第3話 新宿区役所前 前編【晃視点】

 東京駅から中央線に乗って新宿駅に向かった。


 新宿駅はひどい瘴気だった。晃の生活は東京駅から見て北東部だけで完結しているので、西のほうがこんなに荒れ果てていることに気づいていなかった。もっと早くこんなに臭くて重苦しい空気に覆われていることを知っていたら、もう少しまめに掃除しに来たのに、と顔をしかめる。

 対魔協は地域ごとに課を編制している縦割り組織だ。したがって、一般職員、しかも時短勤務の晃が責任を感じる必要はない。だが、道理で幹部たちが晃に昇格してもっと広い範囲を統括してほしいと懇願してくるわけだ、と納得する。晃はもはや山手線全部を世話する勤続年数になったのだろう。いつまでも平職員でいられると思ったら大間違いなのだ。


「お前、ちゃんと働いてるのかよ」


 晃が龍平にそう問い掛けると、龍平が「申し訳ねえな」と笑った。


「俺はお前ほど有能じゃないんでな。しかもぴよぴよちゃんたちのお世話もあるから、ぴよぴよちゃんたちのペースに合わせてやってたらもう間に合わねえ。基本給が上がってくれればもうちょっとやる気出るんだけど」

「俺が推薦してやるよ。相模さがみ龍平くんは超スーパーウルトラ有能で藤牙晃よりよっぽど面倒見がいいってよ」

「いやいや、新人育成という点ではガチで人間を赤ん坊から育ててる藤牙くんには敵いませんよ」


 龍平がスマホで電話をかけ始めた。音量を絞っているのか、何も聞こえてこない。晃は足元を転がるランク外の小さな妖魔を見つめて通話が終わるのを待った。

 妖魔のランク付けはD級に始まりAAA級まである。D級は知能がほぼなく、攻撃力は犬猫程度なので、対魔協所属の退魔師ならみんな倒せるレベルだ。A級以上は基本的に退魔師も上級以上でないと相手をしてはいけないことになっている。AAA級になるとその土地で名前がついている格が高い妖怪ばかりで、討伐する退魔師のほうが何人も死者を出すことになる。

 D級未満の妖魔はそこらじゅうにごろごろいるが、人間に影響を及ぼさないので、退治しても給与に反映されない。晃は暇つぶしに駅構内から出てきたランク外の丸くて小さくて黒い妖魔を踏んだ。妖魔が弾け飛ぶ。足をどかしてやるとまた影のようなものが集まって、小さな玉に戻って雑踏に消えていった。


 龍平のスマホが鳴った。折り返しかかってきたようだ。すぐに出る。


「あ、もしもし、谷? 今どこにいんの? 俺は今晃と二人で新宿駅東口の喫煙所の近く。晃がお前のケツ拭いてくれるってよ。晃は家出したらしい。今夜ひと晩俺とおデートしてくれるってさ」

「余計なこと言うんじゃねえよ」

「あー、了解。すぐ向かうわ」


 龍平が通話を切った。


「区役所の近くでAA級に遭遇して逃げ惑ってるらしい」

「賢明な判断だ。谷じゃ殺されちまう」

「どこかで待ち合わせする?」

「新宿の区役所だろ? パセラからパセラまで結界張ればいいじゃん」

「いいじゃん、じゃねえんだよ。そういうことうちでは藤牙晃さんしかできないわけ」

「なんだよ、お前、そんな雑魚だったのかよ」

「え、俺が悪いの? これ」


 二人は軽口を叩き合いながら区役所のほうへ向かって小走りで移動し始めた。




 区役所に近づくと、すさまじい瘴気が靖国通りの道路上に漂っていた。強力な妖魔が移動した跡だ。ここまで濃厚な痕跡を残すとなると、相手は只者ではなさそうである。そんなに頻繁に遭遇するタイプの妖魔ではない。ようやく中級退魔師にステップアップした谷など瞬殺されかねない。


 それでも谷はなんとか結界を張ることには成功したようだ。区役所通りに近づくと、ピカデリーのあたりにうっすら赤い膜が張られていた。谷の波動を感じる。最低限マニュアルどおりのことができるようになったのである。晃は親の気持ちで「偉いぞ谷」と呟いた。


