第25話 視線の奥に
任務を終えて、境界圏から戻ったのは夕刻をすこし過ぎた頃だった。
仮設の検問ラインを越えたとき、黒月の肩にまとわりついていた空気が、ほんのわずかに“剥がれた”気がした。
感覚としては曖昧だったが、たしかに何かが変わった。それは、身体というより“目”に近い感覚だった。
帰投報告は端末で済まされた。
誰も彼を迎えには来なかった。これまでと何も変わらない、淡々とした対応。
(……気楽っちゃ気楽だな)
淡々と歩きながら、黒月はふと足を止めた。
視界の端で、何かが“反射した”気がしたからだ。
だが、そこにあったのはただの通路の壁。無機質な金属板が、わずかに光を返していただけ。
──のはずだった。
(……いや)
黒月は一歩戻って、改めてその壁を見つめた。
表面に反射していた“光”は、自然光ではなかった。
色だ。かすかな青紫。そこに誰もいないのに、まるで“迷いの色”が染みついているように見えた。
「……残ってるのか? いや、これ……俺の目か」
違和感が、徐々に明確になっていく。
視覚核の変化。
視る能力の拡張。それは、見たいものではなく、“見えてしまう”ことの始まりだった。
(“視たくないもの”まで、視えてきてやがる)
黒月は深く息を吐き、歩き出す。
その足取りは変わらず静かだったが、脳裏に焼きついた何かが、徐々に濃くなっていく。
居住区に戻ると、着替えもせずにベッドに体を沈めた。
スティックは腰のホルダーに戻したまま。武器を外そうという気になれなかった。
視界は安定している。視覚核も異常なし──そう“感じて”いるだけかもしれない。
だが、閉じたまぶたの裏にも“色”が滲んでいた。
それは敵でも仲間でもない、名前のない色。
光でもなく、記憶でもなく、ただ“視えてしまう何か”。
(……これは、夢か、それとも……)
自分の目が、何かを追い越していくような、そんな錯覚。
黒月は目を開いた。
天井には何もなかったが──その中央に、うっすらと“赤”が浮かんで見えた。
感情の色。
けれど誰のものでもない。自分の内側から染み出した色。
(……俺か)
そのまま目を閉じずにいた。
自分の視線が、今どこに向いているのか──それさえ、よくわからなくなっていた。
次の連絡が届いたのは、それからちょうど一時間後だった。
【指令局より:存日 黒月に対し、上層部との対面要請】
【指定時刻:1800】
【出席者:幹部複数名/観測班責任者】
黒月は端末を閉じ、深く息をついた。
(……まあ、来るだろうとは思ってたさ)
──ただし、今回は“報告”では終わらない。
彼の中で、そう確信できるだけの“変化”が、すでに始まっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
会議ブースには、黒月ひとりの足音しか響いていなかった。
指定された時刻に、指定されたルートで、指定された部屋へ。
いつも通りの形式。だが、その空気はどこか違っていた。
──視線が、深い。
今回は“試される場”ではなく、“見極められる場”だった。
扉を開いた瞬間、複数の端末が静かに起動音を鳴らす。
顔の見えない幹部たちが、その背後で黒月をじっと見ていた。
「──存日 黒月。任務C-99、確認済み。報告も受領した」
淡々とした声に続いて、別の端末が冷静に言葉を繋いだ。
「視認処理時間、移動経路、反応速度──いずれもZランク基準を上回る。
問題は、視覚核が“どこまで判断に関与しているか”だ」
「“見えたものを斬った”──それだけじゃ、済まされない」
黒月は無表情のまま答える。
「見えてたから、動いただけだ。何か問題か?」
「ある。
君の“視る力”は、もはや観測ではなく“選別”に近い。
それは偶発ではなく、意志を伴った行動だと、我々は見ている」
「……意志があったらマズいのか?」
「選んで斬るという行為は、“敵味方を自分で定めている”ことになる。
君が“何をどう視ているか”、我々には確認できない」
沈黙が落ちる。
黒月の視線は、変わらない。
だがその内側には、たしかに熱があった。
(……まだだ。言うつもりはない)
(あいつのことも、《核》の正体も、今は伏せておく)
「……何も、隠してないさ。
ただ、“視るかどうか”はこっちの判断だ」
「では質問を変えよう。──君は“何を視たい”と思っている?」
その問いに、黒月は答えをすぐ返さなかった。
ほんのわずか、視線がわきにそれる。
(視たいのは──“あの部屋”の中だ)
(アイをそういう場所に追い込んだ、“手”の在り処)
だが言葉にはしない。ただ、淡々と返す。
「敵が何かを“視て”動いてるなら、そっちを先に視て潰す。
それだけだ」
「……つまり“先んじて切る”判断が、今の君には可能だと」
「ああ。“敵なら”な」
端末がわずかに静まる。
やがて、幹部の一人が口を開いた。
「君に“選択”の機会を与える。
これまで通りの“戦力枠”として任務に就くか、
あるいは視覚能力を戦略転用する“別枠”へと移行するか──」
「どっちでも構わねぇ。
ただ、戦う相手くらいは……こっちで決めさせてもらう」
「ほう? 根拠は?」
「気に入らねぇ色ってのは、視た瞬間に分かる」
皮肉とも本音ともつかないその言葉に、誰も返さなかった。
だが、それは十分すぎるほどの“意志表示”だった。
ブースを出た黒月は、一度だけ振り返る。
誰もいない廊下。その先に、濁った赤黒い残像が一筋──
上層部の誰かが、何かを“後ろ暗く思っていた”痕跡。
(……そのうち視える)
(俺の目で、確実にな)
ログには残されない“視線”が、そこにあった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
深夜の訓練棟。誰もいない演習ブースに、ひとつだけ端末の光が灯っていた。
