第3話花冠の檻

その部屋は、静寂で包まれていた。

訓練棟とは別の区画にある、隔離された居住ユニット。

無機質な壁面と、整然とした家具の配置。

しかしその空間の中央──ベッドに座る少女は、まるで別世界にいた。


彼女の名は、霜月 柚葉(しもつき ゆずは)。


その細い指が、空中を撫でるように動くと、

何もなかった床に、小さな白い花が咲いた。


(あの人は、戦った……)


彼女のまぶたは閉じられていたが、意識は遠くへ伸びていた。


脳に埋め込まれた感応装置が、

数時間前の訓練場の戦闘記録を“感情信号”として送ってくる。


その情報に、柚葉はそっと心を傾ける。


──痛み。怒り。焦燥。沈黙。そして……生。


それらが、一人の男の中に同居していた。


(“欲しがっていない”のに、“生きている”──)


柚葉には、それが不思議だった。


人は、何かのために生きる。

喜び、悲しみ、誰かを思うために。


だが──

「存日 黒月」という存在には、それらがなかった。


それでも、彼は生きている。

必死で、生きようとする。

ただ、それだけのために。


そのことが、柚葉には──どこか美しく思えた。


扉がノックされる。

振り返ることなく、柚葉は声を発した。


「どうぞ。……来るのは、名代さん、ですよね?」


「正解。さすが観応処理班のトップ」


名代 美都が入室し、端末を携えたまま彼女の正面に立つ。

柚葉は立ち上がらず、手のひらの上に咲いた花を眺め続けていた。


「さっきの人、黒月さん。彼のこと、少しだけ“見えました”」


「どうだった?」


「燃えていなかった。枯れてもいなかった。

……けど、まだ“芽が出てない”花みたいでした。

どこかに、“咲く理由”を探してるように感じました」


名代は少し黙り、そして静かに頷いた。


「明日、正式に引き合わせるわ。

彼は多分、“あなたにとって”……」


「……鍵、になる?」


柚葉の問いかけに、名代は否定も肯定もしなかった。

ただそのまま端末を閉じると、短く告げた。


「自由な時間は今夜まで。

明日、境界外演習棟で“模擬協同任務”。相手は……」


「“人間”、ですか?」


名代は目を見開いたが、すぐに笑う。


「──ええ。“本物”のね」


柚葉は、そっと咲いた白い花を指先でちぎると、

そっと髪の隙間に挿した。


その瞳はまだ、閉じたまま。


でも、その目は──

明日、“黒月”という存在を見るために、ゆっくりと開き始めていた。


(……クソ、眩しい)


朝日がガラスを抜けて直撃してくる。

白すぎる床、白すぎる天井。清潔すぎる空気。


(どうしてどいつもこいつも、

こういう施設は“神経質”みたいな色してんだよ)


黒月はソファにだらしなく腰を沈め、首筋を軽く鳴らした。

着せられた訓練服は体に馴染まず、脇腹の古傷がむず痒い。


そもそも、朝から他人と組まされる模擬任務など、気が進まなかった。


「準備、できてる?」


名代が入室し、後ろから訊ねてくる。


「別に。着替えさせられた時点で強制参加でしょ」


「素直でよろしい。──では、行きましょうか。

今日の“相方”も、すでに演習棟に入っている」


(……今日の、相方)


黒月はわずかに眉を寄せた。

戦うことは慣れている。

だが、“誰かと一緒に”戦うという発想そのものが、まだ馴染まない。


(組まされるってことは、つまり──見られてるってことだ)


演習棟までの道中、誰とも言葉は交わさなかった。


空調の音だけが反響する広いフィールド。

外装訓練区画と呼ばれるそこは、都市瓦礫を模した構造になっていた。


崩れたビルの残骸。傾いたガードレール。

油の染みついたアスファルトのにおい。


だが、その中に“場違い”な存在がひとつあった。


──白い髪。整った制服。無駄な動きのない立ち姿。


まるで“花瓶に差された一輪の白花”のように、

そこに、柚葉が立っていた。


(……人間、だよな?)


