第5話
エンジン修復への道
「最優先事項は、エンジンモジュールの修復です。それが、この宙域から脱出するための唯一の道となります」
アーガス専用AIの、どこまでも冷静な声が、静まり返った艦橋に響いた。その声は、まるで熟練の外科医が手術の手順を説明するかのように、感情の起伏を感じさせない。
「それで、この見るも無残なスクラップ同然のエンジンを、本当に直せる見込みはどれくらいあるんだ? 正直に言ってくれ」
ハヤトは、メインスクリーンに投影されたエンジンの3次元構造図を見つめながら、半ば自嘲気味に問いかけた。スクリーンには、赤く点滅する無数のエラーコードと共に、致命的な損傷を受けたモジュールの詳細な図解が表示されている。それは、素人が見ても絶望的な状況であることは明らかだった。
「エンジンの第1ユニットは、残念ながら完全に機能を喪失しています。修復は可能ですが時間と人手いります。しかし、幸いなことに、第2ユニットと第3ユニットの損傷は、広範囲に及んではいるものの、致命的なコア部分には達していません。つまり、局所的な修復作業で、機能を回復できる可能性があります」
AIは、まるで他人事のように淡々と説明を続ける。
「局所的な損傷、ね……。言葉で言うのは簡単だが、どれだけの手間と時間がかかる? 俺ひとりで、本当に可能なのか?」
ハヤトは、スクリーンに映し出された、まるで迷路のように複雑怪奇な回路図を見ながら、思わず苦笑いを浮かべた。
「精密な修復が必要となるため、正確な作業時間を算出することは困難です。ですが、もし修復が完了すれば、艦をこの場から動かすための、最低限の推進力は回復できるはずです。漂流状態からは、確実に抜け出せます」
「つまり、この宇宙の墓場から、一歩踏み出せるかもしれない、ということか」
ハヤトの言葉には、期待よりもむしろ、目の前の困難に対する諦観が滲んでいた。
「必要であれば、詳細な修復手順は、私が段階的にガイドします。
ご安心ください、少佐」
AIの声は、ハヤトのそんな自嘲を意に介す様子もなく、あくまで冷静沈着だった。
修復前の準備
「それでは、第3デッキのエンジンセクションへ向かう準備をお願いします。道中、艦内の損傷が激しい箇所もございますので、十分にご注意ください」
AIが、艦内マップとハヤトが移動すべき安全なルート、そして作業予定箇所を、メインスクリーンに分かりやすく投影した。まるで、ゲームの攻略マップのようだ。
ハヤトは、黙って頷くと、手早く作業用のグローブを装着し、腰のベルトには様々な工具が収められたポーチを確実に固定した。次いで、簡易型の酸素供給システムを起動し、残量を確認する。エンジンルームは、もともと高熱と有害物質に満ちた危険な区画だ。ましてや、これほど損傷した漂流艦の中では、酸素濃度が安定している保証などどこにもない。装備は、生き残るための最低条件だった。
彼は、ヘルメットを装着し、バイザーを下ろした。
「アーガスAI、艦内の環境状況を再度確認しろ。特にエンジンルーム周辺の酸素濃度と、有毒ガスの発生状況をだ」
「エンジンルーム周辺の酸素濃度は、やはり基準値を大幅に下回っています。また、冷却材の漏出による微量の有毒ガスも検知されています。補助酸素供給装置の使用と、可能な限りの防護装備の着用を強く推奨します」
「了解した。死にたくはないからな」
ハヤトは、整備用の強力な整備用ライトを手に取ると、短く、しかし深く息をつき、まるで戦場へ赴く兵士のように、固い決意を秘めた表情で艦橋を後にした。
廃墟のような艦内
艦内を照らす非常灯は、まるで瀕死の心臓の鼓動のように、二秒おきにか細く明滅を繰り返し、長い廊下を不気味な赤と黒のまだら模様に交互に染め上げていた。焦げ付き、めくれ上がった壁板。焼き切れて無残に垂れ下がる配線の束。真空の圧力に引き攣れて、見るも無残に凹んだ隔壁――。
一歩進むたびに、ハヤトのマグネットブーツが、床に散乱した金属破片を踏み砕き、乾いた、そしてどこか物悲しい音を立てた。まるで、廃墟となった神殿を歩む巡礼者のようだ。ここは、かつてノヴァリス連邦の技術の粋を集めた最新鋭艦だった場所。今は、その見る影もない。
「アーガスAI」
ハヤトは、ヘルメットの通信機越しに呼びかけた。
『はい、少佐。』と、アーガスAIが即座に返した。その声は、どこまでも冷静だ。
「現状、この艦における最上位の指揮権限を持つのは俺だ。艦の全システムの指揮権を、暫定的に俺に統合できるか? 緊急事態だ、プロトコルは後回しにしろ」
