■第20話 酔った理由
ひよりは仕事終わりに依子と食事を終えた後、バーにでも行こうと向かっているところだった。
「心ここにあらずって感じだねぇ」
「……え?」
「ほら。聞いてなかった」
ひよりの反応が遅れたら、依子は声高に言い返してくる。
「聞いてたよ。……ただぼーっとしてるだけ」
「それが心ここにあらずって言ってるの」
芯を食ったことは言えそうもなく、言い返す気力もなくて、黙り込んだ。
「何かあったの?」
「……別に何も」
本当に何もない。
あったことと言えば、旭と休日にデートをしただけ。
恋人同士なら普通のことだ。
そもそも、何かあったか訊かれてまず旭のことに紐づく時点で、何がひよりを上の空にさせているかは明白だ。
ひよりはため息を吐き、依子に白状することにした。
「……恋愛に慣れてなさすぎることを、日々自覚してるだけ」
「なるほどねぇ」
依子は想像通り、ニヤニヤと面白そうな様子だ。
だから言いたくなかったと思いつつ、言ってしまって心が軽くような感じがして、依子に聞いてほしかったのだと納得もした。
「もっと穏やかな恋愛ができるのかと思ってたけど、ちょっと違うというか……」
「あれ? 深い沼に落ちちゃった?」
依子はずっとひよりが恋に落ちることを期待していた。だからか、からかうというより、喜びを強く感じて、ひよりはうっすらと笑みを浮かべるだけに留めた。
友達から付き合うように勧められて付き合うことになったとは思えないくらい、付き合い始めたときよりずっと旭のことを好きになっている。
自分がこれほど深い沼にはまるとは思っていなくて、困惑が大きい。
「あっ、式島さん……」
依子の視線が遠くを捉える。
――これは完全にからかわれている。
そう思ったひよりは本気に取らなかった。
「もうっ。からかうのはやめ、て……」
依子の腕を叩こうとして手を胸の辺りまで上げつつ、依子の視線の先をたどれば、スーツとオフィスカジュアルの男性二人が視界に入る。
「えっ……」
上げた手は、依子の腕にすがるように添える。
「やっぱり式島さんと福浦さんよね?」
依子は駆け足になり、二人に近づいていく。
「ちょっとっ……」
ひよりの手から依子の腕は離れていき、慌てて依子の後をついて駆けた。
駆けてくる女性二人が視界に入ったらしい。諒大の顔が依子とひよりに気づいた。
「稲場さんと海藤さんじゃないですか」
諒大は旭の腰に手を回して旭を支えていた。
「また酔ってるんですか?」
ひよりは思わず非難の色が滲んだ声が出た。
「そうなんですよ。大変で」
諒大は、間髪入れず、大げさなくらい大きなため息を吐いて言う。
「ただふらついただけだ。変な言い方するなよ」
旭は顔を伏せていただけで、どうやらそれほど酔いは回っていないようだった。
「そんなこと言って、ふらつくくらいだろ」
――嫌な感じがする。
隣の依子が、何も言わずに窺っている様子なのも、胸中をざわつかせる。
「だから、稲場さん、旭を連れて帰ってくれませんか?」
「え?」
「実は、今から用事があって困ってたんですよ」
取り繕った笑みは絶対嘘だ。
……いや、絶対はないけれど。
「それは大変ですね。ひよりなら家も知ってるし、大丈夫よね」
「え、ちょっとっ」
ひよりは前にいる諒大と横にいる依子を交互に見やり、慌てふためく。
彼氏が友達に迷惑をかけていたら、手を差し伸べるのが筋のような気はする。
諒大は「何だったらタクシー呼びますよ」と言って、スマホを取り出して、電話をかけようとし始めた。
「いい。歩いて帰れる」
旭は諒大の手を掴んで、スマホの操作を止めた。
「……そうか」
諒大はスマホをポケットにしまった。
