濁水

西野 夏葉

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 好きなシチュエーションボイス声優は誰か……と訊かれたとき、僕は迷わず「神宮寺じんぐうじメア」と答えてきた。だろう、ではなく、間違いなくそう答えてきた。その自信がある、ということでもない。自分の名前を訊ねられた時と同じくらい、ごく普通に、当たり前にそう答えてきたのだ。



 巡航中の飛行機じゃあるまいし、声優の声だってなんでもかんでも高けりゃいいってものではない。耳にキンキンと響く声は、時に没入感を妨げるし、聴いている側の心の中にひっそりと眠っている(こんな女いるわけねえだろ)という現実的な思考を揺り起こしてしまう。しかし世間的に多く持て囃されるのは、そういった高い声で、舌っ足らずな話し方をする声優である。


 神宮寺メアにはそういったところがなく、下手にボーイッシュを気取ることのない純然たるハスキーボイスが特徴だった。喩えるならば、自分が小さい頃にいつも可愛がってくれた、近所や親戚のお姉さん……とでも言おうか。

 声質からいっても、彼女がアップロードしているシチュエーションボイス動画にも〝お姉さんモノ〟が多いのは必然的なことであり、そしてそれが心地よく僕の鼓膜を揺さぶってくれるのだ。ある時はガサツだけど密かに自分へ思いを寄せる姉、またある時は理由をつけて自分と一緒に残業をした挙げ句にアプローチしてくる先輩女子……など、メアは様々な役柄を見事に演じていた。

 神宮寺メアを喩えるならば、まだ色のついていない、ただの透明な水だ。ほんの一雫だけでも色素が混ざっただけで、ありとあらゆる色に染まることのできる万能さが、彼女には備わっていた。



 チャンネル登録者数はもちろん、動画の視聴回数も、新しい動画がアップされるたびに増えていったが、彼女は決して生身の姿どころか、自分のプライベートすらも明かすことがなかった。

 彼女のSNSでポストされるのは、基本的に新着動画のお知らせや、いつもアップしている日に動画が上げられない時のお詫びばかりで、メアではない瞬間の彼女がどんな過ごし方をしているのか、またこの国のどこに住んでいるのか……といったような情報を公開することを徹底的に避けていた。


 僕は純粋にメアの声を気に入って動画をチェックし始めたわけだが、彼女のそんな振る舞いにも大変な好感を持つようになっていた。どいつもこいつもキラキラした日常をアップしたり、これ見よがしにリアルな自分の手元を晒し、太腿を晒し、口元を晒し、やがては脂肪で築いた胸部装甲を殊更に目立たせた服を着て生配信を始めるようになる。現実世界で誰からもよしよしされないし、癒やされることもない僕たちだからこそ、声優たちの声に癒やしを求めるようになっていたにもかかわらず、結局は自分たちじゃ彼女と同じようにおしゃれなカフェでパンケーキにありつくこともできないし、そもそもこんなに良いプロポーションをしている女であれば絶対に恋人の一人や二人や三人や四人いるに違いない……という現実を突きつけられるようで、僕はどうしてもそういった声優のことが好きになれなかった。



 メアは違う。自分が勝負しているのはあくまでも「声」という分野であって、それ以外の部分で観客を釣るようになってしまってはおしまいだ……と考えているに違いない。

 いつも予め収録された動画しかアップせず、たとえリアルの姿やアバターを晒さず、音声のみで生配信をすることがシステム上で可能だとしても、決してそれをしないところもいい。音声ファイルを介した向こう側にいるのが、現実にこの社会の中に生きとし生ける者であることを感じさせない戦略なのであろう。


 結局これらも僕なりの、ただの一考察の域を出ないものではあるが、この真偽を確かめさせる術を用意しないでいてくれることにも安心する。性格上、どこかから真実を探ることができると知ってしまったら、きっと僕は黙っていられないだろうから。



 あの頃の僕もまた、メアと同じように純粋で、透明な思いを抱いていた。


 今だからこそ、そう思える。




 ★




 日に日に僕の探求心は強まっていった。

 この広い世界のどこかで、神宮寺メアは自分と同じように寝起きしている。きっと仕事もしているのだろうし、笑いもすれば怒りもする普通の人間として、街の喧騒に溶け込んでいるはずだ。

 そんな〝シチュボ声優ではない彼女〟は、一体どんな人物なのだろう。


 しかし彼女は徹底した情報管制によって、視聴者が自分のプライベートに辿り着く糸口を残さない。そんな彼女の振る舞いに好感を抱いていた僕だったはずなのに、いつしかもどかしさが先を行くようになっていった。せめて台本を読んでいない瞬間の彼女の声くらい、一度でいいから聴いてみたい。カメラの向こうで動く姿や、アバターなど無くても良い。その声だけでも良いから、いややっぱり一度じゃダメだ何度でも聴きたい――と。



 だが、彼女にとっては僕もまた、水槽の厚いガラスの向こう側で不細工な顔をへばりつかせている観衆のひとりに過ぎない。

 僕はそんなレベルで満足ができそうにない。彼女に僕のことを知ってほしいとは思わないが、僕が彼女のことをもっと深くまで知りたい。このガラスを叩き割って、彼女のバリア代わりの水がすべて流れ出たあと、間近で堪能してやりたい。


 しかしながら、一日ずつ強くなるその欲求は、僕以外の視聴者の中にもいたらしく、メアのYouTubeチャンネル登録者が一万人を超えた頃、彼女のSNSでこんな告知がなされた。



<一万人到達記念★前から要望のあったラジオ配信やります!>



 嗚呼、もうこのチャンスしかない。



 僕は即座にそのポストに記された配信開始日時をスケジュールアプリに登録した。

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