第2話 現生人類
さて、さりとて何から始めようか。
とわ子は足元に生い茂るシダの葉をかきわけながら、朧な記憶を手繰った。
かつ丼――あれは丼だ。
丼の中に白飯があって、その上に……肉?衣?卵?
いや、その前に丼って何で作るんだっけ。陶器?釉薬?
思い出そうとするたび、記憶は霞のようにほどけていく。
「蕎麦屋は……残ってるわけないか」
ぽつりと独り言をこぼす。
緑の海のような山々が、無言でとわ子を見下ろしていた。
山を下りる道すがら、何度も原生の獣に囲まれた。
灰色の大きな四足獣。尾の長い小さな捕食者。枝の上から滑空する蜥蜴。
鋭い牙と爪が飛びかかるたびに、とわ子は鬱陶しそうに力任せに手を払った。
骨が折れようが肉が裂けようが、数分も経たずに元通り。
襲撃者たちは、何度目かの再生を見届ける頃には本能的に恐れを抱くのか、やがて吠えもせず逃げ去っていった。
「ほんと、めんどくさいなぁ……」
不死の肉体は、こういうとき便利だった。
それから数か月。
とわ子は山を下り、川を渡り、荒野を越え、朽ちた都市の残骸を彷徨った。
遠い昔に人類が築いた無数の建物は、ほとんどが崩れ落ち、瓦礫の下から名も知らぬ草が生い茂っていた。
人類はとうに終わったのだ、と改めて思う。
けれど、滅びのことはどうでもよかった。
問題は、かつ丼がまだどこかで手に入るかどうか、それだけだ。
やがて、川沿いに立つ集落を見つけた。
粗末な木の柵に囲まれた小さな集落。
細い煙が空に上がり、人の声が微かに混じる。
とわ子は思わず小さく息を吐いた。
「……やっと見つけた」
集落の入口に立つと、数人の人影がこちらを見て息を呑んだ。
体に蔓や毛皮を巻きつけ、手には石槍を握っている。
彼らの目には、数千年の間に失われた言葉が宿っていなかった。
口を開いて声をかけてみる。
「そこのあなたたち、かつ丼って知ってる?」
沈黙。
彼らは短く何かを叫んだ。
それはもう、とわ子が知る人間の言葉ではなかった。
意思を伝えるだけの単語が、喉からほとんど剥がれ落ちたように、原始的な叫びになっていた。
次の瞬間、石槍が飛んだ。
胸を貫いた感触があったが、とわ子は特に表情を変えず槍を引き抜く。
血はゆっくりと止まり、傷は閉じていく。
石槍を引き抜くと、震える手で顔を覆う者もいた。
恐怖とも祈りともつかない目が、とわ子を見上げていた。
「人類、ちょっと困難になっちゃったかな~」
数歩進むと、集落の者たちは恐怖に目を見開いた。
とわ子はため息をつき、無造作に歩み寄ると腕を伸ばした。
抵抗する者を肩から掴み、地面に叩きつける。
もう一人を脇に抱えて放り投げ、残った者も力任せに押し倒した。
死なないように加減はしてある。
人間が滅んでは、かつ丼を作らせる相手がいなくなるからだ。
そのまま、村の中央の広場へ歩いて行った。
焚き火のそばに立ち、周囲を見渡す。
自分を恐れる人々を見下ろし、とわ子は頬に手を当てて小さく首を捻った。
「……ま、いいか。とりあえず、ここを拠点にしよ」
数千年ぶりに、かつ丼を作れるかもしれない場所を見つけたことだけが、少しだけ胸を軽くした。
どうやって作物を育てて、どうやって道具を作るか――ここにいる人間たちに教えていこう。
必要なのは、かつ丼を作るための手足になる人間と、かつ丼を作るためのやる気だけだ。
「さてさて、何から始めようか」
そう呟いて、とわ子は神として君臨する準備を始めた。
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