「うぷっ」


 げえええっ。

 余りの頭の痛みに、その場に蹲って吐いてしまう。


「はあっ、はあっ……うげえっ」


 何も食べていないから、胃液だけがせり上がってくる。雪に、不快な斑点を描かれてゆく。それでも、止まってはくれない。何度も、何度も吐いた。


「マコトくんっ」


 ヒナが何メートルか進んで恋人の異変に気づき、戻ってきてくれた。


「しっかりぃ!」


 そして手話ではなく『口で』必死に声をかけながら、肩を貸して何とか立たせる。


「いそいで、ビスクがくるっ」


 ──ビスク……?

 ビスクという言葉は初耳だ。人形の事だろうか。それなら、マコトも人形達のゾッとするような量の気配を、そこかしこから感じてはいる。

 ただ、動けない。どうにかなりそうな痛みの所為で。


 ごーん。ごーん。


 かかかかっ。かかかかっ。かかかかっ。かかかかっ。


 がくん、とマコトは膝から崩れ落ちる。

 もう、人形達はすぐ後ろまで迫っている。

 が、彼はもう一歩も動けない。


「マコトくん、たっえ、たっえぇ!」


 どうしようも無いのだ。余りに、余りに痛くて、痛くて。

 目の前がぐらぐらと揺れて、心臓の鼓動と共に、痛覚が感知する激痛を彼の脳髄に送り込んでくるからだ。故に彼は、もう立ち上がることすら出来ない。


 そして、遂に人形のうちの一体が追いつき、爪を高く振り上げ、襲いかかってきた。五本の指から生えた十五センチ以上の長さの爪が、マコト目掛けて振り下ろされる。残酷なことに、マコトは今、蹲っていて無防備だ。


 もうダメだ──っ!


 そう確信した時。



『あのね、お腹の中にね、赤ちゃんがいるの』



「えっ」


 気が付くとヒナが手を広げて、人形たちとマコトの間に立っていた。


 そして。


 数十体は居るであろう人形の大群は全て静止しており、最前列の固体は爪を振り上げたまま、ゼンマイが切れたかのようにぴくりとも動かない。

 ヒナも目をつぶっているらしく、顔を横に背けて手が震えている。


 そこにいたモノたちはそのまま、時間にしておよそ十秒停止していた。

 ──この世でいちばん長い十秒であった。


 その後、静止していたそれらの人形たちは、向きを変え、蜘蛛の子を散らすように去っていった。


『はぁ、はぁ。……今の、なに?』


 マコトは尋ねた。さっき聞こえた声について、だ。

 聞き覚えのある声であった。けれど、誰が言ったか、思い出せない。


『ヒナにもわからないの。どうしてかな?』

『いや、そうじゃなくて……まあ、いいや』

『?』


 マコトは恋人にすら伝わらない言葉にもどかしさを感じるものの、頭痛と、見知らぬ記憶の前では思考がどうしてもまとまらないのであった。



『さ、行こう』

『すまない』


 人形たちが居なくなった真理弥村の通りで。

 ヒナがマコトを助け起こす。そっと。優しく。


「あはは」

「? どうした?」


『マコトくん、いつも謝ってばかり』


 愛しい恋人が、声に出して笑う。マコトも、声に出して聞いてしまった。

 そんなに、謝っていただろうか。身に覚えのない事に、マコトは首を傾げた。


『うん。いつも謝ってるよ』


 マコトの首の動きは、見透かされていた。


『俺、そんなに謝っているっけ?』

『ほら、今も』

『?』


 何かの謎かけかと思って聞いていると。


『頭が痛むでしょ。それはマコトくんの心の中でごめんなさいしている声なの』

『俺の……心の悲鳴……』

『ふふ、やっぱりマコトくんは忘れん坊さんなの』


 そう伝えると、マコトが心の底から愛する女性は、マコトから手を離し、雪の中でスキップして歩いた。


 まるで雪が見えてないみたいに。

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