黒月は、言葉ではなく感覚で確認したくなった。


周囲の空気が、彼女の周囲だけ違う。

静かで、冷たい。けれどそれは“拒絶”ではなかった。


名代が一歩進み出て言う。


「紹介するわ。霜月 柚葉。正規訓練枠・ハイブリッド系。

今日の模擬任務は、二人組での連携試験。対象は“ランクC害獣・虚躯”一体」


「霜月、柚葉……」


黒月が呟くと、彼女は初めてこちらを見た。


そして、何の前触れもなく──


「汚れてない、ですね。あなた」


そう言った。


一瞬、時間が止まったように感じた。

黒月の足が、半歩だけ止まる。


(……は?)


「汚れてない?」


誰よりも血を浴びて、

誰よりも汚れた世界で這ってきた自覚がある黒月にとって、

それは最も遠い評価だった。


「冗談か?」


「いえ。……他の人より、“自分の中”が濁っていないってことです」


「それ、あんたの能力の一部?」


「そうですね。少しだけ、“中身”が見えるんです。

感情の色……みたいなもの」


(感情の……色?)


黒月はその言葉に、奇妙なざわめきを覚えた。

久我 烈士のようにぶつけてくるわけでもない。

名代のように評価してくるわけでもない。


この少女は、“最初からこちらの内側を知っている”ような目をしていた。


「……名前、覚えたわ。黒月さん」


柚葉は微笑む。それは作り物ではなかった。

ただ純粋に──“興味を持った者”に向けられるものだった。


訓練用アナウンスが鳴る。


《模擬演習、開始します。対象虚躯が3分後に出現します。

合同任務評価項目:索敵・連携・撃破速度・損傷率》


黒月は小さく舌打ちし、手首を回す。


「連携とか……知らねぇけど。

足引っ張るなよ、お姫様」


「ええ。でも、あなたのほうが“速そう”ですから、

引っ張ってくれると信じてます」


そのとき。黒月の口元が、ほんのわずかに笑った。


──ほんの一瞬だけ。

“人間らしい感情”が、その目の奥に灯った。 


 《対象、出現まで10秒──》


アナウンスが終わると同時に、空間の一角が不自然に歪んだ。


そこには“何もない”はずの空間だった。

しかし空気のひび割れのような歪みが音もなく弾け──“それ”は現れた。


異常なほど痩せ細った灰色の肢体。

黒く濁った眼孔の奥には知性の欠片もなく、

人間の骨格を模した外皮の隙間から、甲殻と肉が露出している。


名を、虚躯(きょく)。

ランクCの中では比較的俊敏で、寄生型の小型個体を分裂させる性質を持つ。


(“数で囲んで、肉を食う”やつだ)


黒月の脳が即座に構造を見抜く。

虚躯は単独での強さよりも、感染と増殖による撹乱を得意とする。


「動くな」


黒月は柚葉にだけ短く告げた。


「……?」


「最初の一撃で、位置を“ずらす”。

俺が正面から突っ込む。あんたは──それを見てから動け」


一切の説明なし。戦術もなし。ただ、指示。


しかし柚葉は、ただ一言。


「……了解です」


そう返した。


虚躯が一歩、踏み出す。

その瞬間、黒月は既に動いていた。


“靴が地面を蹴った”のではない。

“空間に置き去りにされた残像”だけが、地面に存在した。


虚躯の右肢をすり抜けるように滑り込み、

黒月は訓練用の金属棒(スティック)を一閃。

膝裏へ斬りかかる。


ゴギッ──という乾いた音。

だが虚躯は倒れない。膝から別の脚が生え、重心を維持した。


(再生……じゃなく、形態変化型か)


再判断が速い。

次の瞬間にはもう、黒月は後方へ飛びのいていた。


──だが、その背後に、いつの間にか寄生体が現れていた。


「──!」


重心を落とし、即座に低く回転する。

黒月の踵が寄生体の胴体を薙ぎ払ったが、

その瞬間、別の寄生体が左腕に食らいついた。


「チッ……!」


食い込む歯。だが黒月は表情を変えない。

すぐに肩から脱力し、そのまま肩ごと振り抜いた。


関節が外れかけた瞬間、腕ごと寄生体を地面に叩きつける。


しかし、虚躯本体がその隙を見逃すはずがなかった。


口腔のように裂けた胸部から、鋭い脚のような肢が黒月へ突き出される。


(──やるしかねぇ)


黒月は、自らの右足を“軸にして”身体を止めた。

躱すのではなく、“踏みとどまる”。


(間に合わないなら──当てる)


そして、全身の重心を肢にぶつけるように体を傾けた──


「“間合い”、ズレてますよ」


──その瞬間、

黒月の視界の隅に、白い“蔓”が伸びていた。


虚躯の“攻撃肢”が、空中で突然絡め取られ、

まるで花瓶を包むリボンのように締め上げられる。


(花……?)