ひよりは旭の顔を見る。
きまり悪そうに逸らされていた目が、そこで初めて出会った。
旭は、会話には入れないほどには酔っているが、会話を聞けるほどには酔っていないらしい。
眠そうではあるが、確かに目が合っている。
困惑して依子を見れば、依子は何も言わずに微笑み、頷くだけだった。
結局、その後は、ひよりにお任せといった具合で、諒大も依子も帰ってしまった。
近くの公園まで歩いて向かううちに、旭の酔いは覚めてきて、会話ができるほどになっていた。
公園のベンチは、いつも諒大と酔い覚ましに来る場所だと、旭は教えてくれた。
「またこんなところを見られちゃったな」
隣に座る旭は苦笑して言った。
「たくさん飲んだら眠くなるって分かってるなら、外でそんなに飲まなきゃいいのに」
「……ごもっともです」
まるで怒られた子どものように身を縮めて言うから、ひよりはクスッと笑った。
「ひよりちゃんは飲んだ?」
「少しだけ。本当は今からバーに行って飲もうとしてたところだったので」
「そっか。それは悪いことしたね」
「いえ」
旭に出くわした驚きで忘れていたが、依子とバーに行くつもりだったのだ。
依子の思う通りに事が進み、ほくそ笑む顔が思い浮かんで、すっきりとしない。
「そしたら……飲みに行く?」
「何でそうなるんですか! 旭さんは早めに帰って寝てください」
驚きで目を見張ってまくし立てるように言うと、旭が呆気に取られた顔をした。
ひよりに配慮してくれたのだ。それにしては強く言い過ぎたかと思って、弁解の言葉を探していたら、旭が唐突に笑い出した。
「そうだね」
不快感というより、困惑が大きかった。
「……何がそんなにおかしいの?」
旭はますます笑みを濃くする。
「いや、おかしいんじゃなくて、嬉しくて」
「え?」
「名前、自然に呼んでくれたから」
「あ……」
完全に無意識だった。
脳内では“旭さん”と呼びながら、発声はほとんどできていなかったのだ。
名前を呼ぶだけで、これほど嬉しそうにするなんて、どれだけひよりのことが好きなのだろう。
「ひよりちゃん」
甘さを孕んだ声で改めて名前で呼ばれて、心臓が跳ねる。
「うちで飲むのはどう?」
ひよりはごくりと唾を呑み込んだ。
「まだひよりちゃんと話したいし、家なら二人で飲めるでしょ?」
酔っているからか、いつもよりも表情が緩んで見えて、可愛らしかった。
下心を感じない、純粋な理由に聞こえる。
いや、下心があってもいいのだ。ただ、見えない方が、快諾しやすいというだけだ。
「……じゃあ、お酒買って帰りますか」
旭は、自分で誘ったくせに、少しだけ驚いた顔をしてから、すぐに破顔した。
旭の家へとやって来るのは、花火大会以来である。
順調に恋人として段階を踏んできていて、旭の家を訪ねることにも抵抗はなくなってきている。
そうはいうものの、今回はキスはするのだろうかとか、いつ次の段階に進むのかとか、さすがに30代の大人が何も考えないわけがなくて、緊張もしていた。
途中でディスカウントストアに寄って買ったのは、缶ビールや缶チューハイではなく、瓶に入った少し高めのお酒だ。甘いお酒が飲みたいというひよりの意見を聞いた旭が、甘くてジューシーな白桃を丸々1個分使用した桃のお酒を選んでくれた。
旭の自宅のテーブルの上に置いて、改めて桃の絵が書かれた瓶を見て、頬が綻んだ。
お酒の他、おつまみもローテーブルに並べて、並んで座る。
旭のシャツのボタンは第二ボタンまで外れており、はだけて鎖骨が見える状態だ。髪も乱れており、色気があふれている。
しかも、酔っているせいか、距離感が近く、ずっと肩や腕など、体のどこかが触れている状態だった。
