うしろの社

祇斬 戀

第1話

新幹線の窓の外を、鈍い灰色の雲が追いかけていた。

空は重く、夏の終わりの湿気が車内にまで染み込んでくるような気がする。

梶谷紗季かみやさきは、持参したレポート資料を膝に置いたまま、ふとため息をついた。


目的地は三重県伊勢市みえけんいせし

四年ぶりの帰郷だった。

葬儀のため――そう、ひいお婆ちゃんの。


 


紗季にとって、ひいお婆ちゃん――「タツお婆ちゃん」は、遠い記憶の中の人だった。

小学校に上がる前の数年間だけ一緒に暮らしていたが、母が病気で入院していた時期に“仕方なく”預けられていただけで、特別な思い出はない。

むしろ、子どもの頃の記憶は、タツお婆ちゃんの家の薄暗さや、朝から焚かれていた線香の匂いばかりが強く残っている。


「……お婆ちゃん、何歳だったんだっけ」


誰に聞かせるでもなくつぶやいた。

母の話では、百歳はとっくに越えていたという。

認知症も進んで、ここ数年はまともに会話もできなかったらしい。


 


「次は〜伊勢市〜、伊勢市〜」


車内アナウンスが流れた。

紗季は小さなキャリーケースを手に、立ち上がった。

不思議なことに、身体がじんわりと重く感じた。

疲れているのか、それとも、何か別の理由なのか。 


* * * 


 


駅から車で二十分。

親戚の運転する車に揺られながら、紗季は山あいに向かっていた。

木々が道を覆うように茂っており、日差しがほとんど差し込まない。

どこか、昼なのに夜のような錯覚を覚える道だった。


「ひいお婆ちゃん、最後までここで一人で暮らしてたの?」

何気なく聞いた言葉に、助手席の叔母――美津子が、少しだけ黙った。


「……うん。あの人、ずっと動こうとしなかったのよ。“あの家は離れたらアカン”って。意味わからんやろ」

「意味わからん、ね。昔からそういうとこあったの?」

「昔どころか、若い頃からよ。あの人、あんたに見せてなかったん? あの祠とか」


祠? 紗季は眉をひそめた。

「知らない。何それ」

「……ならええわ。忘れとき」


そう言って美津子は話を打ち切った。


 


 


* * * 


 


山の奥、杉木立の中にぽつんと建つ古い平屋。

それがタツお婆ちゃんの家だった。

家の周囲はどこか、時間が止まっているようだった。

瓦屋根の一部は崩れ、玄関の戸には「合掌」と書かれた紙が貼られている。


家の中では、すでに通夜の準備が進んでいた。

親戚たちが無言で座り、祭壇の前に線香を供えている。

紗季はひととおり挨拶をすませたあと、ふと玄関の隅に目を留めた。


――古びた木箱があった。

「梶谷タツ遺品」と墨で書かれている。


「……勝手に見たら、まずいかな」


誰も見ていないのを確認して、紗季はそっと木箱の蓋を開けた。


中には、黒ずんだ布で包まれた何かと、ボロボロになった小さな手帳が入っていた。

手帳には、震えるような筆跡でこう記されていた。


「“影見の社”には、二度と行ってはいけない。

見てはいけないものが、見えるようになる」


心臓がひとつ脈打つように、ドクン、と跳ねた。

影見(かげみ)の社?

そんな名前、聞いたこともない。

でも、どこかで読んだ気がする……。


「大学の資料……?」

紗季は、無意識に自分のレポート用ファイルを手に取った。

そうだ、自分が今書いている卒論は「東海地方に伝わる消失神社の民俗信仰」――

まさか、ひいお婆ちゃんの家とつながるなんて、思いもしなかった。


線香の匂いが、濃くなる。

窓の外に目をやると、夕暮れにもなっていないのに、森が黒ずんで見えた。


 


そのとき、誰も触れていないのに、仏間の掛け軸が――ふわり、と揺れた。

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