 対魔協の退魔師の結界は霊力が一定未満の人間を締め出す。締め出された人間は結界の効果で亜空間に飛ばされ、記憶が消える。一定以上の人間――基本的に退魔師――だけが意識を保つことが可能だ。

 とはいえ、本来は結界を張った本人が意識的に出入りを把握していなければならない。許可がなければ、普通は、退魔師でも入れないものである。

 しかし、晃はそういうルールを守る気がないので、谷の結界の一部を拳で殴ってぶち破った。龍平は引いた顔で「よっこらせ」と結界の残骸をまたぐ晃を見つめていた。


「え……俺の結界でそういうことするのやめてね」

「俺に破れない強度の結界を張ればいいじゃん」

「それができる人日本に何人いるんだよ」


 谷はすぐに見つかった。区役所の前からゴールデン街に通じる道の途中で、壁にもたれかかってうずくまっていた。手では霊力でできた巨大な斧を握り締めているが、斧に付着した瘴気はわずかだ。


「おーい、谷くーん」


 龍平が声を掛けると、谷はすぐ顔を上げた。顎に赤い液体がべっとりとついている。赤いということは、妖魔ではなく、谷自身の血液である。どうやら耳の下を切ったようだ。もう少しで首を切られるところだったということだ。危なかった。


「龍平さん、晃さん」


 谷の目から大粒の涙が滴った。龍平の足元にすがりつく。龍平が「泣くなよ、男だろ」と古臭いことを言う。


「し、死ぬかと、思った」

「もう大丈夫、天下の藤牙晃さんが来てくれたからよ」


 その藤牙晃が、谷が一生懸命張った結界を勝手にぶち破った件については、龍平も口にしなかった。谷は何も気づいていないようだ。それだけ追い詰められているのか、もともと鈍感なのか。


 ふと、殺気を感じた。


 顔を上げると、区役所の上のほうから何かがこちらに向かって飛び降りてきたところだった。


 あの高さからこの殺気を放ちながら降りてくるということは、妖魔だ。


 格が高く、知能もある妖魔のようだ。道路上には瘴気を撒き散らしておきながら、今は何の匂いもしない。谷をおびえさせるためにわざと瘴気を消しているのだろう。知能犯で、愉快犯だ。


 落ちるスピードは人間の飛び降り自殺と変わらないようである。それなりに重量のある妖魔らしい。


 晃はそこまでほんの数秒で把握した。


「空を閉ざせ」


 晃がそう唱えると、青白い光が周辺を包んだ。晃が結界を展開したのだ。晃の霊気が閃光を放つ。


 空中で妖魔が一旦停止した。


 晃の結界が爆発的に広がる。半径およそ二百メートル、宣言どおりパセラ新宿本店からパセラ新宿靖国通り店くらいまでである。結界の中にいた通行人と区役所職員が消える。目に見える範囲の人間は晃、龍平、谷だけになる。おそらく谷に同行したのであろう下級の退魔師の気配がそう遠くないところに二人分あるが、目視はできない。


 落ちてきた妖魔は一回晃の結界の天井にぶつかって跳ねたが、そこはさすがAA級と言うべきか、すぐに結界の中に侵入してきた。


 妖魔は人間の女の形をしていた。昔流行った成人式の花魁風のような派手な着物を着ている。赤い眼球は明らかに人間のものではない。


「あんた、強そうだね」


 地面に降り立った彼女が、露骨に嫌そうな顔をしてそう言った。声も人間の若い女性に近い。


「久しぶりに霊力の高い人間に会えたから、ゆっくりいたぶって食ってやろうと思っていたのに。あんたたち、さらに格の高い退魔師だろう」

「ご名答」


 無駄話に付き合ってやる筋合いはない。


 左の拳を軽く握った。そこに熱が集まり、青い光を放ち始める。おのれの霊気をつかんだ。そう確信を持った途端、左手に鞘が現れた。晃の霊力を固めた刀の鞘だ。生えてきた柄を右手で握る。


 刀を抜き去る。


 青く光る刀身を見て、妖魔が驚いた顔をした。


「まさか、あんた、藤牙晃かい」


 晃は答えることなく、大きく一歩踏み込んだ。






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