久我 烈士は訓練記録端末の前で、静かにタップを繰り返していた。
肩を落としたまま、目は真っ直ぐにスクリーンを見据えている。
本来、この時間帯にアクセスが許されているのは“翌日分の準備資料”だけだった。
だが烈士は、ある特殊な許可フラグを持っていた。上層実戦区画での準戦闘訓練任可──形式上、必要情報に限り拡張アクセスが認められている。
その穴を使って、烈士は探していた。
「──旧観測区域F。……外されたエリアのはずなのに、解析履歴が残ってる」
数年前の記録。廃棄処理済みの実験ログ。
その多くは黒塗りで、まともに読めるものではなかった。
だが、ひとつだけ断片的なラベルが目を引いた。
【Specimen A-I_07】──映像記録:解析中
烈士はその文字列を見た瞬間、喉奥で息を止めた。
あの夜、黒月が言った言葉。
そして何より、あの目の奥にあった“何かを終わらせようとする強さ”。
「これか……お前が“視てるもの”は」
操作を進めようとした瞬間、端末が唐突にフリーズした。
──警告:アクセス制限領域です。
──ユーザー識別:訓練生階級B-401_KUが越境操作を行いました。
──ログを記録し、セキュリティ制御下に移行します。
「っ……!」
端末が自動でログアウトされ、画面が強制的に閉じられる。
その一連の動作が、烈士に教えていた。
(……今の情報、“本物”だった)
アクセス制限。閲覧停止。封鎖された情報。
本当に何もない場所なら、そもそもこんな制御は働かない。
つまり──そこに、“触れてはいけない何か”があったということ。
烈士は目を閉じて息を吐いた。
「……俺は、いま……正義の外側に足を踏み入れたんだな」
胸の内で何かが揺れた。
だが、それは恐怖ではなかった。
信じてきた制度。守ってきた枠組み。
その中に、「何かを隠すための機構」があるのなら──
(俺はそれを、“守る側”にはなりたくない)
ブースを出たとき、窓の外ではまだ夜が続いていた。
街は眠っていたが、烈士の中には、もう眠れない“光”が灯っていた。
「あんたが見てる“現実”……俺も、この目で確かめる」
その声は、誰にも聞かれなかった。
だが、烈士自身には届いていた。
(次に会うとき、俺は……もう“違う答え”を持っている)
それはまだ、言葉にならない誓いだった。
けれど、それは確かに始まっていた。
制度の中に育った少年が、“何を信じるか”を自分の手で選び直すための──最初の一歩。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
深夜と朝の境目が、ゆっくりと溶けていく。
都市の外郭に灯る光は遠く、空はまだ深い紺色を保っていた。
その静けさの中で、二人の狩人は、それぞれ別の場所で──同じように、目を覚ましていた。
特別観察区の一室。
黒月の居住ユニットは、無音のまま淡く照明が差していた。
ベッドに背を預けたまま、黒月は天井を見つめていた。
目は開いている。けれど、“視えている”感覚が以前とは違っていた。
(……まだ、滲んでやがる)
視界の端に、淡い色が揺れている。
感情の残像ではない。誰のものでもない。これは、黒月自身の“内側”の色。
ふと、壁の影に何かが反射する。
目を凝らすと、わずかな“青”が広がっていた。
迷いとも、疑念ともつかないその色が、まるで黒月の体内から滲み出しているかのように。
(……俺の感情が、“視界”に漏れてる)
《核》を喰らって以降、視えるものが増えた。
敵の色、残留思念、そして“色が存在しない”ことの意味も。
だが今──初めて、自分の感情が外に“映っている”ことに気づいた。
(この目は……もう、俺のもんじゃねぇのかもな)
視ることで何かを得る。
だが、同時に、何かが“削られていく”。
それでも黒月は、目を閉じなかった。
この目が、暴くべき相手に届くその日まで──その痛みごと、受け入れると決めていた。
その頃、第二環域の訓練棟。
久我 烈士はひとり、自室のベッドに座っていた。
背筋を伸ばしたまま、両手を膝の上に置き、微動だにしない。
目の前には、ログイン済みの簡易端末。
だが画面はすでにブラックアウトしていた。
アクセス制限。警告表示。強制ログアウト。
(……ここにいちゃ、本当のことはわからない)
制度の中に育ち、信じてきた正義。
だがその正義は、見せたいものだけを見せ、都合の悪いことは“見えないまま”にされていた。
黒月は、ずっと“その外側”を見ていた。
強さでも技術でもない。視えている現実そのものが違っていた。
(俺は……ようやく、目を開いたのかもしれない)
その自覚は、誇らしさでも安心でもなかった。
むしろ、胸に沈むような静かな孤独だった。
けれど、もう戻れない。
もし正義という言葉に意味があるのだとしたら──
それは“自分の目で選ぶこと”から始めなければならない。
烈士は立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。
窓の向こう、空がわずかに白みはじめていた。
夜は終わる。
だがその先に続くのは、朝ではなく、混沌とした“昼”かもしれなかった。
それでも彼は、目を背けなかった。
(……正しいことを、選べる自分でいたい)
今はまだ弱くてもいい。迷ってもいい。
ただ、いつか再び黒月と並ぶその日まで──自分の足で、真っ直ぐに立っていたかった。
静けさのなか、それぞれが“歩き出す”気配だけがあった。
誰にも届かない、誰にも見えない場所で。
二人の目が、それぞれの未来を見据えはじめていた。
──そして、その視線の先には、必ず“交差”があることを、誰もまだ知らなかった。
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