第5話血と檻の境界

黒月の目の前に立つ少女は、

かつての「アイ」に、あまりにもよく似ていた。


だがその表情には、喜びも、戸惑いもない。

ただ風に揺れる花のように、視線が彷徨っていた。


「……アイなのか」


名を呼ぶ。だが返事はない。


代わりに、彼女は黒月へ向かって手を伸ばした。

その腕の皮膚は一部、鱗状に硬化している。

関節の動きも滑らかではなく、どこか──怪獣の動きに近かった。


(……同化型か)


黒月はその場で姿勢を下げ、地を滑るように回り込む。


少女の手が、直線的に振り下ろされる。

瓦礫が砕け、塵が舞い上がる中、黒月はすでに背後へ。


「“攻撃のパターンが単調”──お前、まだ全部乗っ取られてねぇな」


だが、それは油断ではなかった。


アイ──否、“アイに似た個体”は、即座に振り返り、

次の瞬間、口から“圧縮された音波のような咆哮”を放つ。


黒月の耳が、一瞬だけ焼けるような痛みに襲われた。


(やべぇな……能力だけじゃなく、本能的に戦ってやがる)


跳躍、退避。

そして着地と同時に、黒月は小さく息を吐いた。


「……なんで、生きてた」


問いかけは風に消えた。

少女は、ただ首をかしげる。

記憶があるのかすらも分からない。


けれど、その動作は明らかに“迷い”を含んでいた。


黒月の脳裏に、過去がちらつく。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  「コズキー!魚焼けたよー!焦げてるかもだけどー!」


スラムの屋上、五階建てのビルの屋根で、

焚き火を囲んで焼かれる“獣の切れ端”。


小さな声と、小さな体。

彼女は、唯一の「人間」だった。

黒月が、怪獣の肉を食いながら生きていた頃の、ただ一つの灯火。


「……それ、捨てるの惜しかったから拾っただけだ」


「はいはい、ツンデレ」


──その日、黒月が見た最後の笑顔だった。


街が“食われ”、彼女は消えた。

“死んだ”と、自分に言い聞かせてきた。


だが──いま、目の前にいる。


風が止まる。

互いに、ただ立ち尽くす。


そして──


「黒月、応答しなさい。監視端末が異常を検知した」


名代の通信が割り込んだ。


黒月は答えず、ただ少女を見ていた。


「……この任務、お前を殺すための“罠”か?」


その疑念が、ゆっくりと、胸の奥に沈んでいく。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

白い部屋。

無音の空気。壁に浮かぶ映像は、微かなノイズを含んでいた。


マリアはベッドの上で、膝を抱えるように座っていた。

その黄金色の瞳は、すでに画面の向こうにしか焦点を合わせていない。


「……会っちゃったね、“あの子”と」


画面には、黒月と、もう一人──

人間とは言い難い形へ“同化”した少女が映っていた。


肌は白く、目は虚ろ。

でも、わかる。あれは──“記憶の中のアイ”。


(“連れてこられていた子”──記録にない、でも確かにいた)


マリアは、自分が施された感覚共鳴の記憶をなぞる。


──かつての施設で、黒月の隣にいた小さな存在。

何度も消えかけた意識の中で、“ただの温もり”のように残っていた。


そして今、

その子が怪獣と同化し、“対象”として再び現れた。


「ねぇ……黒月くん。

あの子を、“人”として見られるの?」


ドアが静かに開いた。


入ってきたのは、名代。

白いハイヒールの足音が、静寂を踏み鳴らす。


「……見てたのね」


「うん。ずっと見てた。

彼、最初は迷ってたけど──いま、“あの子を守る”って顔してるよ」


「そう。やっぱり、“そう動く”のね」


名代は端末を操作し、画面に別のウィンドウを呼び出す。

そこには──“撃破命令”。


《対象:未登録個体(コード不明)