旭が準備してくれた氷を入れた二つのグラスに、とろりとした桃のお酒を注ぐ。ひよりはグラス半分ほど注いで手を止めた。
「これだけね」
「えぇ?」
アルコールで陽気な旭は、いつもより反応が大きい。
「じゃあ……一杯だけね」
嬉しそうに破顔する旭を見ていると、際限なく与えてしまいそうだった。目線をグラスに戻して、追加でお酒を注いだ。
乾杯して、お酒を口に含めば、桃を食べているかのようだった。
とろりとした舌触りで濃厚。後味はすっきりしており、いくらでも飲めそうだ。
アルコール度数も低くはないので、飲みすぎはよくない。飲みすぎないために、ドライフルーツに手を伸ばした。
「旭さんは家では何飲むの?」
酔っていると思ったら、自然と名前も呼べるし、敬語も外せた。
「柑橘系のお酒が好きで、レモンサワーが常備してあるよ」
振り返れば、旭がバーで飲むカクテルは、レモンやライムの輪切りがグラスの縁に彩られていることが多かった気がする。
「最近好きなのがあって……よかったら飲む?」
「どんなの?」
「ちょっと待ってて」
旭は立ち上がり、冷蔵庫まで行くと、缶ではなく、瓶を持って戻ってきた。
旭はラベルをひよりに見せるようにして、テーブルに置く。
「レモン梅酒?」
「そう。飲んだことある?」
「ない」
一般的に想像する梅酒の色より黄色味が強く、レモンを想像してじわじわと唾液が出てくる。
「飲んでみない?」
「うん。飲みたい」
ひよりが即答すると、旭は微笑んで、新しいグラスに氷を入れて持ってきた。
旭が注いでくれ、見守られながらグラスを持ち上げた。
口元に近づけると、梅の香りが鼻をくすぐる。
グラスの縁に唇をつけ、傾ける。口に含めば甘く、酸味と渋みが後を追ってやってくる。
「……どう?」
「うん。おいしい!」
「好き?」
「うん」
「よかった」
ひよりはまた一口飲んでみる。
甘いだけではない、酸味と渋みが癖になる感じだ。
梅酒を味わっていると、隣で旭が自分のグラスに梅酒を注ごうとしていることに気づいた。
「ちょっと待って」
旭は、言葉より少し遅れて、ひよりの方を見た。
「もうやめた方がいいんじゃない?」
「そんなに飲んでないよ」
バーで酔ってふらついたことを微塵も反省していない様子だった。
ひよりは、瓶を掴む旭の手の上に手を重ね、持ち上げられないようにする。
旭は残念そうな顔をして、ひよりを見つめてくる。
その顔を見ていると、自分が悪いことをしているようで、罪悪感を覚える。
ちゃんと会話は成り立つし、旭が言うように、酔い潰れるほどには飲んでいないのかもしれない。
「……最後の一杯だよ?」
旭がにっこりと笑って、ひよりは苦々しく笑った。
喜ぶ顔も見られるから、結局、貫けなくて折れてしまう。
「絶対最後だからね」
ひよりは念押しをして、旭がグラスに注ぎ終わったことを確認すると、テーブルの上に置いている瓶と炭酸水の入ったペットボトルを冷蔵庫に片付けた。
ひよりはソファーに腰掛け、お酒を飲む旭を少し上から見つめる。
お酒はもちろん好きだが、お酒を飲む雰囲気の方が好きだ。
時間がゆったりと経過して、リラックスできる。
「泊まってく?」
脈絡もなく、突然の問いが飛んできて、ひよりはまず自分の耳を疑った。
旭はグラスをテーブルに置き、ひよりに向き直る。
「今日はひよりちゃんを送ってあげられないから」
――そういう理由なんだ……。
改めて、時間を確認すれば、もう遅い。電車で帰るならそろそろ帰らなければならない。
「どうする? 泊まる? 泊まらない?」
「あ……えっと……」
甘ったるいほどの旭の声が、思いの外、ひよりを動揺させた。
ひよりは旭を真っ直ぐに見つめ返せない。
