第4話2-2
会社を抜け出した烏月は、トラック地帯と人の生活圏を結ぶ陸橋を真っ直ぐに歩いていった。
陸橋麓、揚げ物臭いコンビニの裏手へと続く路地を覗く。いつも座っている小汚いホームレスらしき男の姿は無かった。
それどころか常日頃、散らばっている薄いビニールのちぎれ端や、白い紙のゴミ一つ見当たらない。盛大に顔を歪め、舌を打つ。
「あいつ、余計なことしくさりおって」
意識しなくとも頭に浮かんだのは、偉そうにふんぞり返る少女の姿だ。
肩を落とし、路地前を通り過ぎた。
呼吸を荒げ駅前までやってきた烏月は、古びたホームへと登る階段の前に身を寄せた。滲んだ汗が引くのを待つ間、地元でもなければ、仕事で立ち寄ることも少ない駅前を何気なく見渡す。
円を描くロータリーは、真ん中に大きな木を抱き、一台のタクシーも居ない乗り場には、客の姿もない。入って来たワンマンバスが、年季の入ったひさしつきのバス停に身体を揺すりながら止まる。
この古臭い肌感の空気を知らないはずなのに、身に覚えがある気がした。
背後で出発のベルがけたたましく上がり、電車はゆっくりと動き出す。
ポケットに両手を突っ込んだ烏月は、常識を塗りたくったすまし顔を貼りつけ、電車と同じ方向へとつま先を向けた。
線路脇に歩道線の無い道が奥まで続く。個人経営の飲み屋が、死にかけの体裁で夜を待っていた。
薄暗い場所を見つける事に関して、鋭い嗅覚をもっている自負が烏月にはある。
よろつく自転車を操る老人とすれ違うのを辛抱強く待ち、コードを頭に巻いたスナックのスタンド看板の間を覗く。
奥に潜んで居たのは、チャバネゴキブリを彷彿とさせる黒いパーカーフードを被った男だ。
素早く左右を見渡し人気の無いことを確認した烏月は、自らも害虫となるべく路地に滑り込んでいった。
一気に強くなった生ゴミの臭い。中が半分も埋まっていない空瓶ケースを避けて進む。
男に近づいて行くと、臭いが変化していくのがわかった。烏月にとって馴染み深い臭いの周りには、破られたパケ袋の残骸や、裏面の焦げた銀紙が散らばっていた。割れた安物のライターを踏み、冷静な素振りを取り繕う。
「何がある?」
男のそば、雨だれ跡の残る建物に肩を預けた烏月は、親しみを込め尋ねた。
「可愛いのが幾つかしか残ってない。客が集中して品薄なんだ」
男は肩をすくめ言うなり、星形の錠剤が入ったパケ袋を取り出し揺らす。
錠剤に印刷されているのは、大きな目を悲しげに潤ませる、一角獣の顔だ。
「なにこれ」
眉間に疑問の皺を寄せた烏月は、パケ袋を指差した。
「ユニコーンだとさ。いま、人気だよ」
「絵柄じゃなくて、種類」
「だから、ユニコーンって言う、幻覚系。神秘的な幻覚が見えるって若い子に人気」
錠剤に住まうユニコーンと烏月は、無言で見つめ合う。
「買う? 買うならパケひとつから。安いしきくけど、クズが多く入ってるから慣れない人は悪酔いするよ」
「いくつ残ってる?」
「三袋で終わり。あんまり人が群がるとバレるから、当分は転々とするつもり」
「ふぅん、じゃ全部ちょうだい」
「まいどー」
男の流暢な指捌きは、渡した札の頭を一枚違わず弾く。間違いのない額あったのだろう、フードの影から男の目が覗いた。
「お兄さん、夢研の人でしょ。たまぁに、来るんだ。あんたそっくりの空気って言うのかな、そんな奴等がさ。そいつらみんな、夢研だからすぐにお兄さんの事もわかったよ。こんな所で、こんなもん買っていいの?」
奇妙な事に男の揶揄からは、飼い慣らされた虫と対峙しているような、独特な臭いがあった。
烏月は内ポケットに二袋と、さらに二重になっている隠しポケットに一袋押し込み、唇の間から吐いた強めの呼気に声を付ける。
「俺らってそんなにわかりやすい? 気をつけろって買いに来た奴らにも言っておいて」
予想外な返事だっただろう。男の目は大きく見開き無垢を晒したのも束の間、丸を歪に溶かし、声を上げて笑った。
「今までの奴らは、夢研ってバレると急にオドオドしだしたり、買うのをやめて逃げたりだったけど、お兄さんは肝が座ってるじゃん。いやいや、いいね、そーゆーの好きだよ」