分類:準Dランク/生存の意義なし/処理優先》


マリアはその文字列を見て、小さくつぶやいた。


「……人間じゃ、ないんだ。あの子は」


「少なくとも、ハンター庁はそう判断したわ」


「でも、黒月くんは違う。

“命令”と“あの子”を天秤にかけたとき……

“命令”を斬る人だよ、きっと」


名代は一瞬、何も言わなかった。

だが次の言葉は、決意の色を帯びていた。


「──そのときは、“彼を庇う”覚悟がある?」


「あるよ。だって、彼は私の“鏡”だから」


マリアは自分の胸に手を当てる。


「私の中にある“痛みの記憶”は、

あの子に触れた彼が、それでも守ろうとしたことで──

少し、薄れた気がした」


モニターの中。

黒月は、アイを背負い、スラムの地下構造へと潜ろうとしていた。


命令違反。対象逃亡。交戦前の強制撤退。


そのすべてが、監視記録に刻まれていく。


名代は言った。


「上層は彼を“処理対象候補”に切り替える可能性がある。

マリア……君が“どう動くか”が、今後を左右する」


マリアは、立ち上がった。


白衣のような制服の裾が揺れ、

その眼差しは──まるで獣のように鋭さを帯びていた。


「だったら、私は檻を壊すよ。

“人を壊す檻”なんて、私が一番嫌いなものだから」

――――――――――――――――――――――――――――――――

  瓦礫の裂け目をくぐると、空気が変わった。

湿った匂い。錆と泥、そして血と糞尿。

かつてのインフラの残骸──スラムの“下層構造”だった。


黒月は少女の体を背負ったまま、

無言で歩き続けていた。


背中にあるのは“アイ”……だった“何か”。


体温はある。微かに息もしている。

けれどその身体は、明らかに“人ではなくなりかけていた”。


(──あれが、“人に戻れなくなる寸前”の状態か)


まるで、怪獣と融合する“苗床”のような感触。

触れるたび、黒月の皮膚に鈍い痺れが残る。


けれど彼は手を離さなかった。


(死なせる理由が、ねぇ)


命令には、

《確認次第、処理せよ》と明記されていた。

“殺せ”と、言外に。


けれど──


(生きてた。俺の知ってる“あの子”が、目の前にいた)


それがすべてだった。


進行方向の先、封鎖ゲート。

“ドローン管理エリア”の境界センサーに近づいた瞬間、警告音が鳴る。


《対象行動:逸脱確認》

《アクセス不能区域への侵入を確認》

《隔離プロトコル、発動》


「……チッ」


壁のスリットが開き、

無数の自動封鎖装置が作動する。


地上への道が閉ざされた。

赤いランプが点滅し、機械音が周囲の沈黙を飲み込む。


《対象:存日黒月 命令違反確認》

《状況評価:第2級指令逸脱》

《退避命令:拒否検知》


黒月は、手の中の命を見た。

そして、静かに笑った。


「そっちがその気なら──

 こっちは“生かす”って命令、通すだけだ」


少女が微かに身じろぎした。


「……こず、き……?」


黒月はその声に、一瞬だけ立ち止まる。


「……そうだ。

 俺が、“コズキ”だ」


「わたし……また、壊れちゃう……かも」


「壊れねぇよ。

 俺が──壊させねぇ」


そう言って彼は、

背負い直した少女を抱えて走り出す。


封鎖されていようが、

命令が降りていようが、知ったことではない。


“生きてる”ものを殺す理由がねぇ限り、

黒月は刃を向ける気はない。


その背後──

地下通路のさらに奥から、異音が響いた。


「……なんだ?」


瓦礫の奥、薄い膜のような粘液の隙間から、

“アイと同じ”構造を持つ個体が這い出してくる。


異常繁殖体。

本来Cランクの寄生群体が、同化に成功した“プロト個体”。


(……“実験だった”のか)


