9:ありがとう、おやすみなさい

『――ラーダ』

「リトマ、さま……」


 リトマ牧師の声に、ラーダの目が再び潤む。

 本人でないと分かっていても心動かされずにはいられないのが大切な人の声というものだ。その重みを背負って喋る以上、ただ単に彼女を神の御許へ導くだけでなく、彼女の心に寄り添うようにリトマ牧師の想いを伝えなければならない。


『長い間寂しい思いをさせてすまなかったね、ラーダ』

「リトマさまぁ……」


 ラーダの目から涙が溢れ、ふっくらとした頬を伝い落ちる。闇を濃く映した瞳はもはや琥珀色とは呼べなかったが、きらきらと輝く様は変わらず美しかった。


『この四十年間、祈りという形で語りかけるだけだったからね。本当はラーダと直接話したかったのだけど……叶わなくなってしまったから、アサラさんに託すことにした。それでもいいかな』

「はい……っ」


 涙に声を震わせながら、ラーダは頷いた。向こうが透けて見える瞳に、もはやエルトゥスは映っていない。


『ありがとう。……最初に、一つ謝らせてくれないかな』

「え……?」

『私は、君の魂が神の御許で眠っていないことに気付けなかった。それどころか、私の祈りが原因で、君を地上に引き留めてしまっていた。私はただ、私よりも先に神の御許へ向かうことになった君に安らかに眠っていてほしかっただけなのに。……すまない、ラーダ』

「そんな、ことっ!」


 リトマ牧師の言葉に、ラーダは声を荒らげた。小さな肩は涙と激情に震えている。


「死んじゃう前のことは、なにも覚えてないけど……でもっ、リトマさまが祈り続けてくれたから、とつぜん神さまのところへ行くことになっても、おだやかな気持ちで眠ってたの。リトマさまが話しかけてくれなかったら……呼んでくれなかったら、わたし……!」


 寂しくて、悲しくて、苦しくて、つらくて。

 理由がわからなくて、許せなくて。

 わたし、きっと悪い子になってた。


 実体のない涙をぽろぽろとこぼし、しゃくり上げながら、ラーダは想いを紡ぐ。

 涙に濡れたその顔には、エルトゥスが見た中で一番幸せそうな笑みが浮かんでいた。


『……ありがとう、ラーダ。君は本当に優しい子だ』

「……えへ……」


 泣き笑いを浮かべ、溢れる涙を拭いながら、ラーダははにかむ。その表情は穏やかで、エルトゥスには彼女が既に満たされているように見えた。


『優しいラーダ。君にお願いがあるんだ』

「何ですか、リトマさま」

『――どうか、私がいる神の御許に向かってほしい』


 にこにこしているラーダに、本題を告げる。

 リトマ牧師とエルトゥスの願いは同じ。――ラーダ・ミランの魂を、神の御許へ導くこと。

 だが、当然とも言える申し出に対し、ラーダは口角を下げて答えた。


「……どうすればいいのか、わからないの……」


 絶命した時点で神の御許へ向かえなかったラーダには、その方法が分からないらしい。リトマ牧師の願いに応えることができず、今にも泣き出しそうな顔をしている。


『ああ、大丈夫だよラーダ。……目を閉じて、これまで祈りを捧げ続けてきた神様のことを考えるんだ。そうすればきっと、魂は天に昇ってゆくから』

「神さまのことを……」


 小さく呟き、ラーダは目を閉じた。実体のない手をそっと重ね合わせて指を組む。


「神さま……わたしを、リトマさまとおなじ場所にみちびいてください……」


 静かに響く祈りに合わせ、エルトゥスも心の中で同じことを願う。

 数多の教徒がその存在を強く信じ、祈りを捧げ続けてきた神なのだ。たとえ存在が確認できずとも、強い想いは必ず何かしらの形になるだろう。――ヒトの言葉や想いは時に信じられないような奇跡を引き起こすのだと、エルトゥスは知っている。


(あ……!)


 墨を流したような空の端が少しずつ色味を変えゆく中、透けていたラーダの足元がうっすらと形をなくし始めた。

 これが『神の御許へ導かれる』ということなのだろうか。エルトゥスには分からないが、ラーダという亡霊が地上を離れようとしていることは確かだ。


 自らの存在をゆっくりと消し始めたラーダだったが、その変化は膝の辺りで急に止まった。目を閉じたラーダは祈り続けているのに、ラーダの魂がこれ以上離れていく様子はない。


