第二章 美しく、死せ
目を閉じている。
まるで寝ているように見えるが、もう動かない。
ベッドに横たわる女の体は、今しがたまで温かかった。
けれどもう、皮膚の温もりが、わずかに沈んでいる。
如月碧人は、白い指先で女の頬をなぞった。
死んだ直後の肌は、まだほんのりと湿っている。張りがある。
首筋に噛み痕があるのが、惜しかった。
「……違う。これじゃない」
静かに呟いた声が、アトリエに満ちる無音に沈んでいった。
アトリエと呼んでいるが、実際は都心から離れた古い一軒家の地下室だ。
機材。照明。ステンレスの作業台。冷却ケース。温湿度管理。防音処理。
全ては、美しさを永遠に保つために作り込んだ空間。
コンクリートの壁はグレーで統一され、床には吸音材が敷かれている。
壁際には他の“彼女たち”が静かに並んでいる。
誰も声を上げない。誰も、碧人を責めない。
「君は、すこし笑いすぎた。あと、目が違う。姉さんは……もっと静かだった」
ベッドの女に語りかけながら、彼は左手のグローブを脱いだ。
彼女は電車で見かけた女だった。
髪の揺れ方、まばたきの間隔、指先の所作――ほんの一瞬、「似ている」と感じた。
けれど、抱きしめてみれば分かる。
ちがう。これは姉ではない。姉の“写し”にすらなれない。
それでも、確かめてみる必要があった。
呼吸を止めさせ、静かに抱き寄せ、目を閉じさせてみる。
そうしてようやく、分かるのだ。
「これは、失敗だった」
彼は冷却装置を開き、死体をそこに移した。
整える。姿勢、髪、服、まぶた、指先。
死後硬直が始まる前の最適な角度で、体を形づくる。
まるで彫刻を彫るような手付きで。
「……ありがとう。でも、君は“姉さん”じゃない」
愛はある。
確かにある。
それでも、満たされない。
彼の内側には、何か“型”のようなものがある。
その型にぴたりとはまる女だけが、“永遠”にふさわしい。
棚の上の一輪挿しに、百合の花を添える。
死体の横顔に向けて、そっと手を合わせる。
「おやすみ。目覚めないままで、いてくれ」
彼は手を拭き、コートを羽織り、アトリエの階段を静かに上がった。
玄関を出ると、夜はまだ静かだった。
コンクリートの路地。湿った空気。
彼はスマートフォンを開き、先ほど撮影した写真をスクロールする。
電車の中。駅のホーム。会社の前――
黒髪の女。伏し目がちの横顔。
安曇遥。会社員。27歳。未婚。単身者。
彼女の笑い方。姿勢。部屋着。生活の匂い。
彼は少しずつ集めていた。彼女の“外形”を。
「……君かもしれない。姉さんの記憶に、いちばん近い」
声には喜びも、期待もない。
ただ、完成に向けた確認のような音色だった。
次こそ、間違えない。
そう、碧人は思った。
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