3:変わった依頼
変わった依頼だった。
そう思ったのは、エルトゥスだけではなかったらしい。
アストリーが帰ってすぐの午後三時四十五分。一階の事務所でショートケーキを食べるノアは「変わった依頼だったよね」と呟いた。
アストリーは、とある事情からルシアに本名を明かすことができず、トマ・ナーグ・スレイという偽名で十二年もの間、マクラウド孤児院とルシア個人に寄付をしていたらしい。
ルシアがそのことを知ったのは、彼女が十歳のとき。
そして、ルシアが送ったお礼の手紙をきっかけに、二人は文通を始めたのだという。
ただ、文通と言っても、一般的な文通とは少し違っている。
何せ、二週間に一度ルシアが手紙を送って、アストリーは月に一度だけ短い返事をするという、変わった関係なのだ。
それでも七年間途切れることなく文通しているらしいから、ルシアは納得しているのだろう。
そんなルシアが「スレイさんに会いたい」という手紙を送ってきたのは、昨日の夕方。
二か月後に十八歳を迎える自分は孤児院を出ていかなければならないから、その前に一度だけでもスレイさんに会いたい、直接お礼を言いたい……。手紙にはそう書いてあったそうだ。
手紙を読んだアストリーは悩んだ。本名を明かせないだけではなく、ルシアと会えない理由があるのだという。
どうすればいいか考えた結果、アストリーはイストリア社に依頼しようと決め、遠く離れた首都・トラビカからフラッタまでやってきた。
電話で予約を取らなかったのは、もし他の依頼が入っていても直接頼み込めば引き受けてもらえるかもしれないと思ったかららしい。
「会えない理由は知らないけどさ」
フォークの先でいちごをつついたノアが言う。
「スレイとかいう架空の男はルシアって子に会ったことないわけでしょ。わざわざうちに依頼しなくても、どこかの劇団員にたのめば安上がりなのに」
「確かにね……」
エルトゥスは、隣の席から漂うカフェオレの香りを楽しみながら相槌を打つ。
発話代行人であるエルトゥスの仕事は「依頼人の代わりに話す」ことだけれど、実は、この説明だけだと正確ではない。
「依頼人が指定した人物と、まったく同じ声や口調で話す」こと――。
それが発話代行人であるエルトゥスの仕事だ。
エルトゥスは「
そんなエルトゥスが人間と同じように喋ることができるのは、魔力を扱えるから。
実際には存在していない声帯や肺を魔力で疑似的に作り出し、声帯そのものや音の響き方を変えることで依頼人が指定した声を再現する――。
こう説明すると難しいことのように感じるけれど、要するに「魔力を扱う能力のおかげで声を自由自在に変えられる」ということだ。
ただし、声を変えるのは簡単なことではない。
エルトゥスにとって声を変えることは、楽器のチューニング――正しい音程に合わせること――をするようなもので、依頼された声と同じ声で話せるよう事前に練習する必要があるのだ。
しかも、エルトゥスが普段喋っている声とは違い、再現で作り出した声をそのまま保管しておくことができない。
たとえば、誰かの声を再現したあと、しばらく経ってから「もう一度再現してほしい」と急に言われても、練習なしで再現することはほとんど不可能だ。
だから、イストリア社が引き受ける依頼は、基本的に一つだけ。
もしも誰かの依頼を引き受けているときに別の依頼が入ったら、引き受けている依頼が終わるまで待ってもらうことにしている。
そして――発話代行サービスの料金はかなり高額だから、イストリア社を利用する人は「エルトゥスじゃないと対応できない」ケースが多かった。
それなのに、アストリーは誰にでも依頼できる自分の代役を
(それに、アストリーさんが本名を明かせない理由ってなんだろう。立派なことをしてるのに)
アストリーは「とある事情」について話さなかった。だからエルトゥスたちも訊かなかったけれど、理由が気になるというのが本音だ。
「――厄介な案件ですか?」
理由について考えていると、マグカップとケーキ皿を手にした女性が
ウエストの辺りまで伸ばした砂色のブロンドと、琥珀色の瞳を持つアーモンド型の目、どこか凛々しさを感じさせる顔立ちに、すらりとした長身。
黒いタートルネックにチェック柄のロングスカートと黒タイツを合わせた彼女は、サラ・トレイラー。イストリア社で働く仲間の一人だ。
「まあ、ちょっとね」
向かい側のデスクへ移動したサラに、ノアは肩を竦めてみせる。
エルトゥスには理由が分からないのだが、ノアは彼女に多くを語ろうとしない。マリーとはもう少し話しているから、サラが苦手なのだろうか。
「サラさん、お疲れさまです」
と、エルトゥスはサラに声をかける。
「今回の定期報告はどうでした?」
