第34話傀儡の森
瘴気の奥で、何かが崩れる音がした。
それは肉が裂ける音でも、爆発の余韻でもなかった。
もっと静かに、もっと内側から、歪んだものが崩れ落ちていく音。
烈士の拳が、ようやく止まった。
視界の奥で、巨大な怪物が音もなく沈んでいく。
殻のような仮面が割れ、重力に引かれるようにその身が地に伏す。
烈士の息は荒い。拳には血が滲み、脚は震えていた。
だが、倒れはしなかった。
「……やった、のか」
口に出してみても、自分の声が誰かのもののように思えた。
それでも、確かに実感はあった。
“視えてはいない”まま、それでも“感じ取って”、ぶつけた一撃。
あれは、技でも力でもない。
相手の“心の最後”に触れた瞬間だった。
数メートル離れた位置で、黒月もまた静かに息を吐いた。
自身の相手を、寸分の無駄もなく斬り伏せたその直後だった。
《破殻》の刃はまだ熱を帯びていたが、彼の呼吸に乱れはなかった。
「……感情は、やっぱり視えなかった。けど、だからこそ分かることもある」
黒月の視線は、怪物の残骸ではなく、“空間全体”を見ていた。
《クグツガミ》の存在が、まだ完全には消えていない。
空気に残る微細な振動。
地面の奥で、まだ何かが“蠢いている”。
一方、烈士は倒れた怪物の傍らで動けずにいた。
殴りつけた拳の痺れと、胸に残る不可解な“熱”。
何かが、自分の中で今までと違っている――それだけは、はっきりと分かる。
「……なんだ、この感じ……」
恐怖ではない。
勝利の興奮でもない。
もっと根の深い場所で、何かが静かに共鳴している。
黒月が烈士のそばへ一歩近づき、足を止める。
だが、声はかけなかった。
その様子を見て、何かを悟ったように、彼は静かに歩き出す。
「少し見てくる。ここはまだ、終わってない」
そう言い残して、黒月は《クグツガミ》の中枢と思しき方向へ、単独で踏み込んでいった。
残された烈士は、地に伏す怪物を見つめ続ける。
その仮面に、もう感情は宿っていない。
だが、倒れる前の最後の動き――あの拳に重なってきた“迷い”の感触――それは確かに生きていた。
そして次の瞬間。
怪物の胸部が、ふわりと淡く発光し始めた。
装甲の隙間から漏れ出した金の粒子が、ゆっくりと空中へ浮かび上がる。
「……これは……」
それは、“核”だった。
金の光が、静かに空を舞っていた。
倒れた怪物の胸部、その裂け目から滲み出すように、粒子が零れていく。
その中心で、淡い輝きが生まれていた。
丸く、ゆっくりと呼吸を繰り返すように脈動しながら、浮かび上がってくる“それ”――
「……核……?」
烈士は思わず、手を伸ばしかけて止めた。
その光は、ただの物質ではなかった。
熱も、痛みもないのに、胸の奥にまで届くような温かさを持っていた。
核は、怪物の体から離れながらも、どこか名残惜しむように、ほんの少しだけその殻に留まった。
まるで、別れを惜しむように。
それは“残された意志”だった。
烈士の足元に、一陣の風が吹いた。
風などないはずの瘴気の森に、確かに“流れ”が生まれていた。
その風に乗って、黄金の核がゆっくりと、烈士の胸元――ちょうど心臓の位置へと近づいてくる。
「え……?」
烈士は思わず一歩下がる。
だが、それでも核は拒絶することなく、ただ静かに――彼の胸に触れた。
次の瞬間。
視界が、ふっと白く染まる。
音が遠のき、時間の流れが緩やかになる感覚。
烈士は、立ったまま、心だけがどこか別の場所へ引き込まれていくような感覚に包まれた。
(……これが、“核”の……)
言葉にはならなかった。
けれど、そこに“想い”があった。
燃えるような怒りでも、叫ぶような哀しみでもない。
もっと深く、もっと静かな――
「――願い……?」
言葉が、どこからともなく心に響いた。
その核は、烈士を選んだのではない。
ただ、彼に“託す”ことを決めたのだ。
烈士が自分を見てくれたこと。
最後まで、対等に戦ってくれたこと。
その事実に、応えるように。
光が烈士の胸元にゆっくりと沈み込んでいく。
痛みはなかった。
だが、確かに何かが“重なる”感触があった。
心臓の位置で、黄金の光が小さく脈を打つ。
その光は次第に肉体へ溶け込み、体温と同化し、やがて完全に見えなくなった。
烈士は息を吐いた。
全身に走っていた痛みが、少しだけ遠のく。
同時に、意識の奥底――胸の最深部に、“もう一つの心音”が生まれていた。
「……なんだよ、これ……」
理解できない。
けれど、否定する気にもなれなかった。
この感覚が、決して敵意ではないことだけは、烈士の本能が知っていた。