「困らせたいわけじゃないから。好きな方を選んでくれたらいいよ」
旭は飄々としていて、本当にひよりがどちらを選んでもいいと委ねてくる。
泊まりたいのか。
泊まりたくないのか。
泊まりたくないことはない。
では、泊まりたいのか。
自問自答を繰り返しているうちに、時間は経つ。
旭が笑う気配がして、思考が停止する。
そこで、久々に旭の顔をまともに見た。
「ひよりちゃんはそれが困るタイプだよね」
旭は珍しく意地悪く口角を上げて見せた。
ひよりは目を瞬かせる。
旭はいつでも選択肢をくれる。その上で、ひよりが困っていたら、これがいいのではないかと自然と選択肢を絞ってくれる。
それなのに今は、困っていることが分かっているのに、ただひよりの答えを待っている。
旭の顔を見ていると、段々腹が立ってきた。
元はと言えば、酔った旭に会ったせいで、旭の自宅に来ることになったのだ。泊まる覚悟なんてしてきていないのだ。急にそんなことを求めないでほしい。
「……じゃあ、どうしてほしい?」
ひよりの口から出た声は思ったよりもずっと挑戦的だった。
旭よりもずるいのはひよりだ。自覚がある。
旭には動揺が見えない。ひよりを見つめたまま、立ち上がってひよりの隣に座る。
ソファーが小さく上下に揺れた。
「どうしてほしいか言ったら、その通りにしてくれるの?」
顔を覗き込まれて囁くように言われる。
旭の言葉は優しいのに、挑発するようだった。
「ひよりちゃん」
熱がこもった目で見つめられ、甘い声で名前を呼ばれたら、その気にもなる。
「……もうちょっと飲む」
ひよりは旭の視線を避けるようにしてソファーを滑り降り、まだ梅酒の残っているグラスを手に取る。
逃げたのは明白だった。弁解する余地はない。
旭の視線は感じるが、どうか答えは曖昧に濁させてほしい。
祈りながら、梅酒を流し込む。
もっと酔えていたならよかった。
旭は酔えているから強気に出られるのだ。
もっと酔えていた場合を冷静に考えてみた。
可愛く甘えられるとも思えないし、前後不覚になるほど酔えば失態を晒して後悔し続けることになることは目に見えている。
どう考えても、理性を保った今の方がずっとマシだった。
「俺のも飲む?」
考え事をしていたせいで、旭がソファーから立ち上がっていたことに気づかなった。だから、急に隣から声がして驚いた。
「俺にはもう飲んでほしくないんでしょ?」
旭は酔ったら眠くなるだけのタイプだと思っていたのに、意地悪になるタイプでもあるらしい。
これが素だとしたら、たちが悪い。
「……飲む」
ひよりが小さな声で答えると、旭はにっこりと笑って、グラスを手に取り、梅酒を呷った。
どうして、と思ったときには、旭の顔が息がかかるほど近づいていた。
とっさに顔を引いて唇に手の甲をぴたりとつけて防ぐが、旭は構わず唇を寄せて来る。ひよりは手のひらで旭の唇を受け止めた。
手のひらに触れる唇の感触は生々しくて、唇が触れ合うよりもドキドキしたかもしれない。
離れた旭の喉仏が上下するのが目に入る。
それから、旭の目が開き、ひよりの目を捉える。
心臓が強く拍動して、普段通りに戻る気がしない。
「自分で飲んじゃったじゃん」
旭が真面目な顔をして言うものだから、ひよりは謝りそうになって、慌てて言葉を呑み込んだ。絶対謝るのは自分じゃない。
「……自分で飲むから」
何とか絞り出すように言ったのに、旭は「そう? 残念」と呆気ない返しだった。
ひよりはさっきまで飲んでいたグラスを掴み上げ、ごくごくと飲み干した。
何をしても旭の視線を感じて、居心地が悪い。
お酒を冷蔵庫に片付けたのは間違いだった。自分用に残しておくべきだった。今更後悔しても遅い。