「いつもと変わりありません。私にもアサラさんにも異常はないと伝えました」
「そうですか……」
サラの返事は素っ気ない。
サラは誰に対してもこうなのだ。基本的に敬語で話し、喜怒哀楽をほとんど表さない。――マリーのことだけは何故か名前で呼ぶけれど、その理由は不明だ。
そんなサラにちらりと視線を向けたノアは「毎月毎月大変だね」と話しかけた。
「特急に乗ってもンノー分室まで片道二時間近くかかるんでしょ」
魔法使いとして生きていくのも楽じゃないよね――。
そう言って、ノアはカフェオレを口にする。
サラ・トレイラーは、世間で言うところの「普通の人間」ではない。
特殊な能力を生まれ持ち、魔力を扱うことができる人間――〝魔法使い〟だ。
「
ただ、魔法使いが持つ能力は、
テトラノール国は魔法使いの扱い悩んだ末、「彼らの意思を尊重した上で彼らを保護する」と決めた。「かつて
そうして保護された彼らは、戦争を引きおこした
サラも、その一人だ。
サラは国立魔法研究所に所属している研究者で、今は出向という形でイストリア社にいる。
実を言うと、マリーも国立魔法研究所の出向社員だ。ただし、マリーは魔法使いではない。
それなのにどうして出向しているのかというと――いわゆる「大人の事情」というやつだ。
大人の事情はさておき、魔法使いであるサラの仕事は二つ。
一つ目は、エルトゥスの体に異常が生じていないかチェックしつつ、魔力に関する研究を行うこと。
二つ目は、月に一度、一泊二日の日程で、ンノーという街にある国立魔法研究所の分室に向かい、一か月間の出来事を報告すること。
ちなみに、エルトゥスがケーキを買いに行ったのは、出張で疲れているだろうサラを労わるためだ
ただ――。
「その分の給金はいただいていますから、問題ありません」
当人であるサラは、エルトゥスの気遣いに感謝こそしても「疲れている」「大変」と言ったことは一度もない。
それが本音なのか、それとも本心を隠しているだけなのか、鈍いエルトゥスにはまったく見当がつかなかった。
「ふーん」
と、ノアが相槌を打つ。
「いくら給料がよくてもボクには無理だな、会社勤めなんて」
「何事も適材適所と言いますから。アングレカさんは社長がお似合いですよ」
「……それ、褒めてる?」
「ええ、もちろん」
微かに眉を顰めたノアに、サラは微笑みもせず答えた。
(……適材適所かあ)
確かにそうかもしれないと、二人の話を聞きながら思う。
十一歳の時点で
一方、魔法使いであるサラの「魔力の流れを読み取って操る能力」を最大限に生かせるのは、魔力の研究をしている国立魔法研究所だろうから、まさに適材適所だ。
しかし、エルトゥスはどうなのだろう。
発話代行という仕事をするのは決して簡単ではないものの、仕事自体は楽しいし、かつての
それでも、エルトゥスは過去のことを何も覚えていないし、新しい人生もまだ二年目。ノアやサラのように「今の仕事が一番自分に向いている」と言い切るだけの自信はなかった。
「――エル、どうしたの?」
「え?」
ノアに声をかけられて、エルトゥスは首を傾げた。
「何が?」
「考え事してるみたいだったから」
(よく見てるなあ)
内心感心しながら、どう答えればいいか考える。
「僕も適材適所だと思う?」と尋ねたら、ノアはきっと「当たり前でしょ」と言うに違いない。
少し考えたあと、エルトゥスは「今度の依頼も頑張ろうって思ってたんだよ」と答えた。
「分からないことも多いけど、わざわざ僕たちに依頼してくれたんだからね。アストリーさんの期待に応えないと」
「エルってば、相変わらずお人好しなんだから」
やれやれと言いたげに首を横に振って、ノアはため息を吐く。
「そりゃ仕事だからちゃんとやるのは当然だけど、ボクだったら
(まだ根に持ってたんだ……)
エルトゥスは苦笑いした。
ノアがここまで怒っているのは、エルトゥスがまったく怒らないからだろう。
ただ、エルトゥスは「そんなに過剰反応しなくていいのに」と思っている。
「まあ……アストリーさんの態度はよくなかったかもしれないけど、本当はそんなに悪い人じゃないんじゃないかな。僕はそう思うよ」
エルトゥスの発言を聞いて、ノアは眉を顰めた。
一方、エルトゥスをちらりと見たサラの表情は変わっておらず、好物だというチョコレートケーキを無表情で食べている。
「とにかく、面会のために明日から頑張るよ。手紙の量は膨大だろうし、ノアも協力してね」
「当たり前でしょ」
ショートケーキを食べ終えたノアは眉を顰めたまま言った。
「あの人は好きじゃないけど、ボクは、ボクが選んだ仕事をするだけだよ」
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