■第9話:指輪の理由
約一週間前、旭の指輪を一緒に買ったという旭の元婚約者の話を聞いた。
思っていた以上に、指輪には気持ちが込められていると知り、動揺し、それは一週間経った今でも継続している。
いっそのこと、今付き合っている人とのペアリングだと言われた方がよかった。そしたら、旭への淡い気持ちを振り切れたかもしれないから。
「ひーちゃん、飲んでる?」
鈴の鳴るような声がひよりの耳に届く。
「飲んでますよ」
「なんか硬いなあ」
仁那はひよりの隣に座った。
ふわふわとした茶髪が動き、甘いいい香りがひよりの鼻腔をくすぐる。
大学卒業から10年近く経つというのに、仁那は見た目も態度も変わらなかった。
それは他の面々を見たときに、より一層思った。
今日は、大学時代の学園祭実行委員の仲間たちとの飲み会だった。だから、集まっているのは同世代であり、化粧が濃くなっていたり、髪が薄くなっていたり、見た目の変化も大きかった。態度も、会っていない人とは、ぎこちなくもなっている。
それが、仁那には見られなかった。
「敬語はやめてよ」
「年上なんだから敬語使いますよ」
「一時期やめてくれたじゃない」
「あれは罰ゲームだったじゃないですか」
仁那はひよりの一つ年上だ。
経験値はひよりよりも一年分積み重ねているはずなのだが、ちょっと抜けているところがあり、ひよりは仁那に対して敬語を使ってはいるものの、同級生に近い感じで接している。
それは、出会った当初、仁那がひよりのことを同級生だと勘違いして接してきた頃からだった。
「大人の一歳差なんて、敬語使うほどじゃないでしょ」
唇を尖らせる仁那は、可愛らしく憎めない。
視界に招き手が目に入り、一度そちらを見てから、仁那に目線を戻した。
「なっちゃんのこと、呼んでますよ」
「誰が?」
「みっちゃんが」
ひよりが手で示した先には、仁那の夫である、
ひよりは、光臣を一瞬しか目に入れていないのに、落ち着かない気分になっている。
仁那だけでなく、光臣もまるで変わっていない。
ひよりが好きだったときの光臣そのままだった。
「みっちゃんもこっちおいでよ」
仁那は自分が光臣の方へ向かうのではなく、こちらに光臣を呼ぶことにしたらしい。
よく通る声でそう言って、光臣を手招く。
光臣も光臣で、こちら側に来ようとして、周りの人たちに断りを入れ始めた。
いよいよひよりの心臓も早鐘を打ち、動揺で何も考えられなくなる。
そのうちに、光臣はひよりの隣へとやって来て、ひよりは仁那と光臣に挟まれるかたちとなった。
「ひーちゃん、飲んでる?」
これは既視感ではない。
「やだ。みっちゃん、私と同じこと言ってる」
「え、マジで」
仁那と光臣は二人でおかしそうに笑い合っている。
アルコールが入っていることもあるだろうが、些細なことで笑い合える二人は、まるで付き合いたてのカップルにも見える。
二人を見ていると、自然と光臣の方に目がいく。
丸みを帯びた輪郭に、ふっくらとした唇と大きな目。親しみやすく、愛らしい雰囲気は、大学時代とほぼ変わらず、変わっているところは目元の笑いジワが増えたところだろうか。それさえも、魅力的に思える。
光臣への思いは、あのときと同じ熱量があるわけではない。すでに思い出として昇華されているはずなのに、一瞬で同じ熱量を思い出してしまう。ちゃんと告白して、振られていないせいかもしれない。
儚く散ってしまった思いを思い出したところで、相手は既婚者で、奪いたいとも思わない。むしろ、好きな二人には幸せになってほしいと思っている。
ひよりが妙な気を起こしたところで、何も起こるはずもなく、ただひより独りが悶々とするだけなのだ。
だから、本当は二人に会うべきではない。ひよりの精神衛生上のみでいったら、だ。
「お二人はずっと変わらず幸せそうですね」
思わず漏れた言葉は、仁那と光臣に届いて、二人は顔を見合わせると、ほぼ同時にひよりの方を見て歯を見せて笑った。
――やっぱり嫌いにはならないなあ。
旭に言ったことは間違いなかった。
ひよりは心の中で呟いた。
*
三次会は遠慮して、自分の足で地面を踏み締めながら、帰路を歩く。
仁那や光臣が言ったように、振り返ればあまり飲めていなかったのかもしれない。酔った気がしない。
どこかで飲み直そうかと考えているうちに、足は自然と通い慣れた方面へと向かう。
「稲場さん?」
今日は飲むつもりだからと通り過ぎたカフェから、出てきた人影を危ないと避けたところで、名前を呼ばれてビクッと肩を揺らした。
「えっ、式島さん?」
「こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