「どうぞ」
旭は自分のグラスをひよりに差し出した。
そのグラスを遠慮がちに受け取り、口をつける。
その間もずっと、旭は笑っているから、飲みづらい。
途中からは、旭に背を向けるように体を動かして、飲んだ。
さすがに入れたばかりの梅酒は、氷が溶けておらず、濃い。ジュースのように飲んでいたら、あっという間に酔いが回ってしまう。
ひよりはペースを落として、ちびちびと飲んだ。
後ろが静かだなと思って振り返ると、旭はソファーにもたれるようにして、うとうとしていた。
「え……」
信じられなくて、本当に寝ているのか、角度を変えて凝視する。
機嫌よく緩んだ表情に、少し開いた唇が妙に色っぽくて、寝ているかを確認していたはずなのに、見とれていた。
――いけない。このまま見ているだけで夜が明けてしまう。
それくらい長い時間でも見ていられそうだったが、さすがに時間を持て余しすぎだ。旭が起きたときに、何と説明をするかも困るに違いない。
「旭さん」と何度か呼びかけると、反応はあるものの、声になっていない。
「泊まるかどうか答えてないのに、寝ちゃうんだね」
思いの外、残念そうな声色が自分から発されて、しかも、起こさないように音量を抑えた声で、苦笑した。
旭の肩をとんとんと叩いてみる。
「ここで寝たら駄目だよ。せめてソファーの上で寝た方がいいよ」
しかし、旭はうーんと唸るだけで、動く気配はない。
「困ったな……」
このままの体勢で寝てしまったら、起きたときに全身が痛いに違いない。
ソファーではなく、ラグの上でもいいだろうか。
ひよりは旭をラグの上で横にすることに決めた。
頭は打たないように手を添えて気をつけながら、片方の腕を引っ張るようにして、ゆっくりとラグの上に寝かせる。
優しくしたつもりだが、起こすほどの刺激にはなり得たようで、舌っ足らずな声で名前を呼ばれた。
そしてその声は「一緒に寝ようよ」と続ける。
手が伸びてきて、肩を掴まれ、引き寄せられた。
酔っているからと油断していたせいで、ひよりは簡単にバランスを崩し、旭の胸に飛び込むことになった。
逃さないとでも言うように、旭の手がひよりの頭を撫でる。
酔っているときは本音が出る。
一緒に寝たいというのが本音なら、旭はひよりに泊まってほしかったと思っていいのだろうか。
旭の顔を目線だけ上げて確認する。目は開いていない。
そのうち、寝息が聞こえてきた。
頭に添えられた手もするりと滑り落ちて、ひよりは動けるようになった。
上半身を起こして、旭を見下ろす。
重くないかが気になって、旭のぬくもりをあまり感じられなかった。
一瞬、残念な気持ちがよぎったが、寝ぼけている人に抱き締められたとして、自分だけが覚えているかと思うと、それはそれで寂しいと思い直す。
気を取り直し、旭に何かかけるものを探すことにした。
見渡す限り、リビングにはない。隣は寝室だと、初めて来たときにドアから盗み見た。寝室ならあるかもしれない。
申し訳なく思いつつも、寝た旭さんが悪いんだからねとぶつぶつ言いながら、寝室のドアを開けた。
暗い部屋に一筋の光が差し込み、その光が広がっていく。
すぐにベッドが目に入り、その上に、畳まれたブランケットがあった。
他には目もくれず、寝室へと数歩踏み込んでそれを掴み取る。
ただそれだけなのに、心拍数が上がっていた。
落ち着かせようとブランケットをひしと抱き込むと、ふわりと香るのは柔軟剤の香りだ。それだけじゃなく、先程胸に顔を埋めたときと同じ、旭の匂いもする。
そのせいで、全然落ち着かなくて、ひよりはブランケットを手放そうと、そそくさと旭の元へ近づき、ブランケットをふわりと掛けた。
