夜羽隧道と3人の配信者

ムガイ ナオト

第一章:接続、開始 

プロローグ:変異する病


狂犬病――それは、かつて人類を恐怖に陥れた致死性のウイルス感染症である。

現代の日本ではワクチンと法整備によって封じ込めに成功し、国内での発症例は長年報告されていない。だが、その脅威が過去のものになったわけではない。


感染源の多くは、コウモリやイヌなどの哺乳動物。唾液中のウイルスが、咬傷や粘膜を通して体内に侵入し、中枢神経を蝕んでいく。

初期には風邪に似た微熱、頭痛、倦怠感といった症状が現れるが、進行すれば喉の渇きと水への恐怖(恐水症)、幻覚、錯乱、筋肉の痙攣、意識の混濁といった神経症状へと移行する。

発症後の致死率は、実質100%。有効な治療法は存在しない。


予防としてのワクチン、あるいは暴露後早期の接種によってのみ救命が可能であり、発症後には手の施しようがない。

清浄国である日本において過度な心配は不要とされるが、国外からのウイルス侵入に備え、飼育犬へのワクチン接種は法的に義務付けられている。


――そして、そんな死病をめぐる忘れ去られた異変が、ひそかに山奥で起きていた。


およそ三十年前。絶信山のふもとにひっそりと建てられていた私設「S医科学研究所」では、狂犬病ウイルスの実験的研究が進められていた。

だがその研究の多くは非公開かつ非倫理的で、内部では虐待的な動物実験も含まれていたとされる。


経営元企業が倒産すると、研究所は突如閉鎖され、設備ごと封鎖された。だがその過程で、動物実験用のウイルス標本や放射線照射装置、その他の医療廃棄物が、正式な処理を経ることなく不法に山中へ投棄されたという内部告発が、数年後匿名掲示板に投稿された。


その投棄先とされるのが、現在では廃墟と化している――夜羽隧道。

かつては鉱山の資材輸送に使われたという説や、戦時中に軍用の弾薬庫として使用されたという噂もある、忘れられた地下トンネルである。


その中で長年放置されていたウイルスの一部は、放射線照射装置から漏洩した微量の線源、あるいはともに投棄された放射性廃棄物に長期間さらされていた可能性がある。

ウイルスは、放射線によって遺伝子情報が不安定化し、変異しやすくなることが知られている。

もし、それが現実に起こっていたとすれば――


狂犬病ウイルスは、通常とは異なる性質に変異するかもしれない。

たとえば、感染経路が飛沫や空気中の唾液粒子を介するほど強化され、潜伏期間が従来の数週間からわずか24時間以内に短縮されるような変異が生じていたとすれば。

あるいは、脳症状の進行が劇的に早まり、人知れず感染者が錯乱・暴走の度合いが劇的になる可能性も否定できない。


だがその真偽は、誰にも確かめられていない。

行政記録には痕跡がなく、調査機関も動かなかった。

真実は、廃棄と忘却の果て、深い廃トンネルの奥に沈んだまま――


そして今、過去を知らないままの配信者たちが、その場所に足を踏み入れようとしている。

彼らの興味は「都市伝説の検証」だ。

だが、そこに潜んでいるのは、作り物の物語ではなく、現実に変異した“死”そのものだった。



夜羽隧道と3人の配信者

第一章:接続、開始 


「チェック、チェック……OK、マイク入った。サエ、バッテリー確認して」


「フル充電。予備も3つ、バッグに詰めてある」


「トモヤ、ドローンは?」


「GPSつかまった。風もないし、問題なし」


 道の駅の駐車スペース。大型の黒い四輪駆動車の横で、三人は淡々と準備を進めていた。広角カメラの前に立つリーダーは、無線マイクを胸元に固定しながらふと口角を上げた。


「じゃあ、いくぞ。本番回す」


「おう。行こうぜ、今日もクソ地獄の入口へ!」


 助手席のドアを閉めながら、トモヤがカメラにガッツポーズを決める。


 ――人気中堅ホラーチャンネル『ドグマトリオ』。登録者数8千弱。都市伝説、廃墟探訪、超常スポットを専門とする配信グループとして、一部に根強いファンを持つ。

 本日の企画は、ネット上で都市伝説と化した「レイジ」の潜伏地を追う、長編探索シリーズの第二弾。


「どうもー、『ドグマトリオ』 今回も地獄の底まで突撃します。リーダーです」


 ドライバー席のリーダーが、カメラに向かって軽く会釈する。32歳、元登山用品店勤務。配信開始当初からチームを率いる最年長であり、動画編集と情報解析を一手に引き受ける頭脳でもあった。昔、趣味の延長で民間軍事会社の訓練に参加したこともある。


「目的地は、通称“夜羽隧道”(よるはずいどう)。場所は非公開で地図にも無い。ですが視聴者から寄せられた複数の証言、事件記録、匿名掲示板の投稿から“あの逃亡犯レイジ”が一定期間潜伏していた可能性があると判断し、今回はここを選びました」


 リーダーの語り口は冷静で、どこかドキュメンタリーのナレーションのようでもある。視聴者のコメントがチャット欄に続々と流れる。


《ついに来たか!》《このシリーズ好き》《レイジって死亡してないの?》《リーダーの声落ち着く》《サエちゃん怖がるの期待してるw》


「はーい、サエでーす。今日も怖がる担当がんばります……」


 後部座席からサエが半分冗談めかして手を振る。26歳、元舞台女優。声の通りが良く、配信では実況・ナレーションを任されることが多い。近年は別名義でVチューバー活動も始めていたが、登録者数は微増程度にとどまっている。


「この前の廃ホテル回、もうコメント欄荒れまくってたよ。『サエちゃん泣くの早すぎ』とか」


「だってさぁ、部屋の奥に白い影が――って言っても、編集でカットされてたじゃん!」


「リアクションが過剰だって言われるけど、それがウケてるからなー」


 口を挟むのは、助手席のトモヤ。巨体の26歳、元フリーターでジム通いが日課。ドローンやカメラ機材の操作に長けており、現場では「機材馬鹿」と揶揄されることもあるが、体力面では誰よりも頼りになる。


「トモヤ、前回の炭鉱の立坑でドローン落としかけたとき、泣きそうになってたよな」


「いや、マジであれ高かったんだって。保険きかなかったら破産よマジで」


「でも、あの時の映像、逆にバズったから結果オーライでしょ」


 会話のテンポは、いつもの調子だ。三人はすでに10か所以上の“曰く付きスポット”を訪れ、噂の検証を繰り返してきた。

 撮れ高が無くても、それを成立させる編集力と語り口の巧さが『ドグマトリオ』の強みでもあった。


「さて、そろそろ行こうか。夜羽隧道まではここから1時間ちょいの林道コース。運転は慎重に」

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