しばらくその場に立ち尽くしたのち、烈士は小さく目を閉じた。
敵と戦った記憶も、核が触れてきた想いも――全部、刻み込むように。
「……ありがとう。あんたのこと、俺は忘れねぇ」
それだけを呟いて、彼はゆっくりと背を向けた。
その足取りには、先ほどまでにはなかった“確かさ”が宿っていた。
彼の胸の奥で、静かに、もう一つの心音が鳴り続けていた。
霧が、少しだけ薄れていた。
気づけば、空気の濁りがほんのわずかに弱まっている。
地を這っていた根のような繊維も、断たれたように沈黙し、森全体がわずかに呼吸を止めていた。
烈士は、湿った地面を踏みしめながら歩いていた。
胸の奥――心臓のすぐ裏側に、脈打つ熱を感じながら。
あれから核は姿を消した。だが、消えたのではない。“溶けた”のだ。
身体のどこかに、確かに存在している。
歩を進めるごとに、その感覚が強まっていく。
身体が軽いわけではない。むしろ、疲労は限界に近い。
けれど、一歩ごとに“前へ進める”という実感があった。
「……黒月」
開けた瘴気の向こう。
黒月が静かに立っていた。
足元には、すでに倒れたまま動かないボス怪獣の残骸。
その傍らで、彼は何かを待っていたようだった。
烈士に気づくと、わずかに顎を引いて問いかける。
「終わったか」
烈士は頷いた。
だが言葉はすぐには出なかった。
黒月はそれを察して、続ける。
「……“何か”が入ってきただろ。核に触れたなら、当然だ」
「……ああ。胸の中に、何かが……いや、誰かがいるみたいだ」
黒月の目が細められた。
彼は既に経験している。
核が、ただの器官ではないことを。
それが“想い”と“記憶”の器でもあることを。
「焦るな。すぐにはわからない。けど……それは、お前を喰ったりはしない」
烈士は少し目を伏せ、それでも笑みのようなものを浮かべた。
「……あいつ、俺の中で生きてんのかもな。なんつーか、悪くねぇ気分だ」
沈黙が落ちる。
だが、重苦しいものではなかった。
お互い、戦いを終えたあとの静けさを、今は言葉にせず抱えていた。
しばらくして、黒月が口を開く。
「まだ、こっちは終わってない」
「クグツガミか」
「ああ。奴自身は姿を消したが……支配の痕跡が残ってる。この森は、完全には解かれていない」
黒月の言葉に、烈士も顔を上げる。
たしかに、森の奥――霧の濃さが異様に残る区域がある。
あの中心部に、まだ《本体》がいる可能性は否定できない。
「どうする。追うか?」
烈士が問うと、黒月は少しだけ顔を横に振った。
「今は無理だ。……お前も、限界だろ」
「……ったく、またそうやって先読みしやがる」
烈士は小さく笑って見せた。だが、確かに身体は悲鳴をあげていた。
心臓の奥の熱は心地よいが、肉体の疲労はどうしようもない。
「休もう。回復を優先する。……本体の痕跡が残っているなら、今は追うべきじゃない」
黒月の言葉に、烈士も静かに頷く。
その決断には、悔しさではなく納得があった。
「一度戻るか。あの搬送地点まで。そこなら、最低限の補給はできるはずだ」
「……了解。ああでもしねぇと、次は“本物”に殺られるな」
二人は歩き出す。
言葉は交わさずとも、その歩幅は同じだった。
霧はまだ晴れない。
けれど、二人の視線は、確かにその先を見据えていた。
夜の森は、ひどく静かだった。
瘴気の濃度は落ち着き、根のような繊維の脈動も止まっている。
わずかに霧が晴れ、上空から月明かりに似た光が差し込む。だが、それが本物の月なのか、それとも《クグツガミ》の残した幻光なのか――判別はつかなかった。
烈士は、仰向けに寝袋へ身を沈めていた。
「……なんか、変な感じだよな」
ぼそりと呟いた言葉に、近くで座っていた黒月が目線だけを送る。
「何がだ」
「いや……敵だった相手のこと、こうして考えてんのが」
黒月は返さなかった。ただ、次の順番が来るまで見張りをしている。その背中はいつも通りぶっきらぼうで、静かだ。
烈士は苦笑を漏らし、目を閉じた。
「先に寝る。交代は……三時間後でいいか?」
「ああ」
短い返事を聞いたあと、烈士は深く息を吸い、意識を落とした。
***
沈んでいくような感覚。
肉体が眠りに入りながら、意識だけがどこか別の層に吸い込まれていく。
その中心で、烈士は気づいた。
自分の中にある《核》が、まるで呼吸をするように静かに動いていることに。
(……これが、“馴染む”ってことなのか)
胸の奥。心臓の裏側――
そこに埋め込まれたわけでも、押し込まれたわけでもない。
最初から“そこにあった”かのように、自然と存在している。
熱くもなく、冷たくもなく。
