第35話 鍵盤と、あなたの横顔
朝の空気が、なんかこう、やたら平和だった。
トーストが焼ける匂い。スクランブルエッグのふわふわ感。
それから、ニュース番組のキャスターの穏やかな声。
私と
食器を片づけて、コーヒーを淹れた。
そのままソファに腰を下ろして、しばらくぼんやりとした時間を過ごす。
今日は白洲さんの家に帰ってきて、初めての休日。
窓から差し込む朝の光が、意味もなくロマンチックに見えてしまう。
テレビでは、ゆるめのバラエティが始まっていた。
白洲さんがマグカップを手に、何気なく言う。
「このバラエティ、先週もやってましたね」
「そうですね。再放送ばっかりで、もう“無限ネタバレ地獄”です」
「……無限ネタバレ地獄。なるほど」
「や、そんな真面目に納得されると恥ずかしいんですけどっ!」
他愛ない会話。淡々とした掛け合い。
だけど、それがやたら心地よかったりするの、ずるい。
なんかもう、こういうのが“幸せ”ってやつなんじゃないかって思う。
いや、たぶん違うんだけど。私が本当に手にしたかった形とは違うから。
でも……うん。きっとこれが、私たち二人の“正解”なんだ。
そんな時だった。ふと、奥に見えた一室に目が留まった。
「そういえば……奥のあの部屋、なんなんですか?」
白洲さんはマグカップをテーブルに置き、一息ついてから、ゆるくキッチンの方へ視線を向けた。
「ああ……防音室です」
「防音!? えっ、なんで!?」
「……近所迷惑になるから、でしょうか」
「いやいや、そうじゃなくって!! 何する部屋なんですか?!」
「大きい音を出す部屋です」
「んも~~ッ!!! 何をするために防音室があるんですかっ!?」
「ああ、なるほど」
白洲さんは、フフッと声が漏れそうな表情を浮かべると、私を部屋へと案内してくれた。
あれ? もしかして今の、わざとボケてた? うん?
……だとしたら、白洲さんのボケは高度すぎて、理解できる人が限られるやつかもしれない。
わくわくしながら入ったその部屋は、外からは想像できないくらい静かで、
そして——
ド真ん中には、立派なグランドピアノが鎮座していた。
「うそ、グランドピアノ……!? 白洲さん、弾けるんですか!?」
思わず声が上ずった。だってピアノって、いやグランドピアノって……音楽室でしか見たことないもん!
普通の家にあるピアノって、なんかこう、もっとタンスみたいな見た目してるじゃん! デカい! 凄い! 強い!!
無言で近づいていく白洲さん。その背中がやたら静かで、かっこいい。
「弾けるというほどでは。就職してから、雑談用に趣味をいくつか始めたんですが……そのうちの一つです」
「しゅ、趣味ってレベルじゃないですよ!? え、これ、いくらするんですか!?」
「知り合いから譲り受けたので、意外と安いですよ。設置やメンテは面倒でしたが」
「ほえ〜……」
「趣味のものは、ほとんど処分してしまったんですけどね」
白洲さんが遠い目をした。大切なものなのだろうか?
私はつい、問いかける。
「……でも、これを残してるってことは?」
「大きいので、保留にしていただけです」
「思い入れじゃなかったんかい!」
つっこまずにはいられない! なんなのこの人、そういうとこだよ!
私がプンスコしていると、白洲さんは淡々とピアノの前に座った。
「……少しだけ、弾きましょうか」
「えっ、弾いてくれるんですか!? うそ、やった!!」
テンションが急上昇する私をよそに、白洲さんの指が静かに鍵盤に触れる。
ぽろん。
その音が響いた瞬間、胸の奥のなにかが、ぴくりと動いた。
流れ始めたのは、聞き覚えのあるメロディ。
あれだ、テレビでよく流れてるあのJ-POPのバラード。切ないけど、温かくて、懐かしくて。
私はそっと、ピアノのすぐそばの椅子に腰を下ろす。指の動きが滑らかで、優しくて、息を呑むほど綺麗だった。
音が部屋いっぱいに広がっていく。低音が空気を震わせて、やがて高音がそれを包みこむ。
その重なりが、まるで朝の光みたいにやわらかくて――気づけば、呼吸を忘れていた。
白洲さんの横顔は、いつもの無表情なのに、不思議と穏やかで。
眉の動きひとつ、まぶたの揺れひとつが、全部“音”に見えた。
なんだろ。ずるいな。
ずるいよ、白洲さん。そんな顔、するなんて。
曲が静かに転調した。
流れが変わるのを感じて、そこでようやく、私は我に返る。
「……あの」
演奏が続くなか、思わず声が漏れた。
「白洲さん、あの……いつメロディ弾くんですか?」
数秒の沈黙。そして、さらっとした返答。
「会社の忘年会用に練習しただけなので、伴奏だけですよ」
……え?
「伴奏!? え、これ全部!? メインどこ!?」
「この辺でサビでしたかね」
「じゃあ、せめて歌ってください!」
「キー的に厳しいので無理です。ボーカルは、女性社員の方が担当でした」
「あーもう! じゃあ私が歌います! もう一度サビからお願いします!」
思わず立ち上がって、白洲さんを見つめて待つ。
「……どうぞ」
「
白洲さんの伴奏に合わせて、歌った。
笑いながら、ちょっと音を外しながら、思いきり歌った。
ピアノの音に包まれて、白洲さんの横顔をちらっと見て、なんかもう胸がきゅってなるくらい楽しかった。
これが恋じゃないなら、じゃあ何なのって思うけど——。
……何なんだろう。
そんな、休日だった。
* * *
私は今、すごく楽しいと思っている。
だけど、この時間に“終わり”があるって、ちゃんと分かってる。
白洲さんは優しい。真面目で、ちゃんとしてて、そして——
「好きだよ」なんて、言うことはない。
この恋は、たぶん叶わない。叶えてはいけない。
それでも——ほんの少しだけ。
好きな気持ちは、抱えていたいと。
そう、思った。
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