第5話 ママの愛、パパの愛(完)

* * *


 さすがにそのまま横浜まで行くのは気が進まなかったので、その場でマルガレーテに連絡を取って仕切り直したいと伝えた。対魔協の事情を知っているマルガレーテは、祥子や晃を気遣い、ではまた、と言ってくれた。


 一週間ちょっと間を置いて、晃と祥子は土曜日に横浜に向かうことにした。今度こそ二人揃って亀有から電車に乗り、二人で東京駅での乗り換えをこなした。


 阿修羅ほど格が高い、神に近い力を持った妖魔が相手だったのだから、仕方がない。晃も、美咲も龍平も、阿修羅に拉致されたことを気に病んでいる祥子をそう言って慰めた。けれど、祥子は自分が晃の足を引っ張っていると思ってこの上なく落ち込んだ。まして目の前で晃の腕が吹っ飛ぶところを見てしまったので、しばらくショックで固形物が喉を通らなかったものだ。学校が試験休みに入ってくれて本当によかった。


「でも、親が子供のために戦うのは当たり前のことなんだから」


 京浜東北線の電車の中で、座席に座っている祥子が目の前に立つ晃の顔を見上げると、晃はそう言って微笑んだ。


「だいたいは美咲のおかげとはいえ、結果として俺が祥子のことを助けられたんだと思えば。お父さんの自尊心ってやつが満たされたのです。だからむしろ、かえって、ありがとな、祥子」


 自分は生まれた時からずっとこの人に守ってもらっているのだ。そして、自分はそれを当たり前に思って享受していい。それが照れ臭く、くすぐったくて、祥子は変な顔をしながらうつむいた。


 東京から横浜に向かう電車は大混雑だったが、体感で言えば半分くらいの乗客が横浜で降りた。晃と祥子はもう少し乗って移動した後、目的地で押し合いへし合いしながら電車を降りた。




 山手駅につくと、改札のすぐ外でマルガレーテに合流できた。


 すぐにわかった。周囲には観光客とおぼしき外国人もいたが、マルガレーテだけは雰囲気が違ったからだ。上質な生成きなりのワンピース、フリルのついたあまり実用的ではなさそうな日傘をたたんで肘に掛けており、肩からさげているのはスマホしか入らないタイプの薄くて小さなポシェットだけで他に何の荷物も持っていない。いかにも地元住民という感じで、風景に溶け込んでいた。


 彼女はふんわりとしたグレイヘアをショートボブにしていた。白い肌にくっきりと刻まれた二重のまぶたには、洋画の俳優でしか見たことのないような青い瞳が埋まっている。しわだらけの彫りの深い顔立ちも、いかにもヨーロッパの貴婦人といった風情だった。


「Hallo、晃、祥子」


 マルガレーテもすぐに晃と祥子に気づいたらしい。彼女は小走りで近づいてきて、両腕を広げた。祥子は、欧米人だ、と思って硬直したが、晃は自然と受け止めて、マルガレーテに抱き締められた。


「立派な大人の男性になったわね。最後に会った時には高校生の男の子だったのに」


 晃から体を離しつつ、マルガレーテが右手で輪を作る。晃は「さすがにそんな小さくなかったですよ」と苦笑した。


「で、こちらのお嬢さんが祥子ね」


 そう言って、彼女がこちらを向いた。晃にしたように腕を広げる。祥子は思い切って彼女に抱きついた。年老いて痩せた彼女の体は硬かったが、ハーブの香りだろうか、少しスパイシーな感じのいい匂いがする。


「やっと会えた。十五年ぶりだわ。すっかりレディになったわね、わたしが最後に会った時にはよちよち歩きでママとパパしか言えなかったのに」


 そんなことを言われるとなんだか面映おもはゆくて、祥子は唇を横一文字に引き結んで黙った。


「さあ、行きましょう」


 マルガレーテが祥子の手をしっかり握ったまま歩き出す。


「わたしの家はすぐそこよ。ちょっとでも早く魔法を受け取ってほしいから、どんどん歩いていくわね」


 彼女はかくしゃくとしていて、足取りも確かだった。祥子は彼女の危なげのない後ろ姿を追い掛けて歩き出した。




 たどりついたのは立派な洋館だった。下半分に蔦が絡みついているのがかえって趣があり、赤い煉瓦の屋根や柱もおしゃれで、グリム童話の世界に迷い込んだ気分になった。


 玄関を上がると、日本式に靴を脱いで上がるようにしているらしく、スリッパが用意されていた。晃と祥子はスリッパに履き替え、マルガレーテの後に続いた。


 室内も、一見雑然としているが、計算され尽くして物を並べられているのがわかる。うさぎやきつねの置き物、緑の絵画、花瓶の花、ひっくり返して干されているドライフラワーの花束、何もかもが可愛い。ヨーロッパの秘密のお屋敷だ。ここには魔女が住んでいるのだ。


 あたりを見回しながら、晃が訊ねた。


「グレーテは今ここで一人で住んでるんですか?」


 白いチェストの引き出しを開けつつ、マルガレーテが「そうよ」と答える。


「昔は娘夫婦、祥子のおじいちゃんとおばあちゃんと住んでいたのだけど、あの夫婦、糸織のことをめぐって喧嘩になったのをきっかけに離婚してしまったの。義理の息子はその後どうなったのかわからないけれど、娘はもっと繁華街のほうに引っ越したわ」