誰かが、あの子を使って“変異モデル”を観察していた。

黒月の直感がそう告げていた。


ドローン、封鎖、命令──

すべてが“誘導”されていた。


そして今、

黒月と“生かした少女”が、新たな“トリガー”として観測されている。


(だったら──全部ぶっ壊す)


ナイフを抜く。

黒月の身体から、うっすらと怪獣の匂いに似た瘴気が立ち上る。


(ここまで“怪物”を食って生きた俺の体が、

 何も進化してないと思うなよ)


アイが“変異核”なら、

自分は“毒の実験台”だった。


それでも生きてるのは、

それを食い、受け入れ、血肉にしてきたから。


「──喰ってきた側の、怖さを見せてやるよ」


怪獣が咆哮する。


黒月の脚が、地を蹴った。


――斬った感触が“柔らかすぎた”。


まるで温い泥を割るような抵抗。

ナイフの刃は難なく“変異個体”の装甲を裂いたが、

内側からは、熱された粘液のような肉が噴き出す。


(……再生する気か)


黒月は飛び退き、即座にナイフを投擲。

それと同時に地面を蹴り、角度を変えながら突進。

第二の刃を腰から抜く。


──脳核を潰すしかない。


しかし、目標の“中心”が分からない。

変異体は、外見の中央に脳がない。


(……違う、これは“群知能”だ。複数の意識を──)


「っ──!」


横からの突撃。

怪獣の一体が飛びかかり、彼の脇腹を裂く。


瞬間、赤ではなく黒ずんだ血が飛び散る。


(またか……この色)


黒月は思い出す。

いつからか、自分の血が“人間のそれ”じゃなくなっていたことを。


食って、喰らって、生き延びた代償。

再生は早い。骨もすぐに繋がる。


──だが、それは人間の治癒じゃない。


「……ああ、そうか。

 俺が“人間”じゃなくなったのは、アイより前だったんだ」


笑いにも似た呟きとともに、黒月は前傾姿勢から一気に加速。


視認不能な動き。

重力を無視したような軌道。

速度と質量を乗せた肘打ちが、変異体の頭部を砕く。


その瞬間、背後で少女が叫んだ。


「──やめてッ!!」


黒月の身体が凍るように止まる。


見ると、アイが震えていた。

立ち上がり、彼の後ろ姿を掴もうと伸ばす。


「お願い、もう……殺さないで……やめて……」


その言葉は、変異体の群れにも影響したのか。

動きが、一瞬だけ鈍る。


──そして。


少女の手から、淡い金色の光が漏れた。


(あれは……能力?)


思考するより早く、

その光が周囲の怪獣の神経伝達を狂わせた。


変異体の一体が、仲間へ向けて暴走する。

別の個体が自ら壁へ頭を打ち付けて動かなくなった。


「……感応系……か? 精神操作……?」


黒月の目が細くなる。


(もしくは、“怪獣との同化”によって得た調停能力……)


