第29話 茜色の海に、言葉を浮かべて
水族館からの帰り。私たちの間には心地よい空気が流れていた。
初めて会ったときは真顔でほほ笑むだけだった白州さんも、今ではたまに――すっごくたまにだけど声を少しだけ出して笑う。
そしてヴィラに着いたときはもう夕暮れで、浜辺には風が吹いていた。空は茜色に染まり、波打ち際のきらめきも、少しだけ優しくなっていた。
今日の空は、私の覚悟に寄り添うように、少しずつ色を変えていく――そんな気がした。
「少しだけ、海歩きませんか?」
ヴィラで少しゆっくりしたあと、私は白州さんを誘い出す。先延ばしにしようとか、そんな気持ちにならないように即行動、即言語化。これきっと大事っ!
外に出ると風が止まった気がした。何となく、重い空気に変わったような気も……した。
でもそれとは対照的に私の心臓はドキドキと早く脈打っている。
「……今日は、楽しかったです」
並んだまま、そっと声をかけてみた。振り向いた
「私も、そう思います」
この“心地よい関係”が、私は大好きで。永遠に続けばいいと思っている。
でも、それだけじゃ――私は、足りない。
やがて波打ち際についた。ふいに足を取られた私を
私はこの人を――ちゃんと、恋人にしたいんだ。
私は1歩だけ距離を取って白州さんの顔を見上げる。……思ったより身長差がキツかったのでもう1歩だけ下がる。そこ!笑わない!
「
「はい」
潮の香りを運ぶ風が、ふたりの間をやさしく撫でていく。茜色の光が
この空の下で、私はこの人に想いを伝える。そう決めた今、世界の主人公は間違いなく自分だ――そんな気分になる。
私は、まっすぐに
「私……
風がひとつ、潮の匂いを残して通り過ぎた。打ち寄せる波の音だけが、静かに時を刻んでいる。
まるで、時間が止まったみたいだった。今日という日は、私の人生の中でいちばん――鮮やかで、大切な瞬間。そう、記憶に刻まれるのだろう。
――そのはず、だったのに。
「
名前を呼ばれて、私はハッとする。その声に、現実へ引き戻された気がした。
「我々は……同居人として、とても相性が良いのかもしれません」
「わたしも、そう思いますっ!」
嫌な予感を振り払うように、私は元気に答えた。でも、返ってきた言葉は――もっと深くて、冷たいものだった。
「ただ……私は、欠陥人間なんです。……やはり、恋愛というものが、どうにも理解できなくて」
「じゃあっ、付き合ってから知っていけば良いんじゃないですかっ!? 関係性が変われば、気持ちにも変化が出たりとか……!」
思いつく限りの言葉を、私は投げかける。必死だった。なんでもいいから、繋ぎとめたかった。
「全部逆!みたいな? 同棲から始まって、次は恋人になって、それから――」
「
その声は、ひどく穏やかで、やさしくて。でも、もう手の届かない場所にいる人の声だった。
「
胸の奥が、ふっと、空洞になった気がした。
涙は――出なかった。驚くほど、まったく。
でも、心のどこかがバラバラに砕ける音だけは、たしかに聞こえた。
信頼も、絆も、少し手を伸ばせば届くと思っていた全部が――粉々の破片になって、私の胸に突き刺さっていく。
そしてそのまま、音もなく、静かに消えていった。
……。
ヴィラへ戻る道すがら、私は一言も発さなかった。
夜空には星が滲んでいた。けれどもう、それを見上げる余裕なんて、私の中には残っていなかった。
部屋に戻ると、エアコンはすでに修理されていた。冷たい風が、部屋の中を静かに循環している。
――その涼しさが、心に沁みるように冷たく感じた。
扉を閉める音が、いつもより少しだけ、重く、鈍く響いた。
別々の部屋。ひとりきり。静寂は、こんなにも重たいものだったんだ……。
私はベッドに横たわるでもなく、ただ膝を抱えて座り込む。天井を見上げる気力も、スマホを手に取る気にもなれなかった。
泣けば少しは楽になれるのかもしれない。でも――涙は、出なかった。
不思議なくらい、出なかった。
ただ、胸の奥が、ゆっくりと崩れていく感触だけがあった。静かに、静かに、何かが壊れていく。
呼吸が浅くなる。喉の奥に小さな棘が刺さったみたいで、空気を吸うたびに、かすかに痛い。でも私は、声を出すこともできず、ただその痛みと一緒に夜へ沈んでいった。
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