□第16話:恋に臆病

「相変わらず殺風景な部屋だな」


諒大は旭の家に入るなり、つまらなさそうに言った。


「殺風景か? 諒大の家が物ありすぎなだけだろ」


そもそも部屋は見て楽しむ場所ではなく、生活するための場所だ。

飾りっ気のない部屋の方がリラックスできていいではないか。


「それもそうか」


旭はキッチンへと向かい、おつまみを載せる食器を選びにいく。


「もしかして、稲場さん、家に来た?」


アルコールやおつまみを入れたビニール袋をローテーブルへと置いた諒大が、ぽつりと言った。


「何で?」


諒大は察知能力が高いため、当てずっぽうと思い切れなかった。動揺を見せないように訊き返す。


「これ、忘れ物じゃない?」


諒大が指差すのは、ソファーの上に畳んで置いている洗濯物だ。

それを見て、旭はハッとした。

明らかに旭の趣味ではない、縁にレースの施されたハンカチが、一番上の見えるところにあったからだ。


ひよりが、浴室乾燥させた服を着替えるときに、落としてしまったようだった。

その下には、洗濯して持ってくると言うひよりをなだめ、置いて帰らせたTシャツとスウェットが重なっている。


「旭もやるなあ」


「何想像してんだ。何もない」


にやりとしている諒大を見るのは気分が悪かったので、目を逸らした。


「何もないって、家には来たんだろ」


「食事してお酒飲んだだけだよ。泊まらず帰った」


「ふーん」


食器を持って、諒大の元に行くときも、諒大の視線は旭を追いかけてくる。


「……何だよ?」


「わざわざ“泊まらず帰った”なんて言うってことは、泊まりも意識してたわけだ?」


「……どうかな」


「分からないとか、子どもみたいなこと言うなよ?」


旭はため息を吐く。

何でこんな話を諒大にしなければいけないのだろうと思いつつも、結局は話してしまう。


「最初はそんな気なくて、途中から泊まることも考えて来てくれたのかと思ったら、意識せざるを得なくなった」


「それでも帰したんだな?」


「ああ」


あの日の夜、宣言通り、車で送り届けた。

事前にひよりに言っていてよかった。結果的に、自分への牽制になった。


「それは、ちゃんと稲場さんのことを見てなのか? 怖気づいたとしたら、稲場さんを傷つけることもあるぞ」


相変わらず、諒大は旭のことをよく見ている。


「図星かよ」


諒大はわざと驚いたような表情を浮かべて、すぐに笑った。


一番の理由は、怖いからだ。

ひよりが嫌な気持ちになり、旭を遠ざけることになるのは避けたくて、どうしても慎重になってしまう。

情けないことに、額にキスしかできなかった。


「恋愛から遠ざかりすぎて、欲もなくなったか」


――欲がなくなったわけがない。


好きだと言われて、気持ちが高ぶったのは事実だ。

知的な印象のひよりが、姿勢を崩して、表情を歪めて、潤んだ目で自分だけを見つめてくれば、たまらなくなる。

あのまま唇にキスをしていたら、そのまま帰すことなんてできなかったと思う。


「案外期待してたかもしれないぞ。旭と同じ、恋愛に慣れてない人が、家まで上がったんだろ? ある程度覚悟の上じゃないのか?」


紳士然な顔をして家に誘って、服まで着替えさせて、油断しているひよりに、もし唇にキスしようとして、受け入れてくれたのだろうか。


家まで来たのに酔わないでと、絞り出すような声で言ったひよりなら、受け入れてくれたような気がする。

しかし、そう言ったのに、隣で体を硬くして縮こまっているひよりを見たら、受け入れる準備ができていないような気がした。

愛おしくて、傷つけたくなくて、どうすればいいか分からなくなった。


「……俺らのペースがあるから」


額にキスをするだけでも、今は十分、幸せなのだ。

それでいいではないか。


必ずしもひよりが自分と同じ思いとも限らない。

お互いの気持ちを確認しながら、ゆっくり進めばいい。


「なんか、いい恋してんな」


諒大のからかうような、どこか羨ましさを含んだ声は、面倒で、照れくさくて、無視をした。



旭は、職場で同僚と仕事の話をしていた。本題の話が終わると、彼女の目線が旭の左手薬指に向かった。


「ずっと指輪、つけてないですね」


「はい。なくして見つからないので」


彼女は旭に指輪の話をしてきたことがあったので、指輪について触れられたことを、特に不自然とは思わなかった。


「新しいの買わないんですか?」


「そうですね。彼女に訊いてみます」


どうして言う気になったのだろう。

気の迷いかもしれない。


「え、結婚指輪じゃ……?」


「違いますよ」


耳を疑い、当惑する同僚を見ていると、申し訳なさはもちろんあるが、おかしさもある。


「前、一緒にいらっしゃったのは、彼女さんだったんですか? 私てっきり奥様かと思って、あのとき……あっ……」


彼女は、ひよりとのフレンチディナーの後に声をかけてきたことがある。状況を思い出して、気がつくことがあったようだ。


「あー、あのとき、私、言い去りみたいなことしたんでしたっけ? そう思ったら、彼女さん、不思議そうな顔をしていたような気も……」


頭を抱え始めた彼女を見て、さすがに旭も申し訳なさの方が大きく上回った。


「僕の方こそ、謝らないといけません。それ以前から勘違いしてるかもしれないと思っていたのに、そのまま否定せずにいましたから」


「でも何で……? 私以外もそう思っている人、いる気がします」


「長くいる人は知ってるんですけど、新しく入った人には勘違いさせたまま楽しんでいるところがあるかもしれませんね」


彼女が事務スタッフとしてパートタイマーで働き出したのは、比較的最近である。同じ頃に入社した人は、おそらく旭を既婚者だと勘違いしているだろう。


付き合いの長い同僚は、旭の指輪など気にしていない。旭が既婚者であろうが、独身であろうが、どちらでもよいというスタンスなのだ。だから、勘違いも放って置かれる。


「うわぁ……私、完全に騙されたんですね」


「ごめんなさい。うちの事務所、嫌いになりました?」


「ならないですよ」


彼女はあっけらかんとしている。


「誰まで知ってるんだろ?」とさえ、言い出すから、彼女の性格に救われた。


「訊いてみてください。その結果、僕も知りたいです」


「訊いたら教えますね」


彼女はクスクスと笑って、この状況も楽しめているようだ。


「とってもお似合いだと思ったんですけどねぇ」


「妻に見えていたなら嬉しいです」


「式島さんが幸せそうでよかったです」


彼女はカラッとした笑顔を浮かべた。



そのうち、勘違いしていた人たちの中でも、旭が既婚者ではないこと、それから、付き合っている人がいることは、知られていくだろう。


嘘を吐かないというのは気分がいい。

心から晴れやかだった。


左手の薬指に目を落とす。

指輪の痕跡はない。


新しい指輪を買うかどうかを訊かれて、彼女に訊くと答えた。

指輪を買うか、相談するには、時期尚早だろう。


ペアリングを買おうと提案したなら、ひよりはどう思い、どう返事をするだろうか。

ひよりに直接訊く勇気はないが、考えるだけは考えるのだった。

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