「バレて困るなら、はなからこんなもん買わないでしょ。そうだ、なぁんか最近とってもいいのがあるって聞いたんだけど、入んないの?」
薄笑みを意識的に作る烏月は、頬のぎこちなさを隠そうとわずかに顎をひく。足元に落ちていた銀紙を踏み躙りながら男の顔色を上目に覗きこんだ。
笑っている男の口角が、僅かに引き攣れ、下がる。烏月は逃がさぬように、言葉を重ねた。
「すごくいいらしいじゃん? みんな幸せそうに消えていくって聞いた。試してみたいんだけど、手に入りそう?」
「いやいや話は知ってるけど、どこから卸されているのかは知らない。そう言うお兄さんこそ、なんか知ってるんじゃないの? 今まで見て見ぬふりしてたのに突然人が入って取り締まりなんて。俺たちもやり難いったらないって」
奇妙な虫は、いつの間にか男に変わっていた。
内心で舌を打った烏月は、さらに頬を酷使し、男を真似る。無知で無責任な笑みを浮かべて見せたが、潮時だった。
「それは俺も困ってる。そのせいで買うのに苦労してんだからお互い様ってやつ。ま、手に入ったらよろしく、また買いに行くよ」
「よく探してね。じゃないと、俺は隠れちゃうから」
絵に描いたように湾曲させた口をのぞかせた男は、路地の奥へと後ろ歩きに下がっていく。
烏月が男の足音に合わせ路地を出ると、目の前を電車が流れ行く。走行音と巻き上がる風は、すべてをかき消す。轟音が過ぎ、背後を振り返ったが、男の姿はどこにもない。
「流石、人と生きるチャバネ。逃げ足も、隠れるのも上手いもんだ」
しばらく薄暗い裏路地を眺めていたが、踵を削りながら駅前へと戻っていった。
開いた自動ドアから覗いた会社のエントランスには、人を真似た悪魔が仁王立ちしていた。
踏み入れようと上げた足の位置を元に戻し、厄介を嫌う音を烏月は鼻筋の中だけで鳴らす。
「業務中なんですけどね、あんた。どこに行っていた、早く入ってこい」
腕を組む橘は、比較的落ち着いた様子で口火を切った。
烏月は精神的な暴力と変わらぬ強制力に屈する事でしか身を守る術を知らない。阿った笑みを浮かべ、言われた通りに近づいていく。
「気分転換って必要だよね。お前だってグレシアのお守りからすこぉし遠ざかりたいって時あるだろ、それと同じだ。俺と仕事の関係ってのはさ」
「そうだな。遠ざかりたいと言われれば、同意しよう」
共感深く顔の中をくしゃくしゃにして、橘は何度も何度も頷いて、空気をかき混ぜて見せる。
「だよな。だからさ」
同士であるのならば見逃してくれるだろうと、通り過ぎようとした烏月は、肩を掴まれ止められてしまった。その場で足踏みはから回り、顔を上げる。
「おい、橘」
烏月の非難は、見下されていた。
黒い前髪の間から覗いた黒灰に埋もれる雌伏の燃えさし。そこに意志がくべられ、赤みは増していく。
「しかし、契約を交わした以上、不履行は許されない。もし、俺に不履行を促すものがあったならば、なぁ?」
烏月は知っている。淡々とした表皮を取り繕っているその裏で、爛々と楽しみを膨らませていることを。
真顔を崩さぬ二つの目玉の中をぬったりと動く悦への期待は、鈍く輝く。
嗜虐的で、欲に抗わぬ理性のタガの弱さ。橘を偏執狂とも見せる瞳孔の揺らぎが、烏月を凝視する。ゆっくりと、唇だけが微笑み、垣間見えたのは、ネジの抜けた愚かさだ。
悪魔の面差しを見せる橘という男から、烏月は逃げようと後退った。だが、その時にはすでに二つの炎に捉えられ、頭の中では聞き慣れた声が轟々音をたてて燃えていた。
人の首骨は、脊椎が七つ。一つ減っても、わからないだろうさ。いや、それより椎間板を真ん中から折ったら、中はどうなっているのだろう。もしくは、脊椎を真ん中から割って、出汁をとるのもいい。数時間ゆっくりと野菜と煮込んだ後、捨てるのは勿体無い。そうだ誰かに食べさせよう。気がつかなくたっていい。その誰かが食べ終わった頃、空になった皿の前で全てを明かせば、誰かは正気のままでいられるのだろうか?