ひよりは、旭の穏やかな寝顔を見て、微笑む。
「あ、ハンカチ……」
ふと思い出したのは、持って帰り忘れたハンカチのことだった。
また受け取り損ねてしまったと、クスッと笑う。
――いや、笑っているところではない。
部屋の主は眠っており、この後どうするかはひよりの判断に任されている。
帰るとして、鍵を締めずに家を出るなど、不用心なことはできない。
今度は鍵を探さなければならないかと思ったら、気が重くなる。
先程からずっと、宝探しのようなことを繰り返している。
鍵を置く場所と言ったら、どこだろう。
まずは玄関に行ってみるが、特に見当たらない。
防犯上、玄関に置いておくのは得策ではないからかもしれない。
リビングにもそれらしいものはあっただろうか。
リビングに引き返して、胸の辺りまで高さのある本棚の上に目をやると、トレーが目に入る。その上には腕時計が置かれていた。
あるとしたら、この辺りだろう。
見当をつけてくまなく探そうとして、あるものに目を奪われる。
それは、一段目の並んだ本の横にあったものだ。
どくどくと心臓が早鐘を打ち出す。
探しているのは鍵だ。元来気にする必要のないものなのだ。
それなのに、目が離せない。
何故かと言えば、それがリングケースだったからだ。
旭はもう指輪をつけていない。
つけていた指輪はなくしたはずだ。
――そうだ。元々あっただけで、中身はないのかもしれない。
安心したいなら、リングケースを開けて、中身を確認すればいい。
しかし、中身があったらどうだ。安心どころか、不安や不信感に苛まれるに違いない。
走ってもいないし、歩いてもいない。ただ、じっとリングケースを見つめているだけなのに、息が上がる。
ひよりはおずおずとリングケースに手を伸ばす。
勝手に見るなんて、彼女だからといって許されることではないかもしれない。
それでも、そこで見ない選択は取れなかった。
左手の上に載せたケースを、右手で慎重に開く。
そこには、彫りのないシンプルなシルバーの指輪が鎮座していた。
――見つけてしまった。
一番見つけなくていいものを、見つけてしまった。
ここまで、元婚約者の痕跡を全く感じなかったのに、元婚約者と買った指輪を見つけてしまった。
指輪一つあるだけで、もう圧倒的な圧倒的存在感だった。
手が震えて落としてしまう前に、ケースを閉じて元に戻す。
両手の指を絡めるようにして胸の前で握る。
――どうして……?
ひよりの衝撃は静まらない。
旭はひよりに指輪をなくしたと嘘を吐いたのか。
いや、そのときはなくしていたのかもしれない。見つかった時点でひよりに報告するのも変な話だ。
しかし、処分せず、丁重にリングケースへしまわれているのは、完全に未練だ。
未練は指輪に? それとも、元婚約者に?
そもそも、処分するべきなのか。
思い出として残しておいてもいいのではと提言するくらい、寛容な彼女であるべきなのではないのか。
……いやいや、自分で自分に追い打ちをかけるようなことを考えてどうする。
諒大の言う通り、旭が何もないのに酔わないのなら、今夜の旭に一体何があったというのだろう。
実は、元婚約者との思い出の指輪を見て、気持ちが揺らいで、酔うほど飲んだのではないのか。
突飛した考えではない気がする。
旭も、ひよりと同じ気持ちだと思っていたのは、勘違いだったのだろうか。
ひよりは振り向いて、旭の方を見やる。
「どうしてそんなに酔っちゃったの?」
丸まった背中は、何も教えてはくれない。
自分の泣きそうな声を聞いて、泣きたくなった。
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