「はい」
旭との接し方が分からなくなっていたが、旭があまりにも普通に接してくるから、ここまで悩む必要などないのではないかと思い始めてきた。
ドキッと胸が高鳴るのは、遭遇した驚きだけではない。光臣と顔を合わせたときとはまた違う感覚だった。
「式島さんは帰りですか?」
「はい。稲場さんは?」
「私は今日飲み会で、その帰りです」
「そうでしたか」
何となく、今からもう一軒飲みに行こうと考えているとは言えなかった。
「よかったら、駅まで一緒にどうですか?」
「あ、はい」
旭はにっこりと笑った。
今日はこのまま帰ろう。
逆に酔っていなくてよかったかもしれない。
ひよりは旭と並んで、最寄り駅まで歩き始めた。
酔っておらず、冷静であるから、旭のいつもとの違いに気づく。
「ジャケット、着てないんですね」
いつもなら着ているか手で抱えているかのジャケットが、どこにも見当たらなかった。
「そうなんですよ。事務所に忘れてしまって……」
ひよりは、旭らしく思えて、クスッと笑った。
恥ずかしがっている旭は、きまりが悪そうに首の辺りを指で搔く仕草をする。ひよりの視界に旭の左手が入ってきた。
「指輪もつけてないんですか?」
不意に会ったのに、指輪をつけていないから、気になった。
指輪をつける理由の一つが女よけなら、普段は指輪をしておいた方がいいはずだ。
この前、会ったときも指輪はつけていなかったから、ひよりと会う会わない関係なく、指輪をつけないことにしたのだろうか。
突然、指輪をつけなくなって、周りから色々言われているかもしれない。
ひよりは自分事のように考えた。
「実は……なくしたんだ」
「えっ」
「最近、外すことが多くなってたから……仕方がないです」
どうして外すことが多くなっていたのだろう。
指輪をしていて都合がいい理由がなくなった。そう考えるのが道理だろう。
旭が元婚約者の指輪をつけていた理由は、仕事で既婚者の方が安心してもらえること、そして、女の人が近づいてこないことだ。
転職したのか、女の人に声をかけられなくなったのか。
一度考えてみたが、どちらもなさそうである。
「大切な指輪ですよね? 私に何かお手伝いできること……なんてないですよね」
旭は振り切ったに思えるが、どこか寂しさや悔しさが感じられる。
旭のために何かしたいと思った。
「稲場さんが落ち込まないでください」
旭は困ったように笑う。
「いいんです。どちらにしろあの指輪は処分すべきと思っていたので」
どこかで、指輪をなくしたことを喜んでる自分がいる。最低だ。
なくしたからと言って、思いまで断ち切ることなどできないのに。
「……でも、なくすのは望んでなかったですよね?」
「稲場さんは優しいですね」
少しでも喜んでいるのだ。罪悪感で胸がチクッと痛む。
「……ずっとつけてたら、ないと違和感ないですか?」
「新しい指輪を買おうと思ってます」
「そう、でしたね。指輪、つけてる方が都合がいいって、おっしゃってましたもんね」
旭は頷いている。
「外してることに気づく人はやっぱりいて、あることないこと詮索されるのが気になって……」
それでも指輪を外していた理由は何だったのだろう。
気になるだけ気になって、どうにもならなかった。
「指輪をする前は、結婚はしないのかと、訊かれる。お節介な人は、人を紹介してくることだってある。それが嫌だったんですけど、指輪をし始めたら、それはそれで子どもがいるかとか訊かれて……。結局言う人は色々言うんですよね」
旭の言い分は、ひよりにとってかなり共感できるものだった。
だから、納得はできた。
しかし、はたと気づいてしまった。
指輪を外して過ごしていた理由は、元婚約者への未練は断ち切ろうとしたからかもしれない。そうだとして、未練を断ち切ったところで、他の恋愛をしたいわけではないではないか、と。
「……分かります」
何もかも全ての感情を呑み込んで、一言そう答えた。
ひよりに対しても、恋愛対象として見られたくないのだ。
きっと、この淡い思いは迷惑なのだ。
「それと、誰にももう嘘は吐きたくないから」
旭の言葉は、ひよりの胸をグサッと突き刺した。
旭の視線を感じたが、顔が上げられない。
ひよりは旭に勘違いさせたままではないか。
パートナーがいないと宣言したら、嘘を吐いていたと、糾弾されるだろうか。
ひよりは、旭にどんな反応をされるかが、怖いのだ。
「……式島さんは、前に進んでるんですね」
「はい。進みたいと思っています」
旭の力強い声がひよりの心を鼓舞するように震わせた。
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