【第四章.過去の書】
【十三節.呼んでいる】
ピピピピ。
電子体温計のアラームが、未だ夢の中に居る彼の頭にじんわり染み込む。
幸せな朝が来たのだ。二人だけの、幸せの朝。
彼は身体を起こして、電子音の鳴動を優しい手話で伝える。
『ピピが鳴ってるよ』
『あいがとー。んー。今日の体温はー……』
「──くん」
『三十六度二分……っと』
とんとん、とんとんとん。
ヒナは幸せそうにスマホをタップする。たまごのマークのアプリに体温を記録しているのだ。──ママに、なる為の。
そんな彼女のうしろ頭が、とてつもなく愛おしくてたまならない。
『好きだよ、ヒナ』
『……うん、ヒナも。だいすき』
「マコトくん」
しかし、この幸せに浸っていたい気持ちとは裏腹に、現実はどうやらそうもいかないようだ。
「マコトくん、だいじょうぶ?」
なぜなら、呼んでいるのがその愛しい女の子なのだから。
「マコトくん、おきて。マコトくん」
◇
「うわあっ」
マコトは悲鳴をあげて目覚める。
「っ! たたた……」
目の奥に釘を打ち込まれたかのような、信じられないほどの酷い痛みに、思わず手で眉間を押さえる。
枕元のスマホを見る。八月十二日。電波は一本も立っていない。
『頭が痛いの?』
いつの間にか、ヒナが枕元に座って、手話を送ってきてくれている。
部屋は、電気が消されており、仄暗い。布団の敷かれた菊の間に、他に人はおらず、みな一度起きたのか布団がめくれて乱れている。
『……うん、酷い痛みなんだ』
『あれからずっとだね』
『あれから……?』
身に覚えのないことを言われ、マコトは不思議に思いながら身体を起こす。
『あれからってなんだ?』
『あれから、だよ。覚えてないの?』
くすくす。ヒナがいたずらっ子のように笑う。
『……ああ。覚えてないんだ。なにがあった? 俺は何をしたんだ?』
『マコトくんは忘れん坊さんだからなぁ』
愛しているはずの女の子は、どうしてか、答えを教えてはくれない。
不意に、部屋に面した窓に目をやる。
ごーん。
『鐘か……?』
『うん。さっきから鳴ってるみたいなの』
ヒナは、枕元から立ち上がり、窓際まで歩いた。
窓の外が、不自然に赤い。ガラス戸がガタガタと鳴り、びちびちと凍りついた雨がそこに打ち付けている。それらの方を向きながら、ヒナが尋ねた。
『マコトくんには聞こえるでしょう? 原罪で穢れた人間に祝福を与える、幸せの鐘の音が』
『祝福だって……?』
ごーん。ごーん。
そして、マコトは気付く。
自身の頭痛は、この鐘の音と連動していることに。鐘がひとつなるごとに、頭の中を掻き回す痛みが、酷くなることを。
『うん。みんなを、ヒナの王国に招待するための、幸せの鐘なの!』
愛しいはずの彼女が振り向く。信じられないことに、その瞳は、暗がりの部屋の中オレンジ色に光っている。
『素敵でしょう、幸せでしょう! 世界で一番優しくて、世界で一番平和な、ヒナの王国なんだよ!』
『王国? 幸せの鐘? ヒナ、いったい何を言ってるんだ……?』
ふふふ。
ヒナは聞こえぬ耳で、笑った。
◇
「どいて、どいてよぉ!」
◇
気がつくと、下の階が騒がしい。
『ヒナ、聞こえたか? なんだろう』
『その目で確かめてみる? 鐘の音に呼ばれた人間の、姿を』
自分が愛したこの子は、何を伝えているのだろう。何を言おうとしているのだろう。不可解なことだらけだが、彼女はもはやにっこりと笑うだけ。恍惚としているようにすら見える。
とにかく、階下の様子が気になる。マコトは痛む頭を押さえながら、手摺をしっかりと掴んで、階段をゆっくりと降りた。二階の廊下も、照明が落ちて暗いが、一階の玄関が明るいため、階段の段も、比較的よく見ることが出来る。
一階に降り、玄関に着いた。
何やらオカルトサークルのメンバーが集まって騒いでいる。
「なんだ……おい、どうした?」
「あ、九条先輩……」
カナエがマコトを見る。何だか顔色が悪い。
「はなして、はなして!」
モエの悲鳴のような声が聞こえる。
割れるような頭痛だけでも辛いのに、サークルの仲間たちの様子までおかしい。けれど、何が起きているのか、今しがた合流したばかりのマコトには皆目見当もつかない。
「なんだ、何が起きてる?」
「それが……モエちゃんの様子がおかしいのです。……竹中先輩も」
玄関を見ると、マサルとモエが、トシエともみ合っている。
「いけません! 出てはなりません!」
トシエは必死にドアを守る。それでも外に出ようとする二人を、オカルトサークルのメンバーが──タクミにケンだ──押さえている。
「はなしてっ、ママがっ、ママがっ」
まるで泣き叫ぶ子供のように、モエが叫ぶ。
「ママが呼んでいるんだ!」
まるで想い人の安否を気遣う恋人のように、マサルも叫ぶ。
「何言ってるんだマサル、おい、しっかりしろ!」
「おい、モエ、どうしちまったんだよ、オレだよ、しっかりしろよ!」
大の大人がママ、ママと叫んで暴れている姿はそれだけで異常そのものだが、二人は聞く耳を持つ気配はない。正気ではないのかもしれない。少なくとも、マコトには尋常ではないように見える。
「いけません、魔女の呼び掛けに答えてはなりません!」
トシエは玄関の戸の前に立ち、両手を広げて必死にドアを守る。しかし、その甲斐虚しく、マサルはタクミの腕を振りほどいて、モエはケンを突き飛ばして、外に駆け出していってしまった。
「ママ、ママ!」
「ママ、今行くよ、ママ!」
そう叫びながら。
結局、二人は猛吹雪の中、赤黒い闇の中に消えていった。
みんながあ然とする中、ヒナがマコトに手話を送る。
『あの二人はヒナの王国に還ったんだよ。よかったよね? おめでとうだよね? ねえ、マコトくん』
彼女はオレンジ色に光る眼をうっとりとさせて、恋人を見ている。
マコトはただ、その光を見つめ返すことしか出来なかった。
暴れるような頭痛に苛まれながら。
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