気になって仕方がない。今すぐにでもやってしまいたい。
お前もそう思うだろう?
激しい炎はじっくりと妄想と現実の境目を焼却していく。
切羽詰まった烏月の両手は本能的な恐れに突き動かされ、意識を置き去りに何かを掴んだ。
圧迫を覚える喉のえずきが乖離しそうになっていた誰かを見つけ、急いで引き寄せる。
正気ついた意識が、急速に視野を広げていく。
「くそっ」
烏月は強く握り絞めていた自らの首から手を離した。
「おい、こんなところでネジを外して人を揶揄って楽しいか? この、人でなし」
頭の中から溢れ出てしまいそうな炎を、怒りで強引に振り払う。ようやく、人として生きるための一番重要な軸を取り返せた気がした。
「楽しいからするのでしょう? 楽しくない事なんて、契約があってようやくだ」
烏月の反応を楽し気に観察していた橘は、薫風を謳う。
「そうかい。なら俺を相手にしてても楽しくはないだろ、散った散った」
「お嬢様と比べると物足りないが、まぁまぁと言ったところだ。あんまり卑下しなくてもいい。そうだ、クソジャンキー」
感興に震えていた橘の語尾に力がこもり、引き締まった。
「先ほど告発が上がった。もちろん、匿名だ。お前、ドラッグを使用していたそうじゃないか」
「周知の事実だろ、今更」
鼻で笑い飛ばしながら、胸元に引き付けられてしまいそうな意識を正す。
「そうだな、いつものことだ。だが、今回のタレ込みは一味違う。社内で使っていたと目撃情報が入ったのだが、どうだ、身に覚えはあるか?」
烏月の喉が寸の間、詰まった。記憶に浮かんだのは、遠ざかる二人分の若い背中だ。
「おい、目が言っているぞ。余計なちくりしやがって、てな」
言うや否や、広げられた橘の大きな手の平は、無防備な顔面を鷲掴む。
「ここは働く場所であって、ドラッグをキメる場所ではないんですねぇ。知っていたか? それともお前の脳みそは乾いたスポンジですか、乾きすぎて小さくなってんのか?」
声に合わせて、烏月の頭は叩かれた。
「詰まった音はしているんだから、中の物を使え」
「使ってるだろ!」
「どこで?」
「そりゃ、お前とかグレシアの相手、とかで?」
スイカを選り好みする様に、橘の手は再度振り下ろされる。
「それは、こっちのセリフだ。で、ドラッグをきめた危ない男は、地についていない足でどこに行っていた」
「だから、気分転換だって」
いけしゃあしゃあ、邪のない縞模様を取り繕ったところで、人でなしにはちゃちな虚飾は通用しない。
「まさかとは思うが、お前……。ここら一帯はお嬢様が綺麗にさせたはずだろう?」
「チャバネゴキブリってさ、人の近くでしか生きられないんだぜ? 言い換えれば人が居ればあいつらも存在すんの。バイヤーなんてそんなもんだろ」
掴む手を振り払い、自由になった顔の横で両手をひらつかせた烏月は、控えめに舌を出し得意げに語る。その途端だ、橘の顔から表情が消えたのは。間を置かずに、大きな手のひらが馬鹿の横面に物申す。
床に耳を落とした烏月は、針金のような耳鳴りを聞いた。痛む左頬を抑え、身体を起こすや否や、止められない熱量を盛大に喚き散らす。
「いってぇな! いいだろ別に、お前には関係のない事だ、ほっとけよ。いつもいつも、人のこと馬鹿にしてんだ、たまには馬鹿の好きにさせろ」