少女の力が、無意識に作用している。

このまま放っておけば、彼女は自壊するか、

あるいは周囲を全て“静止”させてしまう。


「やめろ、アイ。

 ……これ以上使うな、お前の“身体”が壊れる」


少女の目に、涙が浮かんでいた。


「……わたし、こわいの……でも……

 あなたが……人間じゃなくなるのは、もっと──こわい」


黒月は、言葉を失った。


彼女はわかっていたのだ。

彼の中にある、怪獣と同じ“匂い”を。


そしてそれでも──


「お願い……“人間のままでいて”」


それは、かつて黒月が誰かに言われたことのない言葉だった。


だが、沈黙は続かない。


周囲の粘液が脈動し、残存していた変異体群が再起動。


群れの中心にある巨大な“母核”が覚醒しかけていた。


それを見て、黒月は立ち上がる。


背後の少女を守るように立ちふさがりながら、

小さくつぶやく。


「……なら、俺が壊す」


“お前が人間でいるために”。


その言葉とともに、黒月の身体から蒸気のような熱が立ち上る。


傷が、肉が、骨が、音を立てて再構築されていく。


目の色が、少しだけ金色に変わった気がした。


光の粒子が皮膚から立ち上っていく。

再生ではない、変質。

筋繊維が異様に膨張し、皮膚の下で血管が暴れる。


黒月は理解していた。

“怪獣の肉を喰らって生きる”ことが、

少しずつ、確実に自分の肉体を蝕んでいたことを。


それでも――今この瞬間だけは、自分を裏切るわけにはいかない。


「……“全開”で行く」


ナイフを二本、両手に逆手に握る。


正面の母核が咆哮を上げ、

天井を突き破るように巨体をせり上げた。


《識別コード:未登録種。C+→B-クラス相当へ変動》


システムの音声が警告を繰り返す。

だが黒月の脳は静かだった。


足元の空気が、爆ぜる。


──初動加速、0.2秒。

ナイフ一閃。突撃。


斜めから侵入、母核の“視野”に入る前に滑り込む。


瞬時に背後を取って、

左脚の腱を切断。


その動作と同時に反転、跳躍。


母核の尾が薙ぎ払う。

反射的に姿勢を低く、地を這うように転がる。


そのまま起き上がり、第二撃。

頸椎を狙ったが、骨格が“異常に柔軟”だ。


「クソ……こいつ、再設計された怪獣か?」


思考が間に合わない。

攻撃が次々と迫る。


だが、黒月の目はすでに戦場の“全て”を見ていた。


呼吸のリズム、心拍の高鳴り、視野の歪み。

それらすべてを加味した上で――


「殺す。」

――――――――――――――――――――――――――――――――

(見てる。殺してる。守ってくれてる。でも──)


自分の手が、熱い。


皮膚がひび割れ、

中から金色の光がにじんでいる。


それは“何か”の能力。

意思に関係なく流れ出す力。


(わたしが、止めなきゃ)


けれど、心が“割れたガラス”のように軋む。


記憶が断片でしか戻らない。

目の前の人が“コズキ”であることは、

“身体”が、覚えているのに。


(でも──

 わたしは、もう人間じゃない)


――怖い。


この手で誰かを傷つけたらどうしよう。

彼が近づいたときに、また発作が起きたらどうしよう。


それでも。


「“壊したくない”の、コズキを──わたしのこと、名前で呼んでくれた人を」


涙とともに、言葉にならない声が喉から漏れる。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 その“瞬間”に、マリアは辿り着いた。


スラム地下第6隔層、封鎖された空間。

ドローン視認野の外から、

強制鍵解除コードで侵入した。


(間に合え──)


視界の先。

金色の光を放つ少女と、

怪獣と化した母核と戦う黒月。


どちらも人間ではない。

けれど──“確かに、まだ人間であろうとしている”。


(黒月くん……)


マリアはポーチから、

神経制御用のスタンアクチュエーターを取り出す。


それはアイを一時的に気絶させ、

力の暴走を止める装置。


「……でも、それを使ったら──彼女の“心”も閉じるかもしれない」


葛藤のまま、マリアは動けなかった。


そして、黒月の一撃が決まる。


回り込んだ動作から、

左足を軸にして回転、跳躍。


ナイフが、“心臓らしき部位”を貫いた。


母核、絶叫。


粘液が爆ぜ、周囲の変異体が発狂し始める。


だが、母核は崩れ始めた。

ようやく終わる、そう思ったとき。


「──アイっ!」


少女の身体が、熱に包まれた。


制御不能な暴走。


力があふれる。

脳波異常。細胞活性限界。

彼女の体が、“怪獣”と人間の境界で“分裂”しかけている。


黒月はその光に飛び込んだ。


暴走中の彼女を、抱きしめるように。


「だいじょうぶだ。

 お前は、まだ“壊れてねぇ”」


光が、震え、揺らぎ、そして――


少女の意識が、黒月の胸の中で崩れるように、眠った。

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