第003話 その夜、王が立った(後半)

――夜の病院。


病室には、赤子の産声が微かに響いていた。

だが、それをかき消すように、廊下の奥から湿った音が近づいてくる。


“ヌチャ…カツ、ヌチャ…”


人の足音ではない。

床を這う、異質な何かの接近。

ナースステーションはもぬけの殻。警報装置は作動せず、センサーの光も鈍く滲んでいた。


それは、“異常”が既に病院内部に侵入している証だった。


病室の扉の前、静かに座る黒い狐がいた。

艶やかな毛並み。氷のような青い瞳。

どこか冷たい神聖さと、底知れぬ異質さを併せ持つその姿。


狐は、扉を睨んでいた。

中にいる者たちを見ているのではない。

廊下の“先”――闇の奥から来る“気配”を、確実に捉えていた。


数秒後、空気がねじれるように歪んだ。


扉の隙間からすべりこむように現れた影。

それは、腕の数が多すぎる、頭の位置が低すぎる、目があるのかすら分からない“何か”。


二次の悪魔だった。


感情も言葉もない。

ただそこに“命”があることだけを察知し、破壊の本能に従って動いている。


その一歩が病室に入る瞬間――


狐が、動いた。


爪音もなく、空気を滑るように飛びかかる。

その身体が一閃した瞬間、悪魔の腕が音もなく落ちた。


断面は焼けたように黒く、そこから煙のようなものが立ちのぼる。


悪魔はよろけたが、反撃もなければ悲鳴もない。ただ再び、扉へ向かおうとした。


狐は音もなく背後を取り直し、その喉元へ牙を立てた。


重力の方向さえ狂わせるような動き。

まるで、空間そのものを喰むような殺意があった。


悪魔の体が崩れ落ちる。


狐は一歩も声を上げず、冷たい視線のまま、しばらく動かなかった。

やがてゆっくりと尾を振り、振り返る。


病室の中では――


センが赤子を腕に抱いていた。

その隣には、彼女の手を握るタケルの姿。


「……来てくれて、ありがとう」


「当たり前だ。ずっと、そばにいるよ」


赤子の小さな指が、センの指をつかむ。


その時、部屋の観葉植物に、ふわりと一輪の白い花が咲いた。


センもタケルも、それを見て微笑んだ。


誰も気づいていない。


――この瞬間、命がこの世界に降りたこと。

――それを、音もなく、決して触れられぬ距離で守る者がいたことを。


狐はすっと病室を離れる。

誰にも知られず、ただ静かに。


廊下の奥、消えゆく悪魔の残滓を一瞥し、また夜へと溶けていった。


その背は、美しく、どこまでも孤独だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る