「馬鹿の好きにさせてロクなことになるか? なってないだろう! 汚い害虫から何を買ってきた、今すぐに出せ」
自発を促すようで、橘の行動は強制でしかない。倒れた烏月に半馬乗りになりながら、ポケットと言うポケットを弄る。当然の成り行きとして、胸元に隠していたパケ袋は見つかってしまった。
「おい、これは何だ」
鼻先に突きつけられたユニコーンは、今にも泣いてしまいそうだ。
歯を緩く噛み合わせ舌を打つ。しかし、まっさらな怒りを惜しげもなく露わにした橘に歯向かう度胸があるはずも無く、渋々と歯と歯の間に隙間を開けた。
「ユニコーン」
「何が書いてあるか聞いているんじゃない。話の流れすら汲めなくなったのかお前の頭は」
「だから、ユニコーンって言うドラック。若い子に人気だってさ」
たくましい眉を片方持ち上げた橘は、釈然としない面持ちの目玉だけで、ユニコーンを見下ろした。
「趣味が悪い」
一言で切り捨て、錠剤の入った袋を力強く握りつぶす。
「グレシアのやつが、余計なことをするからだろう。それしか残ってなかったんだ、返せって。唯一の楽しみなんだから」
烏月は手の平を差し出し、薬を強請った。だが、与えられたのは身体を引き上げる温度だけ。
強制的に立たされ、さらには自立を強いられた烏月は、空ろになった手の平を持て余す。尻の汚れを叩き誤魔化そうとするが、気持ちに整理はつかない。
「こんなものが楽しみだ? あまりにも無関心がすぎる」
決めつける言葉は、聞いていた頭の中で、熱色に染まった二つの鉄塊となってぶつかりあった。
「お前に言われたかないね、それとも俺よりマシだと言うか、人でなしのお前が?」
皮肉を垂らしても、橘は厳しい面持ち崩さず、前から退こうとしない。
「お前だって、本当はここから消えて帰りたいんじゃないの、本当の主人の元に、いや、向こう側に。なぁ、わかるだろ? それは俺と向こうとを繋ぐ唯一の架け橋なんだよ、返してくれよ」
鉄の塊は暴れ出して、今にも頭から飛び出てきてしまいそうだった。
「狂ってんのか? 脳みそスカスカで狂ってたんだったな。向こうこの世界? 架け橋? いつもお前はどこに帰ろうとしている。そんなんだから、お嬢様がお前をちくちく刺すんだろう」
眉根を寄せる橘は、生え際を手のひらでゆっくりと揉みつつ橘は言う。これ以上の労働を憂いているかのような印象は、烏月を無理やりあるべき型に押し込めてしまう。
「お前、このドラックがもし、夢幻が作ったものだったらどうする。最悪、死ぬまで誰にも気づかれずに彷徨う事になるぞ?」
押し込められた型は、不器用に柔らかい。
窮屈ではあるものの身動きのきく型の中で、刃を持った喉に自由を与える決心はつかない。
「馬鹿な事をしていないで、仕事をしろ。いつまで経ってもお前から頼んだ報告書が上がってこないと、お嬢様が五月蝿い。早く黙らせてくれ」
吐き捨てた橘は、エレベーターで上階へと旅立っていった。独りきりになったエントランスで、烏月は小刻みに震える手を、隠しポケットの中に差し込む。
隠れていたのは、一袋のユニコーン。
「甘いよなぁ、人でなしのくせに」
夜の快楽を待ち望む烏月の足は、空を飛びそうなほどに軽く、オフィスへと向かって行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます