第11話4-3

「取り締まる?」

 男は飄々として言う。

「締まらない。情報が欲しい。あの男が買ったドラッグだ。売ったんだろ、現物あるんじゃないの? 仕入れ先も知りたいんだけど、ってか、なんで空から降って来たよ」

 男の視線は、空を指す烏月から、掴まれたままの手に移動した。

「離せ、それからだ」

「……逃げたらどつくからな」

 男は、自由を得た手をポケットに入れて、パケ袋を一つ取り出した。

 袋の中に入っているのは、市販の頭痛薬と似た、大ぶりの白い錠剤が三錠。

「それ?」

「信じる信じないは任せる。仕入れ先なんてわかんないよ。俺は集めて物を売り捌いているだけ。あのおっさんはこれがお気に入りでね、金が無いってのに寄越せって五月蝿く付きまとってさ。果てには、空高くまで飛び上がるんだから、たまったもんじゃない」

 土方風の男は横に倒れているサラリーマンらしき男を一瞥し、嘆きを吐く。そして、早くしろと言いたげに薬の入ったパケ袋を挑発的に烏月へと突きつけた。

 白い錠剤を瞬きで飲み込んだ烏月は、手を伸ばす。

 喉を楽しげに震わせた男は、空の両手を肩の位置に持ち上げ一歩、後ろへ下がっていった。

「思ったより目障りな蟻だ」

 隠せない苛立ちを吐き捨てた男は、大人しく縮こまっている千樫に気が付き、近づいていく。

 後を追おうとした烏月は、振られた手の拒絶を受け、仕方なく背中へと問う。

「蟻ってなんだ?」

「いやいや、こっちの話。最近目障りなアリの巣があるんだ。ここにもいるだろアリ。脳みそはあるはずなのに、群がってくるばっかりでウザったいよな。巣ごと壊すのは面倒くさいとは思ってたんだけど、仕方ないか。ほら、あんたにもあげる」

 差し出されたドラッグを見ることもせずに、千樫は上目になって首を横に振った。

「そ、つまんないの」

 舌打ちを噛んだ表情を浮かべた。男は駅の方へと歩き出して行った。すぐに景色に馴染む姿は、まさしく人の営みに寄生する害虫のようだ。

「良くも悪くも変な景品もらっちゃったなぁ」

 烏月は、意識のないサラリーマンらしき男を見下ろす。脱力した身体にタクティカルバトンの先端を押し付け、シャフトを畳んだ。手の中で握り絞めていたパケ袋を見下ろす。光の加減によって青くきらめく錠剤を、烏月は二重になっているポケットの奥深くへと押し込んだ。



 景品を地下の研究所に献上した烏月と千樫は、四階オフィスに戻った。

「あんた正気? 危ないやつと顔見知りだし、それもやばいんじゃないの」

 パソコンの前で頬杖をつく千樫は、へっぴり腰の声音で烏月を突く。だが、開けた窓から顔を突き出し、タバコを吸う背中は身じろぎもしない。

「単なる売買相手、他人と変わらん。試してみたいんだって言っただろう。誰にも言うなよ」

「言えるかよ、あんたが売人と知り合いで、証拠品の薬物かっぱらいましたなんて。俺も共犯じゃないかって疑われるのは絶対、嫌だ」

「だから、あいつは顔を知ってるだけの他人だって」

 面倒くさげな烏月を、若者の尖った唇は、しつこく突いた。

「んな危ないもんキメてさ、死んだらどうすんの」

「何度も言ってるだろ。向こうの世界に行けるなら、なんだって良いんだよ」

 小煩そうに片頬を歪めた烏月は、タバコを指先で外に弾き風にくれてやった。手荒に窓を閉めオフィスを出ようとして、止められる。

「なぁ理事長さんに言われた事、覚えてる?」

 おずおずとした問いは、頭の中で迷うことなく少女の姿に変わっていった。その上にセロファンのように薄い海藍の姿が重なる。

「なーんにも、覚えてない。報告書よろしく、テキトーでいいからできたら提出しといて。紙じゃないとグレシアは受け取らないから、そこだけ気をつけろよ。じゃ、今日の仕事はしたから、帰る」

 オフィスを出てすぐ、力無く表情を落とした烏月は、給湯室に向かった。無性に、何もかもを忘れられるほどの強い酒が欲しかった。


「ほら、お望みのものはこれだろう? 外回りから土産を持ち帰ってきた事だ、堂々持っていけ」

 給湯室の中、冷蔵庫に背中を預けていたグレシアは言う。少女は待ち構えていたように、両手に抱えた酒瓶と二つのグラスを入ってきた烏月に有無を言わせずに押し付ける。

「一体、誰がお前なんかを待ってくれているんだ?」

先制を取られた烏月は、喉を絞って初夏の新緑を思い浮かべた。

「待ってるってか、現れるってか。なんだろ、俺と同じで世界を間違えちゃった子? まぁ、なんだっていいだろ」

 希の子供っぽく笑う顔はすぐに思い出せるのに、部屋で待っていてくれていた海藍の姿は、縁の部分が朧気だ。薄皮一枚、自分自身が足りない気がした。

「ふぅん? そいつにも言っておけ、起きて見る世界は、ここにしか無いとな」

 足りないと自覚してしまうと、どんな言葉も胸にじんと響いて、怒りに変わっていく。

「うるさいな、お前はいつもそうだ。お山の上でふんぞり返って、あーだ、こーだ言うだけで楽そうだよな。俺もあの子も世界が違うからこそ毎日が地獄だってのに、わかるはずないよな、お前は正しい世界に元々居るんだから」

「わかるもなにも、お前は、おい――」

 給湯室を出た烏月は、早い足音と競ってエレベーター横の階段を下って行った。


 アパートの窓が開いている。

 閉めるのを忘れ、家を出てしまったのかと考えたが、開けた記憶は無いようにも思う。叩き起こされた寝起きの些事など、烏月はなにも覚えていなかった。

 ローテーブルの上に置かれたグラス片の鋭い断面が内包した光をおかしな方向に放っている。

 その隣に酒瓶とグラスを置き、内ポケットから白い錠剤の入ったパケ袋を取り出した。手のひらで固い感触を握る。

 ローテーブルの下に置いてあったチェス版を引っ張り出し、白黒入り乱れた盤面を眺めた。いつの間にか寝返ったり寝返られたり、色だけでは盤面がどのような状態なのか、全くわからなかった。

 一息ついて酒瓶に手を伸ばした。漂ってきた濃いアルコールの香りに脳は涎を垂らす。

 注いだ透明なグラスの中で、気泡を抱いた色のない液体がもがいている。嗜虐をそそるその顔をもっともっと酷いものにしてやろうと、烏月は味わいなどそっちのけで半分ほど一息に呑み干した。

 柔らかな喉の肉は、往生際悪く助けを求める酒の立てた爪に引っ掻かれ、熱を持つ。

 パケ袋を破り、一錠かみ砕くと苦味の奥に、むしられた花草の匂いと不愉快な甘さが香る。

 しばらくすると、脳みそに通っていた軸が溶け、次に身体が溶けていく。そのままチェス盤の手前にあった白のキングを摘もうとしたが、止められてしまった。

「それ、僕の駒」

 顔を上げて見る明るい部屋の中には、誰もいない。烏月は俯き、今度は黒いキングを指差し、半信半疑、空っぽへと問いかけた。

「こっちは?」

「そっちも、僕の。ねぇ、ユウくん、僕はここに居る?」

 思えば希はいつも、存在の証明を求めた。

「いるよ、希さんはここに居る」

 なぜこの応酬をするようになったのか、思い出そうとしても残っている記憶のほとんどが明瞭からは遠い。

 顔を上げた烏月の前には、当然のように希が居た。膝を抱えて座っている彼の目はふらふら何かを追いかけ、烏月の頭上からゆっくりと下ってくる。そして、目と目が合うと、注目された事を喜ぶ子供っぽい笑みを恥じることなく浮かべて見せた。

「今日は帰り早いね。ユウくん、あそぼ」

「仕事が早く終わったからね。今日は俺、よくやったんだぜ」

 膝を解き、四つん這いにチェス版に近寄った希は、わかった風に烏月の話に頷く。そして、白のキングを中央まで動かした。


 気がつくと、目と鼻の先にいつも遠くに見ている世界があった。世界の明るさに触れた烏月の胸元から、湧き出てくる温かく形の無いもの。

 いつもより近く鮮明に覗いた正しい世界に居る海藍は、いつものように微笑みながら花になった。

 茎は細く、花弁の大きな花だ。そこから、一匹の青い蝶が前足をぐちゃぐちゃに動かし、生まれてきた。

 蝶は烏月を置いて、世界の奥へ飛んでいく。咄嗟に手を伸ばし追い縋ろうとしたが、足が動かない。どんなに両足に力を入れても、両手で持ち上げようとしてもびくともしない。

「まって」

 声を上げた時には、青い蝶の姿はどこにも無かった。

「青い蝶に、なれたら」

 もし青い蝶になれたら、動きもしない細く頼りない足など千切って海藍を追いかけられるのに。

 彼女を、思い出せるのに。


 目を覚ました感覚が、心臓を無理やり動かす。

 辺りは暗く、開けっぱなしの窓から夜が覗いていた。煌々星の粒が大きく、燃えている。

「おかえり」

 グラスを口元に当てた希が、烏月を出迎えた。

「今日は、いいの見れた?」

 何を言っているのか、すぐにはわからなかった。だが、痛い程の蛍光色の色彩と光で、かみ砕いた草花の苦みを思い出す。

 チェスの盤面は、最後に見た時よりもずっと酷い。烏月の陣地には、白のポーン一つだけしか残っていない。

「……ねぇ、聞いてくれる」

 白の丸い頭を目にしていると、由来も分からぬ欠けた胸の侘しさに襲われる。そして、それを目の前に居る希にすべて押しつけてしまいたくなった。

「海藍はね、綺麗ではなかったけど、優しくて、我慢強く結果を待てる女だったよ。仕事も、人間関係も。だからかもしれない、彼女は人のルールの及ばない夢幻を救いだと信じていた。人そっくりなのに人とは違う、それはさ、もう一つ世界があるって事なんだって」

 希の反応を気にも留めず、残っている思い出を出来るだけ、たくさんかき集め自分勝手に押し付ける。押し付けた分だけ、烏月は安心した。

「間違った世界から、正しい世界に返してくれるって言ってた――」

 独りよがりだとは考えずに、集めたものをひたすらに語った。


 海藍は、我慢強く結果を出すことはできるけど、それって言い方は悪いけど人を伺い見て安心を得ていたんだ。少し上手くいかない事があると、酷く落ち込んでいつもドラッグに頼ってたよ。俺らは似ていたんだと思う、だからウマがあったし、生き辛さだとかそういう事は、二人にしかわからないって真剣に思ってた。

 二人でいる時は、何もかもが楽だったんだ。このままで居たいと思ってた。けど、この世界はそれを許してはくれない。

 だからだと思う、彼女が夢幻になったのは。自殺だった。ビルから飛び降りたんだ。本当に居るべき世界に帰りたいと思って彼女は飛んだんだ。そして蝶を引き寄せ、夢幻になったんだと思う。

 夢幻になった海藍は、人だった頃とは別人のように自由だったよ。だけど、夢幻なんてそんなものだ。縛れるもなんて、なにも無かった。俺すらも。

 伸び伸びと生きて、満足した顔でもう一度ビルから飛んだ。心臓の蝶を殺して、俺の前に落ちてきたんだ。綺麗な花を咲かせ、蝶になって飛んでいったよ。

「羨ましかった」

 残った自軍のポーンを指で倒し、烏月は酒瓶に手を伸ばす。

「ユウくん、蝶になりたかったの?」

「蝶になりたかった、わけじゃなくて」

 では、羨ましいとはなんだろう。

 青い蝶になった海藍は、正しい世界に帰ったのかもわからないと言うのに。

 内に響いた声は、光を過剰に眩しがり目を瞬かせた烏月に言う。

「なんだろうね」

 アルコールはツンと臭う。サラサラとした鼻水を啜り、烏月は呟いた。

 

 いつの間に目を閉じていたのかはわからないが、目を開けた認識はあった。

 暗がりの中、見えているのはチェス盤だ。

ふと、誰かの足音が聞こえた。

 眠ったままの身体は動かせず、どうにか目玉だけを緩慢に動かす。

ぼんやり輝く双子の月が、烏月を覗き込んでいた。


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