第5話 ごめんなさい

 * * *


 祥子が板垣に連れられて病院にたどりついたのは、午後十一時頃のことだった。暗い病院の廊下では、手術中という赤い表示と非常口という緑の表示だけが光っていた。

 廊下に置かれた長椅子に、疲れ切った顔の若者が三人、座っている。一人はこの前対魔協の本部のオフィスに行った時に会って一緒に食事をした谷青年で、もう一人は長い金髪のツインテールでどろどろに溶けた化粧をした女性で、最後の一人は黒髪のショートヘアに眼鏡をかけた女性だった。いずれも怪我をしているらしく、谷は首に包帯を巻き、金髪の女性は頬に大きなガーゼをあて、黒髪の女性は三角巾で左腕を吊るしていた。


「ちょっと、あんたたち」


 板垣が三人に話し掛ける。


「ずっとここにいたの? あんたたちも怪我してるんだから、自宅に帰って休みなさいって言ったじゃないの」


 黒髪の女性が「そうです」と小声で答える。


「私たちのせいで晃さんを新宿に呼び出すことになったんだと思ったら、いても立ってもいられなくて……。晃さんの意識が戻るまでは……」


 祥子の背中が冷えた。つまり、晃の意識はまだ戻っていない、ということだ。


 板垣から話を聞いてから、ずっと手が震えている。止まらない。呼吸もうまくできない。


 怖い。


「お父さん、そんなに大怪我してるんですか」


 金髪の女性が小さな子供のように泣き出した。


「ごめんね祥子ちゃん、ごめんね……! あたしが余計なことしたせいで……! 晃さんが死んだら、あたしのせいだ……!」

「やめろよ」


 谷が悲痛な表情をする。


「例えでも死んだらなんて言うなよ……縁起が悪いだろ……! まして祥子ちゃんの前で……」


 彼の目からも、大粒の涙が流れてきた。隣二人につられたらしく、黒髪の女性の目にも涙が滲み、眼鏡をはずして目頭を指先で押さえた。


 廊下の奥から足音が聞こえてきた。


「祥子も来たのか」


 聞き慣れた声だったので、ちょっとだけ安心してそちらのほうを向いた。案の定、龍平がこちらに向かってきていた。澤課長もついてきている。


「ごめんな祥子、もう寝る時間だったよな。おおごとになっちゃったな」

「いえ」


 それでも、手の震えは止まらない。


「あの、お父さんはどういう状態なんですか?」


 澤課長は微笑もうとしたのか、唇の端を引きつらせて「祥子ちゃんは知らなくていいよ」と言った。けれど、龍平は強張った顔で「祥子ももうガキじゃねえんだから」と言った。


「腹の中がぐちゃぐちゃだ。腸のほとんどがだめになった。肝臓もやられてる。出血量が多い」


 血の気が引く。


「それ、治るんですか?」

「現代医療じゃ無理らしい。今美咲に連絡を取ってる」


 美咲は治癒能力者だ。彼女なら内臓をもとに戻すことが可能のはずだ。


「美咲さんはどうしてるんですか?」

「京都に出張中だ。奈良で妖魔が火事を起こして、退魔師が複数火傷してな。それを治してるところだった」

「戻ってこれないんですか」

「新幹線の終電はとっくに過ぎてる。美咲の体に負担はかかるが、非常事態なんで空間転移能力者を探すことにした。でもこれも今ちょっと難航中だ。晃のやつ、運が悪いな」


 倒れそうになった祥子の腕を、澤課長がつかむ。


「大丈夫だ、祥子ちゃん。僕がちょっと試してみるからね」

「澤課長、美咲さんの上司なんですもんね」


 しかし、この前食事に行った時、澤課長は冗談めかして力が弱くなっていると言っていたはずだ。もう人の役に立てる程度の力を感じることができず、あえて役職に上がって現場から遠ざかっているのだ、とのことだった。