痛みはないが、確かに“違和感”がある。
けれど、それは“異物”ではなかった。
むしろ、もうひとつの心音のように、烈士自身の鼓動と静かに重なっていた。
(不思議だ……嫌じゃない)
嫌悪感や拒絶反応など微塵もない。
それどころか――この感覚に、どこか安心すら覚えている自分がいた。
まるで、ずっと探していた“何か”が、自分の一部になったかのような錯覚。
体と核の境目は次第に曖昧になっていき、呼吸とともに完全に溶け合っていく。
そのときだった。
***
そこは、色のない世界だった。
音も風もない。
ただ、一面に広がる灰色の大地。その中央に、倒れた怪獣がいた。
だが――怪物のはずのそれが、まるで“人”のように感じられた。
怒りも憎しみもない。
その姿は、ただ静かに、こちらを見ていた。
いや、見つめ合っている――そう感じた。
言葉はなかった。だが、通じた。
(ありがとう、と)
その想いが、まっすぐに届いてきた。
烈士の胸の奥に灯った核の光が、ほんのりと脈動する。
(……お前……)
敵だったはずの相手に、礼を言われることがあるだろうか。
殺し合いだったはずなのに、なぜこんなにも温かい想いが残っているのか。
けれどそれは、確かに“感謝”だった。
この怪物は、操られ、命令に逆らえず、ただ生きながら“使われて”いた。
そんな自分に正面からぶつかってきた烈士を、最後の最後で“仲間”として認めていた。
この光景に、言葉はいらなかった。
ただ、心が重なるだけで十分だった。
怪獣は、最後にもう一度、礼のように首を下げた。
その身は光に還っていき、灰色の世界はゆっくりと解けていった。
***
烈士が目を覚ましたのは、それからちょうど三時間後だった。
「……夢、か」
つぶやきながら、胸に手をあてる。
そこには、まだ黄金の核の鼓動が残っていた。
それが幻でないことを、確かに理解していた。
「……怪獣にも、心があるんだな」
黒月がこちらを振り返った。
「……そう思えるなら、お前は変わったってことだ」
烈士はゆっくりと身体を起こし、黒月に頷く。
「交代だ。今度は、あんたが休め」
黒月は言葉を返さず、寝袋に滑り込んだ。
その背を見ながら、烈士は思う。
さっきまでとは違う“何か”が、自分の中で灯っている。
怪獣を倒した。その結果として、自分に何かが託された。
それは力ではなく、ただ“想い”だった。
この戦いが、命を奪い合うだけのものじゃないとしたら。
そう考えるには、十分すぎる夜だった。
黒月はゆっくりと身を預けるように、倒木の影へ座り込んだ。周囲の霧はまだ晴れ切っておらず、瘴気は薄く漂っている。
烈士が隣で浅い呼吸を整えながら眠っている。交代制の仮眠――今は黒月の番だった。
黒月は、かつて自らの敵だったボス個体を思い返す。斬り伏せたとき、確かに手応えとともに、何かが胸へと流れ込んできた感覚があった。
明確な言葉ではない。
それでも――
(……あれは、“感謝”だった)
烈士の倒した怪獣が、死の間際に“何か”を託したように。
こちらにも、確かに伝わった“想い”があった。
黒月は目を閉じ、静かに自身の胸に意識を向ける。
核はすでに取り込まれている。手元には何も残っていない。
けれど、その中心部で光る何かが、確かに“言葉にならない感情”を刻み続けていた。
悲鳴ではなかった。
叫びでもなかった。
ただ、
――ありがとう。
そんな感情が、まるで絞り出すように、滲んできた。
「……感謝か」
黒月は低く呟く。
烈士と同じように、“ありがとう”という感情を受け取っている。だが、それは黒月には別の意味を持っていた。
烈士に向けられた感謝が“解放”の色だったとすれば、黒月に届いたそれは――“託された責務”の色だった。
終わらせてほしい。
否応なく生かされ、操られ続けた末路を、断ち切ってくれ。
それが、この存在が伝えてきた“感謝”のかたち。
(……ああ。分かってる。俺がやる)
その時、不思議な感覚が胸をよぎった。胸骨の奥――かつてアイの“核”を飲み込んだ場所が、かすかに疼く。
共鳴。
いや、それ以上に……何かが、重なり始めていた。
烈士が“つながり”として核を受け入れたのなら、
黒月は“背負うもの”として核と融合していく。
ありがとう、と告げられても。
その意味を、どう捉えるかは――
それぞれの“在り方”による。
(だから俺は……)
遠く、霧の奥で何かが動いた気配がした。黒月はすぐに立ち上がる。
――もう、眠る必要はなかった。
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