第2話 征服王と、塩気の記憶
オムライスの湯気が静かに立ちのぼる。 アルセウスはフォークを手に取り、ナイフで卵の膜をそっと裂いた。
とろり、とろけ出す半熟卵の中から、ごはんが顔を出す。 その上を濃厚なデミグラスがつやめきながら流れ落ちるのを、彼はしばらく無言で見つめていた。
「……美しい。」
その一言に、俺は少し驚く。血塗られた剣を背にした男の目が、どこか子供のようだったからだ。
「この艶、香り……かつて、戦のあいまに嗅いだことがある。母が作ってくれた、粥のようなものだ。」
フォークを口に運ぶ。ひと噛み、ふた噛み──そして、
「……懐かしいな。」
その声音は、まるでずっと昔に忘れてしまっていた言葉のようだった。
カウンター越しに俺は尋ねる。
「母親とは、仲が良かったんですか?」
アルセウスは少しの沈黙のあと、静かに語り出した。
「俺の母は、“静かなる王妃”と呼ばれた。王の妾として迎えられ、宮廷では声を発することも許されなかったが……俺だけには、よく笑ってくれた。」
その笑顔の記憶は、血まみれの戦場の中で唯一、彼を人間に引き戻すものだったという。
「だが、俺が16で初陣に出た年──母は毒を盛られて死んだ。王の正室の命だった。」
「……それからです。俺が、世界を征服すると決めたのは。」
このカフェには、メニューに“意味”を持たせる伝統があるらしい。 料理が語るのは、味だけではなく、記憶と罪と、贖いの物語だ。
「このオムライスは……あの日、母が俺に作ってくれた“塩の米”の記憶に近い。 粗野な料理だったが、温かくて……優しかった。」
アルセウスはフォークを置くと、深く息を吐いた。
「おまえの料理は、魂の奥底を掘り返す……。これは、良い罰だ。」
ワインレッドのカーテン越しに、天界の陽が射し込んでいた。 アルセウスは空を見上げ、小さくつぶやく。
「ここは、戦場の喧騒が届かぬ。まるで……夢の中のようだな。」
俺は静かにコーヒーを注ぎ、彼の皿にデミソースを少しだけ足した。 香ばしく甘い香りがふたたび広がり、彼のまなざしが一瞬だけ緩む。
「……征服の果てに、何があったんですか?」
問いかける俺に、アルセウスは躊躇いながらも言葉を紡ぐ。
「母を毒殺した王妃を処刑したのは、俺が17のときだった。 そこから、俺は“正しさ”を掲げ、すべてを手中に収めようとした。」
彼は告げた。 初めは“正義”の剣だったものが、いつしか“空虚”の剣になっていたことに。
「世界を征服しても、母の声は戻らなかった。 手のひらに残ったのは、血と、沈黙だけだった。」
その言葉に、厨房の熱まで静かに冷めるような気がした。
「俺は料理を知らなかった。母の味も、思い出も、戦に消えたと思っていた。 だが──おまえのオムライスで、ふと思い出したのだ。 “初めて涙を流した夜”のことを。」
アルセウスの目がかすかに潤んでいるのを、俺は見逃さなかった。
「母が死んだ夜、誰にも見られぬように台所で泣いていた。 冷えた米に、塩をひとつまみ混ぜて……それを、ただ食べた。」
沈黙が、ふたりの間に落ちる。 カフェの空気は淡く、どこかあたたかい。
やがてアルセウスは立ち上がり、深く頭を下げた。
「……この皿は、俺の人生の最期にふさわしい味だった。 ありがとう、料理人。」
「こちらこそ。ご来店、ありがとうございました。」
アルセウスが店を出た瞬間、雲がひとつ晴れたように感じた。
ミカエルがそっと呟く。
「……あの人、最後に“人間”の顔でした。」
俺はフライパンを拭きながら、静かに頷いた。
ここ《エリュシオン》では、料理が祈りになり、記憶が供養になる。 今日もまた、誰かが“本当の自分”を取り戻す一皿を求めてやってくるのだ。
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