「糸織さんのことで喧嘩を?」

「糸織のことと言うよりは、晃のことかしら。わたしや娘は晃のことを家族としてもっと温かく迎えてあげるべきだと主張したのだけど、義理の息子は大事な糸織を妊娠させられてund so weiter, und so weiter...」


 晃が沈黙する。


「わたしは愛とはそういうものではないと思ったのね。娘はもう少し現実的で、生まれてしまったものは仕方がない、という言い方だったかしら。どちらにせよ小笠原家の人間は祥子をお世話してあげる方針でまとまっていたのだけど、山秋家の人間は最低だったわ」


 祥子の胸がつきりと痛んだ。自分の存在が母方の祖父に歓迎されていないと思うと、とても悲しかった。


 マルガレーテがチェストから小さなぬいぐるみを取り出した。ベージュの起毛タイプの布で作られたくまのぬいぐるみだ。体長は十センチもないだろう。頭にストラップがついている。


「わたしは――」


 マルガレーテの青い瞳が、一瞬曇る。


「山秋家の人間と藤牙家の人間が晃を糸織の葬式に出させないと決めた時、心底日本人に絶望したわ」


 胸の奥が、冷える。


「日本人の家意識が不気味すぎて、ドイツに帰ってやろうかと思った。祥子が心配だったし、わたしは当時大学でドイツ語の講師をしていて学生たちのことも気になったから、結局日本にとどまったのだけど」

「心配させちゃいましたね」

「でも一番つらいのは晃だったものね」


 祥子は隣に立つ晃を見上げた。


「お父さん、お母さんのお葬式、出られなかったの?」


 その問い掛けに、晃は苦笑しながら頷いた。


「骨も拾わせてもらえなかった」


 あまりにも無慈悲なことに、悔しくて悲しくて、涙があふれる。


「だから祥子を抱えて二人きりでみんなの前から消えようと思った。結局対魔協の差し金のせいで足がついちゃったんだけどな」

「そうだったの……」


 マルガレーテがさみしそうな笑みを浮かべる。


「きっとまた晃と会えるだろうから、その時渡せるようにと思って、糸織の形見をいくつかこの家に保管してあるの。あとで見てみてちょうだい」

「ありがとうございます」

「そして、祥子には、この魔法のくまさんを」


 白くて細い手が、くまのぬいぐるみを差し出した。祥子はそれを受け取った。

 表向きは、何の変哲もないぬいぐるみだった。縫い目は綺麗だが、手作りのようだ。硬めの綿が入っていて、布製品なのにぷにぷにした感触である。

 しかし、祥子はこのぬいぐるみから、霊力の波動を感じた。このくまの中には何か綿以外のものが入っている、と直感した。それは祥子にとっては不快なものではなかった。手に馴染む、優しい、温かな、柔らかいオーラだった。


「くまさんのお腹、何か入ってますか?」


 祥子がマルガレーテに問い掛けると、マルガレーテが「よくわかったわね」と答えた。


「糸織が最後まで身につけていたものです。これは絶対に晃に渡さないといけないと思って、お通夜の時に糸織の遺体から取り外したもの。何だと思う?」

「遺体から? えっ、何か、人体の一部ですか?」

「まさか。ヒントはアクセサリーよ」


 くまの腹を押しながら、祥子はしばらく考えた。綿の中に埋もれているアクセサリーの形はわからなかったが、祥子の中にはひとつ、愛し合う二人を象徴するものとして交わされるアクセサリーに心当たりがあった。


「指輪?」


 マルガレーテが「Wunderbar!」と言って親指を立てた。


 晃が真っ赤になった。


「ちょっと、それ! 俺が新宿の露店で買った三千円のシルバーのリングじゃないですか!?」

「うふふ、おぼえていたのね。それよ」

「なに、え、あんな安物が」

「でも糸織にとって人間の命の次に大切なものだったのよ。これほど念のこもっている呪具はないわ」

「まあ、そうかもしれないですけど……、えっ、めっちゃ恥ずかしい」

「何度でも言うわよ。糸織にとっては、とても大切なものだったのよ」


 マルガレーテの両手が、くまのぬいぐるみを持ったままの祥子の両手を包み込む。


「困った時はこのくまさんに願い事を念じてみてね。きっと祥子のママが聞き届けてくれるわ。だから、いつも、このくまさんと一緒に出掛けてね」


 祥子は試しにぬいぐるみに念を込めてみた。すると、祥子の体内にあった熱くて制御しがたかった何かがぬいぐるみに吸い込まれていくのを感じられた。ぬいぐるみが祥子の力を受け止めてくれている。


「これはきっとわたしの人生最後の魔法よ、祥子」


 マルガレーテがにっこり笑う。


「パパも、ママも、祥子のことを愛しているわ。そして、わたしも。そのすべてが、そのくまさんなのよ。それを、決して、忘れないでね」


 祥子は大きく頷いた。そして、くまのぬいぐるみをぎゅっと強く抱き締めた。


 窓の外は快晴の、灼熱の青空だった。梅雨はとうとう完全に終わったのだ。祥子の新しい夏が、始まろうとしていた。






<完>


あと1話しょうもないおまけがあります

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