 背後から音がした。振り返ると、手術室の扉が開くところだった。青い手術着を着た男性が二人、同じく女性が三人出てくる。そして、ストレッチャーを引いてくる。


 祥子は恐ろしくて泣くこともできなかった。


 ストレッチャーに乗せられていたのは晃だった。酸素マスクをつけられ、目を固く閉じている。顔がむくんでいる。青白く見えるのは照明のせいであってほしい。


「どんな状態ですか」


 龍平が話し掛けると、医者と思われる男性が答えた。


「ご家族にご説明します」

「家族が子供しかいないんです。高校生の娘が一人」

「奥様やご実家のご家族は?」

「いないんです」


 珍しく龍平が歯を食いしばり、声を震わせる。


「いないんですよ。あいつには祥子しかいないんです」


 澤課長が口を挟んだ。


「僕は彼の上司です。業務上の怪我について把握しておく必要があります」


 半分嘘だったが、医者はしぶしぶ頷いた。


「意識はこのまま戻らないと思います。皆さん話し掛けてあげてください」


 祥子はその場にへたり込んだ。そんな祥子を、板垣が抱き締めてくれた。


 澤課長が「そんな」と呟く。


「晃がいなくなったら、日本が滅亡しかねないのに」


 長椅子に座っている金髪の女性の泣き声が激しくなっていく。


 龍平が壁にもたれた。彼もくたびれた顔をしていた。


「大丈夫だ、祥子」


 口元だけで笑う。


「お前は俺が引き取るから、心配しなくていい」


 祥子は絶望した。


 もう晃と一緒にいることはできない。


「祥子ちゃん」


 谷が立ち上がった。そして、祥子の腕をつかみ、引っ張った。


「行こう。祥子ちゃんが話し掛けたら目が覚めるかもしれないし」


 板垣も「そう、そうね」と言って祥子の腰を支える。


「とにかく、話し掛けてあげて。晃は世界じゅうで一番祥子ちゃんが好きなんだから」


 祥子はただ頷いて、引きずられるようにしてストレッチャーの後をついていった。


 たどりついた先は集中治療室というプレートが掲げられた部屋だった。他の患者はいないようだ。祥子はそのまま中に入った。


 ベッドに、無数の線でつながれた晃が横たわっている。いろんな機器が乱れた音を立てており、祥子の不安を増幅させる。


「手を握ってあげて」


 近くにいた看護師と思われる女性にそう言われた。祥子は怖かったが、早くそうしなければならない気がして晃の手をつかんだ。刀を握る、硬くて分厚い手だ。


 もうこの手に触れることはないかもしれない。


「お父さん」


 晃の顔を見る。酷い顔だ。いつもの美しい顔からは想像もできない腫れた顔だ。


「ごめんなさい」


 そう呟いた途端、涙があふれた。


「わたしが変なこと言ったから。あんなこと言わなかったら、お父さんは新宿に行かなかったかもしれないのに」


 不安や恐怖、怒りや悲しみといったものがごちゃ混ぜになった感情が、込み上げてくる。


「ごめんなさい。お父さん、ごめんなさい……!」


 澤課長が晃のもう片方の手をつかんだ。治癒能力を使おうとしたのだろうか、澤課長の手がほんのり白く光る。だが何の効果も見られない。澤課長が「くそっ」と呟いた。


「糸織が生きていたら」


 その言葉を聞いた途端、祥子の心を何かが貫いていった。


「そうだ」


 目を大きく見開く。


「お母さんが生きていたら」


 糸織は魔女の血を引いている、と聞いていた。


 その糸織の娘であるはずの祥子にも、できることはないのだろうか。


「わたしにも治す力はないのかな」


 すると、龍平が「考えるな」と言った。


「糸織が赤ん坊の頃のお前に力を封じるまじないをかけた。晃が封印することを望んだんだ。お前を妖魔退治に巻き込まないために」


 初めて聞く話だった。


「じゃあ、そのまじないが解けたら、わたしにも力が使えるかもしれないってこと?」


 そう問い掛けた祥子を見て、板垣が溜息をついた。


「おばちゃんが解呪してやろうか」


 希望の光が、見えた。


 龍平が「やめろ」と少し強い語調で言う。


「晃が望んだんだぞ。晃が糸織にやってくれと言ったんだ。その晃を治すために解呪するなんて本末転倒だろ」

「手段を選んでる場合じゃないでしょ。藤牙晃が死んだらどれだけの損害が出ると思ってるの。祥子ちゃんだって、藤牙家にも山秋家にも戻れないんでしょ? まだ三十五で独身のあんたが面倒見れるわけないじゃないのよ」


 祥子は全力で「お願いします」と訴えた。


「わたし、後でお父さんにいっぱい怒られてもいいです! いっぱい謝ります」


 龍平はしばらく祥子の顔を見つめていた。祥子も龍平の顔をにらむような目つきで見つめ返した。


 ややあって、龍平が息を吐き、ちょっと笑った。


「そういうところ、糸織そっくり。どうせ俺が止めても聞かないんだろ」


 祥子も、ちょっとだけ笑った。


「じゃあ、やるよ」


 板垣が祥子に近づいてくる。手を伸ばし、額に触れる。その手が金色に光り輝く。


 じわじわと、体が熱くなってきた。胸の奥に痛みを感じる。何かが引きちぎられる痛みだ。自分の体の中で何かが起こっている。でも我慢だ。晃を助けるためにはこれに耐えるしかないのだ。


 頭の中に、声が響いた。


 ――祥子。


 若い女性の声だった。


 どこか祥子自身に似ている声だった。


 目を、閉じる。


 思い出すことはできないはずの遠い記憶が、よみがえってくる。


 まぶたの裏に、写真で見たことのある赤茶色の髪と瞳の少女の顔が浮かんだ。緩く微笑み、祥子を抱きかかえている。


 ――この先何があっても、祥子のことは、ママが守ってあげるからね。


 祥子は、お母さんごめんなさい、と念じた。


 体を縛っていたものが、爆散した。


 目を開けた。


 集中治療室全体が白くまばゆい光で満たされていた。


 晃のほうを見た。


 顔のむくみが引き、血の気が戻ってきた。周りにつながれた機器の音が、一定のリズムに変わった。


 祥子の顔に、本物の笑みが浮かんだ。


 晃のまぶたが、少しずつ、持ち上がった。


「あー……」


 ゆっくり、まばたきをする。


「糸織さんの霊気の匂いがする……最悪の気分だ」


 祥子は晃に抱きついた。晃は、自分の口元を覆っていた酸素マスクをはずして、祥子の頭を撫でた。


「お父さん、お父さん」

「勘弁してくれよ……」


 若い職員三人が歓声を上げた。澤課長と板垣がその場に崩れ落ちた。


「もうもとには戻せねえぞ」


 龍平が晃の顔を覗き込む。晃が「わかってる」と言って自分の顔を手で覆う。


「俺が悪かった……。祥子を守るためには俺は死んだらいけないんだな」


 祥子は晃の胸に頬を押しつけた。


「お父さん、ごめんなさい。わたし、お父さんに意地の悪いことばっかり言って。お母さんがしてくれた封印も解くって言って。全部全部わたしが悪いの」


 晃が「いいんだ」と溜息をついた。


「カツ煮食べた? 卵緩いから早く食わないと傷んじゃう」


 祥子は上半身を起こして、笑って「うん」と頷いた。


「おいしかった」




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