第29話 茜色の海に、言葉を浮かべて

 水族館からの帰り。私たちの間には心地よい空気が流れていた。

 初めて会ったときは真顔でほほ笑むだけだった白州さんも、今ではたまに――すっごくたまにだけど声を少しだけ出して笑う。

 そしてヴィラに着いたときはもう夕暮れで、浜辺には風が吹いていた。空は茜色に染まり、波打ち際のきらめきも、少しだけ優しくなっていた。

 今日の空は、私の覚悟に寄り添うように、少しずつ色を変えていく――そんな気がした。


「少しだけ、海歩きませんか?」


 ヴィラで少しゆっくりしたあと、私は白州さんを誘い出す。先延ばしにしようとか、そんな気持ちにならないように即行動、即言語化。これきっと大事っ!

 白洲しらすさんは、私の意図を読み取ったのか、読み取っていないのか――そのあたりは、正直よくわからなかったけど、静かに頷くとソファからゆっくりと立ち上がった。

 

 外に出ると風が止まった気がした。何となく、重い空気に変わったような気も……した。

 でもそれとは対照的に私の心臓はドキドキと早く脈打っている。

 白洲しらすさんは、私の少し前を歩いている。歩幅の違いを気にしてか、何度も振り返ってくれる――そのさりげない優しさが、今は少しだけ胸にしみる。


「……今日は、楽しかったです」


 並んだまま、そっと声をかけてみた。振り向いた白洲しらすさんは、やっぱりあの、どこか遠慮がちな笑顔で――


「私も、そう思います」


 この“心地よい関係”が、私は大好きで。永遠に続けばいいと思っている。

 でも、それだけじゃ――私は、足りない。

 

 やがて波打ち際についた。ふいに足を取られた私を白洲しらすさんが支えてくれる。私の中の何かが壊れて、私はそのまま白州さんを抱きしめた。

 私はこの人を――ちゃんと、恋人にしたいんだ。

 

 私は1歩だけ距離を取って白州さんの顔を見上げる。……思ったより身長差がキツかったのでもう1歩だけ下がる。そこ!笑わない!

 

白洲しらすさん」

「はい」


 潮の香りを運ぶ風が、ふたりの間をやさしく撫でていく。茜色の光が白洲しらすさんの横顔を染めて、その輪郭が、なんだかやけに綺麗に見えた。

 この空の下で、私はこの人に想いを伝える。そう決めた今、世界の主人公は間違いなく自分だ――そんな気分になる。

 私は、まっすぐに白洲しらすさんを見上げて。


「私……白洲しらすさんのこと、好きです」


 風がひとつ、潮の匂いを残して通り過ぎた。打ち寄せる波の音だけが、静かに時を刻んでいる。

 まるで、時間が止まったみたいだった。今日という日は、私の人生の中でいちばん――鮮やかで、大切な瞬間。そう、記憶に刻まれるのだろう。


 

 ――そのはず、だったのに。


 

 白洲しらすさんの顔が、ふと、曇ったように見えた。視界の色が、ゆっくりと、失われていく。


心愛ここあさん」


 名前を呼ばれて、私はハッとする。その声に、現実へ引き戻された気がした。


「我々は……同居人として、とても相性が良いのかもしれません」

「わたしも、そう思いますっ!」


 嫌な予感を振り払うように、私は元気に答えた。でも、返ってきた言葉は――もっと深くて、冷たいものだった。


「ただ……私は、欠陥人間なんです。……やはり、恋愛というものが、どうにも理解できなくて」

「じゃあっ、付き合ってから知っていけば良いんじゃないですかっ!? 関係性が変われば、気持ちにも変化が出たりとか……!」


 思いつく限りの言葉を、私は投げかける。必死だった。なんでもいいから、繋ぎとめたかった。


「全部逆!みたいな? 同棲から始まって、次は恋人になって、それから――」

心愛ここあさん」


 その声は、ひどく穏やかで、やさしくて。でも、もう手の届かない場所にいる人の声だった。


心愛ここあさんには、もっと素敵な人と、ちゃんと恋をしてほしい。……私は、その相手にはなれません。本当に、申し訳ございません」


 胸の奥が、ふっと、空洞になった気がした。


 涙は――出なかった。驚くほど、まったく。


 でも、心のどこかがバラバラに砕ける音だけは、たしかに聞こえた。


 信頼も、絆も、少し手を伸ばせば届くと思っていた全部が――粉々の破片になって、私の胸に突き刺さっていく。


 そしてそのまま、音もなく、静かに消えていった。


 ……。

 

 ヴィラへ戻る道すがら、私は一言も発さなかった。白洲しらすさんもまた、沈黙を守っていた。

 夜空には星が滲んでいた。けれどもう、それを見上げる余裕なんて、私の中には残っていなかった。


 部屋に戻ると、エアコンはすでに修理されていた。冷たい風が、部屋の中を静かに循環している。

 ――その涼しさが、心に沁みるように冷たく感じた。


 扉を閉める音が、いつもより少しだけ、重く、鈍く響いた。


 別々の部屋。ひとりきり。静寂は、こんなにも重たいものだったんだ……。


 私はベッドに横たわるでもなく、ただ膝を抱えて座り込む。天井を見上げる気力も、スマホを手に取る気にもなれなかった。

 泣けば少しは楽になれるのかもしれない。でも――涙は、出なかった。

 不思議なくらい、出なかった。


 ただ、胸の奥が、ゆっくりと崩れていく感触だけがあった。静かに、静かに、何かが壊れていく。


 呼吸が浅くなる。喉の奥に小さな棘が刺さったみたいで、空気を吸うたびに、かすかに痛い。でも私は、声を出すこともできず、ただその痛みと一緒に夜へ沈んでいった。

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