「――リトマさま」


 目を瞑ったままのラーダがリトマ牧師を呼ぶ。静かな声には微かな不安が交じっていた。


「わたしを……呼んでください……」


 ――ああ、そうか。

 ラーダの心情を汲み取ったエルトゥスは、祈りを込めて言葉を紡いだ。


『こちらへおいで、ラーダ。――もう寂しい思いはさせないから』

「……はい」


 答える声に静かな喜びを湛えて、ラーダは答える。

 直後、彼女の体は再び消え始め、やがて胸の辺りまで到達した。ラーダの魂が完全に地上を離れるまで長くはかからないだろう。


「――ありがとう、がいこつさん」

「え……」


 ラーダから突如呼ばれ、エルトゥスとしての声が漏れる。

 首の辺りまで消えかけたラーダは目を開けるとエルトゥスを見つめ、優しく笑った。


「ノアさんのこと、神さまのところから見てるね!」


 明るい声で言って、ラーダは再び目を閉じる。

 そして――不安と心残りをなくした彼女の魂は、神の御許へと旅立った。


「……再会できたら、真っ先に紹介するよ」


 空が白みゆく中、エルトゥスは返事をする。

 夜明けを待つエルトゥスの耳には、ノアやドラゴのものとは違う二人分の「ありがとう」が届いた――気がした。



      ✦✦



 夜が明ける瞬間というのは、どうして見る者を神秘的な気持ちにさせるのだろう。

 そんなことを考えながら、エルトゥスは日が昇るほうを眺めていた。


 美しい時間帯というのは多数存在する。たとえば、眩い陽の光に草木が照らされる時間帯であったり、沈みゆく太陽が絶妙なグラデーションを生み出す夕暮れ時であったりと、数え上げればきりがない。

 ただ、エルトゥス個人としては、夜から朝へと移り変わる時間帯――殊に夜明けの瞬間が、最も美しいと感じる時間帯だった。

 眠る必要のない夜、エルトゥスは海沿いにある某地点に向かうことが多い。目的はもちろん、夜明けの瞬間を眺めるため。穏やかな水面みなもが太陽に照らされゆく光景をぼんやり眺めるのがエルトゥスの楽しみなのだ。


「――エル!」


 眩い光が背の高い木々を照らす中、待ち望んでいた声が教会のほうから響く。

 声が聞こえた方向を向くと、息を切らしたノアとドラゴがエルトゥスめがけて走ってくるところだった。


「ノア! イラスさん!」

「無事だったんだね、エル!」

「アサラさん! ああ、よかった……!」


 それぞれ安堵の表情を浮かべたノアとドラゴがエルトゥスの前で立ち止まり、浅い呼吸を繰り返す。突如仲間と引き離された心労によるものなのか、無事再会を果たした二人は随分と疲れて見えた。


「エル、どこにいたの? ボクたちずっと探してたんだよ!」

「えっ、そうなの?」


 二人と引き離されていたのは約一時間。その間ずっと探していたのなら疲れているのは当然だ。


「ごめんね……。僕はここにいたんだけど、二人がどこに行ったか分からなくて。イラスさんにも申し訳ないことをしました」

「いえ、ご無事ならそれだけで……本当によかった……」


 呼吸を整えながら、ドラゴは微笑んだ。――エルトゥスが責任を感じていたように、ドラゴもまたエルトゥスを巻き込んだ責任を感じていたのだろう。彼の姿は一時間前よりも老け込んで見える。


「でも、ノアたちはどこにいたの?」

「それがさあ、霧が出たと思った次の瞬間には森の入り口に立ってたんだ。イラスさんは近くにいたからすぐ合流できたんだけど、エルはどこを探しても見つからないし、ラーダがいる場所にも何故か辿り着けなかったから本当焦ったよ」


 やっぱり亡霊の特殊能力なのかなあ、あれ。

 エルトゥスと同じ感想を抱いていたらしいノアが首を傾げる。

 何故こんな状況に陥ったのかは依然分からないままだが、エルトゥスとラーダは閉ざされた空間にいたようだ。


「それで、エル。ラーダはどうなったの? また消えちゃった?」

「あ、ううん。多分、神様のところに辿り着けたと思う」

「えっ」

「ええっ!」


 さらっと言ったエルトゥスに、ノアとドラゴはそれぞれ驚きの声を漏らした。ドラゴのほうは余程驚いているのか「本当ですか」「ラーダを導いてくださったのですか」と、食い気味に尋ねている。


「ええ、恐らく大丈夫だと思います。ラーダさんにはリトマ牧師が亡くなったことや彼女が魂だけの存在であることも伝えましたが、リトマ牧師として会話した僕にもお礼を言ってくれたので……」

「そう、ですか……」


 力の抜けた顔に笑みを浮かべ、ドラゴは相槌を打つ。

 よかったと呟く彼が涙ぐんでいるのは、役員としての役目を果たせたからだけではないのだろう。


「……あっ、そうだ」


 涙を拭うドラゴの傍ら、エルトゥスはノアを手招きした。

 それから空を見上げ、穏やかな声で話しかける。


「この子がノアだよ」

「……何? 急に」


 あらぬ方向を向いたエルトゥスに紹介され、ノアは眉を顰めた。


「っていうか、誰に話してるの?」


 吹き抜けてゆく風にローブの裾を揺らしながら、エルトゥスは微笑みを浮かべて答える。


「ラーダさんとリトマ様にだよ、ノア」

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