第005話 喰う者、観る者(後半)
病院の屋上に、朝の気配が満ちていた。
風がカーテンを揺らし、薄紅色の光が廊下に差し込んでいる。
静かだった。恐ろしいほどに。
センとタケルは、病室の中で眠っていた。
センは疲れきった表情で赤子を胸に抱き、タケルはその傍で手を握ったまま微かにうたた寝をしていた。
まるで、戦いも混乱もすべてが夢だったかのように、平穏な時間が流れていた。
――だが。
その病院の外壁、屋上の手すりの上。
ひとつの影が、静かにそこに立っていた。
風にたなびく白い服。
中性的な輪郭。透明すぎる瞳。
ナヤだった。
彼は病室の方向を見つめている。
扉の向こう。
カーテンの内側にあるその存在に、興味を抱いたように首をかしげた。
「……“何か”がいる。きっと、アムだ。とっても綺麗な匂い」
彼は微笑む。
悪意ではない。だが、**人間にとっては異質すぎる“純粋さ”**が、その笑みに滲んでいた。
その時。
屋上の床に、ふわりと黒い風が流れ込む。
――気配。
温度のない、けれど確かに“見ている”存在。
ナヤの笑顔が、かすかに歪む。
「……誰?」
その問いに答える者はいない。
だが、病院の内部――病室の前に、一匹の黒い狐が立っていた。
青い瞳が、病院の屋上を見上げている。
まるで、そこにいる者の存在を知っているかのように。
狐の身体が、わずかに毛を逆立てた。
その瞳に宿るのは、警戒でも恐怖でもない。排除の意志だった。
ナヤはその気配にしばらく沈黙し――
そして、笑った。
「なるほど。“そういうこと”か。君が、守ってるんだね」
彼は一歩、後ずさり、手すりの向こうへと足を運ぶ。
「今日は、見ただけ。食べないし、壊さない」
「――でも、また来るね。“アム”に、会いに」
彼の身体が、赤い霧となって崩れ、朝の風に乗って消えた。
屋上から気配が消えた瞬間――
病室の前にいた黒い狐も、ゆっくりと目を閉じた。
扉の向こうから、赤子の寝息が微かに聞こえていた。
狐は、ほんのわずかに尾を揺らし、踵を返す。
誰にも見られず、誰にも気づかれず。
ただ“守るために”、存在する。
――その夜、世界のバランスが、確かに少しだけ傾いた。
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