黒月の背後にいたはずの柚葉が、動いていた。


「交差、します──右、1歩、ずれて」


黒月は、言葉の意味を即座に把握し、

踏み出した。


その瞬間、彼の足元を避けるように、

純白の花弁が咲き乱れ、無数の蔓が虚躯の脚部を拘束した。


「いけますか?」


「……問題ない」


黒月は“本体の動きを封じられた”ことを即座に判断し、

腕を振る。スティックの先端が縦に構えられ、虚躯の首筋へ突き刺さる。


鈍い音。

そして、甲殻の奥から流れる濃緑の液体。


虚躯は痙攣しながら崩れ、

最後に、花の上で静かに“沈黙”した。


《対象、撃破確認。評価:A- 連携精度:68%

柚葉=技術・制御良好。黒月=制圧力特化。協同意識に課題あり》


スピーカーがそう告げるなか、

柚葉は自分の能力を収束させながら、黒月の横に立った。


「言葉じゃなくても、読めました。

あなたの動き──“生きる”って、すごく単純だけど、すごく強い」


黒月は答えなかった。

ただ、彼の肩がほんの少しだけ、揺れた。


それは、初めての“誰かと組んでの勝利”。


──そこに、価値があったかどうかは、まだ分からない。


だが、胸の奥に残った熱だけは、

ほんの少し──

“生きる理由”に、似ていた。


 戦闘が終わったあとの訓練場は、

まるで“命”を喪った後の静けさだった。


虚躯の死骸はすでに撤去され、

再整備された床には、彼女の咲かせた花の痕跡すら残っていない。


けれど──

柚葉の内側には、まだ確かに咲いていた。


(……あの人の“動き”、感情じゃない)


彼は、戦いの最中、怒っていなかった。

恐れてもいなかったし、喜びもしていなかった。


ただ、“生きる”という一点だけが、すべての動作に染み込んでいた。


柚葉は知っている。

多くの戦士が「恐怖を隠すため」に怒り、

「無意味を忘れるため」に憎み、

「強さを偽装するため」に笑う。


けれど──


(彼には、“演技”が一つもなかった)


だから、見えた。

白すぎるほどに、感情の“輪郭”が。


──そこに色がないのに、綺麗だと思った。


食堂の隅、ガラスの窓辺。

放課後のような時間帯に、柚葉は一人で座っていた。


カップに入れた花茶から立ち上る湯気の向こうに、

現れたのは、黒月だった。


彼女は立ち上がらない。目も合わせない。

ただ静かに訊ねた。


「……なぜ、誰かと組むのが嫌だったんですか?」


黒月は返さない。


椅子を引いて座ると、無言でカップの中身を覗く。

中に咲いた花が、くるくると水面に揺れていた。


「──信じて、壊れたことがあるから?」


「いいや」


黒月は短く否定した。


「最初から、信じたことがねぇんだよ」


柚葉の手が、わずかに止まる。


「……じゃあ、どうして今日、私に“合わせてくれた”んですか」


黒月は少しだけ考えるように、空を見た。


「戦いの“形”が、いつもと違ったから」


「違った……?」


「あんたの動き。蔓の軌道。

俺の間合いに“合わせて”きた。──こっちが動いた方が、楽だった」


「……利用、したんですね?」


「別に悪いことじゃねぇだろ」


柚葉は、笑った。


(やっぱりこの人は……少しだけ、不器用だ)


「はい。そうですね。

でも、“誰かと組んで動く”って、少しだけ楽しかったでしょう?」


「……まだ、わかんねぇよ」


そう言って、黒月は立ち上がる。


カップの中に浮かぶ花は、ほんの少しだけ色づいていた。

透明だった水に、うっすらと“青”が滲んでいた。


柚葉の能力が、それを“彼の感情”と認識する。


(──あれは、“興味”。)


初めて、彼の中に色がついた瞬間だった。


柚葉は目を閉じ、微笑む。


(やっぱり、この人は“汚れていない”)


感情がないわけじゃない。

ただ、まだ“名前を知らない”だけだ。


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