AI の思考を示すアイコンが、ヘルメットのHUD(ヘッドアップディスプレイ)の隅に淡く点滅した。まるで、AIがこの異例の要求を処理するために、膨大な計算を行っているかのようだ。
『階級照合:タカミヤ ハヤト少佐……。当艦、NSX-01R アーガスはプロトタイプであり、その絶対指揮権限の発動には、本来、大佐相当の階級が要件となります。現行プロトコル上、艦長代理としてのアクセス権限は、最大で92%までとなります』
「残り8%は、一体何なんだ? 今の俺に隠す必要があるのか?」
ハヤトの声には、苛立ちが滲んでいた。
『最重要機密事項である、跳躍炉心核の設定変更権限、及びナノマシン資源の“ブラックリスト”編集権限です。これらは、当艦の存亡、ひいてはノヴァリス連邦の安全保障に関わる、危険度AAAレベルの最重要領域となります』
「今は平時じゃない、と言ったはずだ。この艦には、正規のクルーは誰一人残っていない。このままでは、お前も俺も宇宙の藻屑だ。俺に、今すぐ指揮権を渡せ」
しばしの沈黙が流れた。遠くで、艦体の金属フレームが、まるで悲鳴を上げるように、ミシ…と軋む音が響く。
『……承知いたしました。現状況をレベル5の緊急事態と認定。臨時オーバーライドコード〈ARGUS/Ω-OMEGA〉を生成し、二重承認プロセスを省略します。艦長代行:タカミヤ・ハヤト少佐、全システムへのアクセス権限を95%まで解放します』
「……まだ5%残っているのか。まあいい、今はそれで十分だ。この艦を、必ず動かしてみせる。そして、生き延びてみせる」 ハヤトは、自分に言い聞かせるように呟いた。
脱出ログの再生
ハヤトは、荒廃した通路を慎重に進みながら、アーガスAIに新たな指示を出した。その足取りは、まるで地雷原を歩むかのように慎重だった。
「この艦が、あの研究施設から脱出する際の、内部の状況を記録したログがあるはずだ。それを再生してくれ。可能な限り詳細なものをだ」
断片的な、そしてノイズだらけの映像が、ヘルメットのHUD右眼側にホログラムとして展開された。それは、まるで古い記録映画の断片のようだった。
兵装格納庫での激しい爆発。紅蓮の炎を背に、必死の形相で何かを運ぼうとする技術者たち。そして、次元跳躍ドライブの点火シークエンスが開始される直前の、緊迫したカウントダウン音声。その音声もまた、激しいノイズにまみれ、途切れ途切れだった。
「――くそっ、次元冷却システムが、まだ完全に立ち上がっていない! このまま跳躍すれば、炉心がどうなるか……! だが、もう時間が無い! 跳ばなければ、全てが終わりだ!」
若い男性技術者の、悲痛な叫び声が響く。
「量産化さえ、量産化さえできていれば……! この艦が、たった一隻でも前線に配備されるだけで、今の絶望的な戦況を覆せる可能性があったのよ! いいから、早く発進させて! 私たちの未来を、この艦に託すのよ!」
今度は、若い女性技術者の、ヒステリックだが、しかし強い意志を感じさせる声が続いた。
「分かった! アーガスに、俺たちの、ノヴァリスの未来を――!」
男性の声が、そこで無情にも途切れた。〈通信断絶〉の赤い文字が、HUDに冷たく表示される。
ログは、そこで無残にも千切れていた。
「……量産さえできていれば、戦争の勝敗すら左右できた、か」
ハヤトは、思わず呟いた。その言葉には、深い感慨と、そしてやり場のない怒りが込められていた。
『彼らは、施設の防衛よりも、この艦、アーガスの離脱を最優先と判断しました。当艦とその搭載技術が敵の手に渡れば、“未来”そのものが根こそぎ奪われることになると、彼らは理解していたのでしょう』と、アーガスAIが、まるで過去のクルーたちの心情を代弁するかのように分析した。
ハヤトは、思わず立ち止まり、目の前の冷たい金属の壁に、そっと掌を当てた。そこには、無数の細かいヒビが走り、まるで氷のように冷え切っていた。
「……自らの命を投げ打ってまで、この艦に託した連中の、その最後の賭けを、無駄にするわけにはいかない」
その言葉は、誰に言うともなく、しかし確かな決意を秘めていた。
アーガスAIが、静かに、しかし力強く答えた。
『全面的に同意します、少佐。あなたの生存と、この艦の機能回復は、現在、私の最上位タスクとして設定されています』
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